トルストイ「イワン・イリッチの死」 再読
文学とはそもそも何かと言うと、単純には個人の情感やその行動を記したものだという事になる。この定義で考えていくと、現代においては文学めいたものが無数に存在する。それらは確かに、それぞれの個人を描いている。しかし、それらは統一感に乏しく、一体何が正しいのか、どういう道を進めばいいのか、という点に関してはそれぞれの個人の党派的利害の駆け引きがあるばかりだ。
こうした党派的利害の争い以外にいかなる指針も現代においては存在しないので、文学なるものも混迷の中に叩き込まれて、文学を知らない人からは唾棄されるべき存在となっている。
私は(文学に興味があるけどどこから読めばいいかわからない)という人には、この「イワン・イリッチの死」をおすすめする事にしている。この作品はごく短い作品で読みやすく、筋も単純であり、また文学とは何か、その偉大さが十分感得できるものとなっているからだ。
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「イワン・イリッチの死」はごく平凡な物語だ。平凡な官吏が病にかかって死ぬ。ただそれだけの話だ。
トルストイは、主人公のイワン・イリッチはどこにでもいるごく平凡な人物であると入念に強調して描いている。すなわちこれはどこかの誰かの話ではない。どこかの誰か、そうした異常者の話ではなく、紛れもなく私達自身の話である。端的に言えば「身につまされる話」という事になる。
私は、ネット上に茫漠と広がる様々な文章、物語、小説、思想の切れ端などを斜に眺めみて、いつもそれらが私とは全く関係のない誰かの話であり、どうだっていいものだという風に感じてきた。
「いや、あなたがそのように考えるのは当たり前の事でしょう。だってあなたは実際、他人なのだから」
現代の賢い人々は即座にそう返すだろう。しかしながら「イワン・イリッチの死」という作品はそうではない。トルストイが強調しているように、そして私自身が感じたように、これは私達みんなの物語である。
文学を否定する者も、文学を肯定する者も、そして文学を全く知らず軽蔑する人々をも、偉大な文学作品は包括する。
私はいつも思うのだが、偉大な文学作品においては、そうした作品をさかしらに批評している小才は、その作品の中に既に描きこまれている。それも、主人公やヒロインといったメインの人物ではなく、背景の端役として。
例えばアマゾンレビューに
「仕事をする能力が無いのに仕事をする能力がある健常者のフリをして裁判官に居座り続けた人間の末路」
というタイトルのレビューがある。このレビューの結論は
「つまり小説の中でトルストイは、仕事をする能力が無いのに仕事をする能力がある健常者のフリをして裁判官に居座り続けた主人公をぶっ殺すことによって、天誅を下し、世の中の平和を実現しようした。」
というめちゃくちゃなものである。
トルストイがイワン・イリッチについてしつこく描いているのは彼が平凡な人物だという事だ。平凡な人物がいかなる虚偽の中に生きているのかをトルストイは剔抉していく。この剔抉に、おそらくは普通の読者は耐えられないだろう。彼らは、彼らの本質を批判されているのである。それを無意識に感じる人々は、おそらくこの作品を、何か適当な理屈をつけて否定するだろう。
トルストイがイワン・イリッチを通じて描いているのは平凡人が虚偽の中で生きている、という事実だ。それは特に死の問題において現れる。
イワン・イリッチは病に臥せり、死に近づいていく。これはごく平凡な人に訪れる平凡な死であり、ほとんどの人が避けられないものである。これは特異な死ではない。あくまでも平凡な死である。トルストイはこの事を丁寧に描いている。この死が、特殊な人間に訪れる特殊な死であるなら、作品のテーマは曇ってしまうだろう。
この死を直視できるのは、まだ大人ではない中学生の息子と、地位の低い召使いのゲラーシムだけである。
それ以外の上品な、礼儀を知った大人たちは誰もイワン・イリッチの死という事実を直視できない。彼らは同情している振りをしながらも、臭い犬を扱うかのように彼を扱う。腐臭を発して死んでいく人間とは、生きている人間からすれば邪魔者でしかない。
