番外編・ティックの忘れもの
ある日の昼下がり。
時計塔の中では、いつものようにティックとタックが針を動かしていた。
ティックは短針として、ひとつひとつの時をしっかり刻むのが役目だ。
けれどその日、彼は妙に落ち着きがなかった。
「ティック、どうしたの? なんかぼんやりしてる」
タックが長針をくるんと回しながら言った。
「えっ……あ、いや……」
ティックは言葉を濁した。いつもなら間違えずに時を刻む彼が、今日は少し遅れてしまったり、早く進んでしまったりしている。
「おや?」
と、鐘の精ベルが声を上げる。
「今、鐘がほんのすこし遅れて鳴ったわ。こんなこと、初めてじゃない?」
タックが目を丸くする。
「もしかしてティック、忘れものでもしたんじゃないの?」
その一言にティックはぎくりとした。
そう、今朝からずっと気になっていたことがあるのだ。
◇
実はティックは、朝起きたときに“何か大切なこと”を思い出せずにいた。
それが何なのか分からない。けれど、胸の奥がもやもやして、針を動かすたびに不安になる。
「忘れもの……たぶん、そうかもしれない」
ティックはしょんぼりとうつむいた。
「でも針がずれたら、町の人が困るじゃないか」
タックが少し強い声で言う。
「ごめん……」
ティックはさらに小さくなってしまった。
その様子を見て、ベルがやさしく首を振った。
「いいのよ、誰だって忘れるときはあるわ。大事なのは、その忘れたものを探そうとすること」
「探す……でもどうやって?」
ティックは困惑した顔をした。
「よし、こういうときは“塔の散歩”だ!」
タックが元気よく言った。
「動かないで悩んでても、ぜんぜん見つからないからな!」
◇
三人は時計塔の中を歩いてみることにした。
歯車の部屋、古い振り子の間、長い階段。いつもは通りすぎる場所を、今日はじっくり見て回る。
「ここ、油差しのにおいがする」
「ほこりがこんなに積もってる……」
「わぁ、ここから町が見下ろせるんだ!」
小さな発見をしながら歩いていると、ティックの心のもやもやが少しずつ和らいでいった。
けれど肝心の“忘れもの”は思い出せないままだ。
「やっぱり、僕には分からないのかな」
ティックが立ち止まると、ベルがそっと彼の肩に手を置いた。
「思い出せないことよりも、いま一緒に探してる時間のほうが大切だと思うわ」
その言葉にティックははっとした。
「……そうか、僕は“時間を一緒に過ごすこと”を忘れてたんだ」
◇
ティックは目を大きく見開いた。
「僕の役目はただ針を動かすことじゃない。タックやベル、クロウと一緒に“町の時間を作る”ことなんだ」
タックがにやっと笑った。
「だからズレたんだな! 一人で抱え込むから忘れちゃうんだよ」
「そうかもしれない……」
ティックはようやく笑顔を取り戻した。
その瞬間、不思議なことが起こった。
塔の奥の古い歯車がカチリと音を立て、長い間止まっていた小さな針が一瞬だけ動いたのだ。
「見た!? いま動いたよ!」
タックが叫ぶ。
ベルがうっとりと目を閉じた。
「きっとティックが“本当の時間”を思い出したからだわ」
◇
その晩、鐘を鳴らす時刻が来た。
ティックはこれまでで一番確かなリズムで針を進め、タックと息を合わせた。
ベルが鐘を打つと、ごーん、ごーんと深い響きが夜空に広がる。
雪をまとった町に、やわらかな時の音が降りそそいだ。
「忘れものを思い出せた?」
タックが横で尋ねる。
「うん。僕はもう忘れない。“ひとりで動くんじゃなくて、みんなと刻む時間”こそが大事なんだ」
ベルが嬉しそうに歌を重ねた。
「ティックの時間は、わたしたちと一緒に鳴っているのね」
その夜、塔の窓から見た雪景色は、まるで一枚の絵のように静かで美しかった。
ティックは胸の奥でつぶやいた。
『もうひとりで抱え込まない。時間はみんなで作るものだから』
そして、時計塔の仲間たちは再び穏やかなリズムに戻っていった。




