第35話 目に見えない憎悪の線
地図というのは、素晴らしいと思う。その通りに、私は今移動できている。地図上の世界と、今上空から見える形がちゃんと一致している。これはニンゲンが作ったものらしい。空も飛べないのに、どうやったんだろう。
長い時間を書けて、作ったのだと想像に難くない。
そして。同時に。
実際に見える世界には無いものが、地図にはある。これがあるから、残念に思う。
境が。ニンゲンが、彼らが勝手に引いた、国境がある。争いの種。敵と味方とを差別するための、線。
◆◆◆
一応、町中に降りるのはやめておこうと、町と町の間にある街道からさらに外れた茂みに着地した。他に飛んでいるエルフは居ない。
ここから、西に進む。街道に合流して、北へ。エソンという町を目指す。そこに、ルーフェの言う案内人が居る。
「……街道」
綺麗に削られて磨かれた石が敷き詰められた大きな道。馬車3台分の幅がある。それがずっと、南北に続いている。沿道には数十メートル置きに小さな柱が立っている。
知識では知っている。これは夜間でも通行できるように燭台になっているのに加えて、四方に鏡の板が取り付けられている。日中は陽光を反射させて、魔物除けになっているのだ。
「……つくづく、素晴らしい発明ね。森ではなく平地で暮らすニンゲンの知恵」
てくてくと歩いていると、1台の馬車とすれ違った。馬は2頭。荷車からは金属の擦れる音。きっと武器だ。兵隊か何かだろうか。ああ、旗も刺さってある。あの紋章は……。知らない。森で覚えた、先進国の旗ではないらしい。
「…………」
ガラガラと。馬車の音。
お互いに通り過ぎる時に。
「……?」
視線を感じた。荷車から、私を覗いたらしい。それがいやに、不快だった。男性の視線だ。悪意……いや。敵意を感じた。
私は地獄耳の魔法を、使った。
◆
「おい……」
「なあ、やめとけって。もうここは南シプカだぞ」
「……ちっ。ヒトもどきが。魔物除けに引っ掛からねえ分タチが悪い。ヒトの振りして街道歩きやがって」
「聴こえるぞ。エルフは耳が良いんだから」
「ていうかおかしくねえか? 正典通りなら魔物を見たら即『浄化』しなきゃいけねえだろ」
「落ち着けって。今やったら南シプカの法律はあのエルフを守るんだ。耐えろ。俺らが今あのエルフ1匹の為に捕まったら駄目だろ」
「…………ちっ。クソが」
◆
「…………神正教……!」
その低い声色と。憎悪の声音と。信じられないくらいの怖い言葉に。
身の毛がよだった。汗が噴き出した。
ガラガラと。音は小さくなる。引き返してきたりはしない。心臓が跳ねている。あの、私をレイプした男と、その光景がフラッシュバックする。シチュエーションは違うけれど。恐怖として私の身体に刻まれている。
がくりと膝を突いた。
「……宗教、よね。森には無かった。いえ、ニンゲンからすれば、あるのでしょう。エルフの信じる宗教と定義して。……ニンゲンの、最も有名で、強力で、度し難い特徴のひとつ。宗教」
知識では。当然知っている。
神は人を創った。
神は人に、生きるために獣を狩るように導いた。
人は神の姿を模していた。
獣は、人になろうと悪意を持って人に近付き、人を騙したので、神の怒りを買い、人の姿になり損なった。
この世は人のものである。獣は悪魔に魂を売り、人の世を奪わんとする。
神話の時代から、この戦争は続いている。人は駆逐しなければならないのだ。我が命、妻の命、子の命を獣から守るために。
「…………神が正しいという教え。……私はエルフだから、彼らの言う『人の姿になり損なった獣』に入っているのね。彼らからしたら、亜人は魔物と同一視。……オルスで見た『普通のニンゲン』より、危険な存在ね」
あれは、主義者ではなく、宗教者。絶対に捕まってはいけない。確実に殺される。明確に、私達を殺すことを目的にしている人達。
境を作るのだ。線を引いて。こっち側は味方。あっち側は敵。敵は殺し尽くさねばならない、と。ニンゲンとエルフの間にも、線が引かれている。地図にも無い、目に見えない線が。