もちろん、平凡な官吏であるイワン・イリッチもまた、他人の惨劇、他人の死に対してはいつもそのような態度を取り続けてきたのであった。その復讐を彼は果たされているのである。
上記、アマゾンのレビュアーは、イワン・イリッチという人物をレビュアー本人とは全く違う存在として取り扱っている。イワン・イリッチの恐ろしい死を目の前にして「仕事をする能力が無いのに仕事をする能力がある健常者のフリをして裁判官に居座り続けた」事が罪であると糾弾している。
もしそうなら、そのような罪を犯してはいないレビュアーのような人物は、イワン・イリッチのような悲惨な死を迎えなくてよい、という事になるだろう。レビュアーによれば、イワン・イリッチの死は因果応報という事になるし、そうした因果がなければ、あのように苦しんで死ぬ必要はないという事になる。
ところで、トルストイが作品の中で入念に批判しているのは、このような傍観者的態度にほかならない。
トルストイが批判的に描き出しているのは「仕事をする能力が無いのに仕事をする能力がある健常者のフリをして裁判官に居座り続けた」者ではなく、他人の死の問題について、それはあたかも自分には絶対身に降りかからない出来事であるかのように振る舞っている偽善的な市民なのだ。
そしてそうした市民とは私達の事であり、イワン・イリッチの事であり、イワン・イリッチの妻であり、イワン・イリッチの娘、その婚約者、イワン・イリッチの同僚達である。
死の問題についてすぐに「不謹慎」という言葉を使いたがる現代の人々は決して死を直視できないだろう。不謹慎だ、かわいそうだ、あるいは、その人物を死に追いやった様々な理由に腹を立て、あるいは自分達の心優しさや、正義心をアピールしながらも、その影で一人で死んでいくぼろぼろの個人を彼らは決して見たりはしないだろう。
ほとんどの人間は死を見ない。涙や憤激によって視界は意図的に曇らされる。死はいつも覆いをかけられている。
私達は死の問題を避けて通る。だが、イワン・イリッチ本人が誰よりもそのような人物だった。
【かつてキゼヴェーテルの論理学で習った三段論法の一例ーーカイウスは人間である、人間は死すべきものである、従ってカイウスは死すべきものである、という命題は、今まで常に正確このうえないものと思っていた。しかし、それはただカイウスのみに関することで、彼自身にはぜんぜん関係のないことであった。それはカイウスなる人間、つまり一般に人間の問題であるから、したがってまったく肯綮に当たっている。しかし、彼はカイウスでもなければ、一般に人間でもなく、どんなときでもまったく他のものと異なる特異な存在なのだ。】
【カイウスは、実際、死ぬべきものである。したがって、彼が死ぬるのに不思議はない。しかし自分にとっては、無数の感情と思念をもったワーニャにとっては、イワン・イリッチにとってはーーぜんぜん別問題である。自分が死ななければならぬというようなことは、しょせんあり得べきはずがない。それはあまりに恐ろしいことである。】
(「イワン・イリッチの死」p61 岩波文庫 米川正夫訳)
ここでは問題が極めて正確に抽出されている。何が問題かはあまりにも明らかである。
しかしながら上記のレビュアーはイワン・イリッチを、あたかも教科書に出てくる「カイウス」のように取り扱う。
カイウスは死んでいいだろう。カイウスは他人なのだから。同じように、イワン・イリッチも死んでいい。彼は仕事ができないのにできる振りをしていたのだから。そこに罪がある。ところがこの"私"は違う。私は、そういう愚かな人間とは違うーーというわけだ。
ところで、ここに書かれているのはまさにそうした事である。そうした傍観者的態度である。それゆえ、この作品を自分自身だと思わずに読む者は、おそらくは運命のどこかで自らの死に遭遇しなくてはならないだろう。彼は自分の死を避けて通った。
文豪の作品を否定するのは簡単だ。誰でもできる。だが、文豪がえぐり出した真実を避ける事は誰にもできない。私達はみんな死ぬ。それも、カイウスやイワン・イリッチのように。しかしいつも私達は、カイウスやイワン・イリッチをどこか別の誰かだと考え、イワン・イリッチがそうであったように、自分だけは特別で他人とは違った存在だと考えたがる。
ここではその真実が描かれているのである。だからこの作品は「文学」なのだ。だからこそ、私はいかなる政治的党派性や、現代のいかなる軽薄な潮流にも身をまかせる事はなく、この作品を自分自身の作品だと感じ取れるのだ。
これは、私が普段みる多くの文章とは全く違う態度だ。文豪のみが、ロシアの昔の文豪だけが、恐ろしく不器用に、生真面目に、「人間いかにして生きるべきか?」という問いに、文学という形で答えようとしている。
トルストイの筆は「文学」という原稿用紙臭い雰囲気や、小さな政治的党派性にとどまっていない。それ故に、晩年のトルストイが自分の作品も含めて文学全体を否定してしまったとしても、それもまた驚く事ではない。
発狂したゴーゴリは自らの「死せる魂」第二部を暖炉で焚べてしまった。ロシア近代文学においては、世界のあらゆる問題は「文学」という形式で解決する事が求められていた為に、その理想、その諸矛盾は文学という小さな枠組みを遥かに越えていた。容量を遥かに越えた巨大な問題が文学という小さな形式に無理やり押し詰められていたのである。
それ故に、ロシア近代文学は、ただの文学青年の妄想を越えた遥かに偉大な作品を多く生み出したのだった。しかしまた同時に、その為に、ゴーゴリやトルストイがついに文学を否定するようになったとしても、おかしな事ではない。ここでは文学を越えた遥かに巨大なものが狙われていたのである。そしてこの事は「文学教」の人々にはむしろ理解できないだろう。
トルストイは「イワン・イリッチ」の死という作品において、個人の死と、その死を目前にしていかに生きるべきかを問うている。
…この作品はあくまでも「私達みんな」の作品である。偽善的で、他人の死を自分の視界に追いやろうとする私達みんなの作品である。またそれ故に、トルストイがこの問題をどのように解決しようとしたかについては、私達もまた自らに起こりうる出来事として、慎重に考えなければならないだろう。
※
イワン・イリッチは病を得て死ぬ。それはあまりにも平凡な事柄であるが、イワン・イリッチにはどうしても納得できない。
イワン・イリッチは真面目で力量のある裁判官だった。彼はその仕事を全く事務的に遂行していた。そしてそれで良かった。しかし、彼が死に面接した時、その真面目な勤務ぶりはすべて虚偽である事が明らかになった。
病を得たイワン・イリッチは医者の元に行く。医者は、イワン・イリッチが裁判官としてやっていたのと同じように事務的に、彼の病気を取り扱う。
当然であるが、医者は患者が死に面接して、魂の慟哭を抱えていても心を動かされない。そんな事をしていたら医者という仕事を続ける事はできないだろう。
裁判官がいかなる犯罪者や被害者、その深刻な事件内容に出くわしても心が動かないように、医者もまたいかなる悲痛な患者が目の前に現れても心を動かさない。そこでは事務的で形式的なやり取りがあるばかりだ。もし少しばかりのサービスがあるとすれば、医者は思ってもいない優しさを相手の為に少しばかりみせるだろうが、それ以上のどんな事もできない。
イワン・イリッチは深刻な病にかかり、医者の元に行き、絶望する。医者が、病を治せない事に対する絶望、というよりは、イワン・イリッチが死ななければならないという決定的な出来事を、誰一人として共有してくれないという事実の為である。
医者にとってイワン・イリッチの問題は、イワン・イリッチの「腎臓」や「盲腸」の機能の問題に過ぎない。イワン・イリッチも最初はそう思っていた。ところが、真実はそうではないと彼は気づく。問題はイワン・イリッチが死のうとしている事、その生命が消失しようとしている事なのだ。
ところが、医者にとってはどこまでも臓器の問題である。家族にとっては、夫として、父親としての役割を果たせなくなった人間にいかに静かに死んでもらうか、という問題である。本人だけが感じる「生命」や「魂」の問題と、他者が取り扱うイワン・イリッチという人間の間には大きな齟齬がある。イワン・イリッチはこの齟齬に気づいてしまう。
だが、同じ事をイワン・イリッチは他人に対してやってきた。医者がイワン・イリッチの病を形式的に扱うように、イワン・イリッチは裁判官として、これまで被告や被害者を形式的に、優雅に取り扱ってきた。
イワン・イリッチにとってはそれが自分の優れた仕事っぷりだと思っていたし、事実、そうだった。しかし今、死に際して、彼は自分のこれまで他人に取ってきた態度を、他人から取られる事に対して、絶望するのである。
すると一つの疑問がイワン・イリッチの中で湧き起こる。それは自分のこれまでの人生、中庸を得た平凡な人生は虚偽だったのではないか?という疑問である。
【事によったら、おれの生き方は道にはずれていたのかもしれない? ふとこういう考えが彼の頭に浮かんだ。】
(p89)
【しかし、彼がどんなに考えてみても、答えを見つけることはできなかった。これはつまり、自分の暮らしかたが間違っていたからだ、こういう想念が心に浮かんだ時(こんな事は前にもたびたびあった)、彼はとたんに自分の生活の正しさを思い起こし、この奇怪な想念を追いのけるのであった。】
(p90)
イワン・イリッチは病の苦しみの中、過去の自らの人生を追想する。ところが、幼年時代の記憶を除くと、輝かしかったはずの彼の人生にはいかにも汚れた、虚偽の塊であるように彼には感じられる。
【「そうだ、なにもかも間違っていた」と、彼はひとりごちた。『しかし、それは別にかまやしない。大丈夫、大丈夫「本当のこと」をすることもできる。だが「本当のこと」とはなんだろう?』と彼は自問した。と、急に静かになった。
それは三日目の終わりで、死ぬ二時間まえのことであった。】
(p100)
「本当のこと」とは何か、それはイワン・イリッチにはわからない。すべてが虚偽である事を感じつつも、どうすればいいのかわからない。そのままイワン・イリッチの病は頂点に達し、彼は死に向かう。彼は死の直前で、それまでにはなかったものをみる。
【「「連れて行け……可哀そうだ……お前も……」彼はまた『許してくれ』と言いたかったが、「ゆるめてくれ」」と言ってしまった。そして、もう言い直す力もなく、必要な人は悟ってくれるだろうと感じながら、ただ片手をひとふりした。
すると、とつぜん、はっきりわかったーー今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出て行くのであった。四方八方、ありとあらゆる方角から。妻子が可哀そうだ。彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれねばならない。『なんていい気持ちだ、そして、なんという造作のないことだ』と彼は考えた。『痛みは?』と自問した。『いったいどこへ行ったのだ? おい、苦痛、お前はどこにいるのだ?』
彼は耳を澄ましはじめていた。
『そうだ、ここにいるのだ。なに、かまやしない、勝手にするがいい。』
『ところで死は? どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」】
(p101、p102)
…思えばトルストイは「なんという喜びだろう!」という人生のすべてを照覧できる瞬間を求めて、彼の人生において長い形而上的な旅をしてきたのだった。そしてそれがたまたま、彼が作家であったので、その探索の歴史が文学作品という形で我々に残されただけにすぎない。
「なんという喜びだろう!」という一瞬間をどのような平凡な人物もその感慨として抱く事はできる。トルストイが求めるこの救済の瞬間は世間の人間が求める救済と何ら変わるものではない。
しかしトルストイは普通の幸福な人々と違い、彼の中で強固に働く理性があった。これが彼をして、彼自身に、虚偽に酔う事を禁止したのだった。世間に流れている幸福、救済とは、理性をいかに騙して、自らの妄想に酔うのかというその努力の結果として現れてくる。端的に言って愚かな人間の方が幸福なのである。
何故、愚かな人間の方が幸福かと言えば、当然の話、人には死があって、死ねばなにもないからであって(正確には理性がその事実を指し示す)、それ以上はないからだ。
トルストイは二つの事柄に挟まれて悩んでいる。ひとつには理性が、死という虚無を突きつけてきて、この死に打ち勝つなにものも存在しない事。
もうひとつは彼の魂が心の底から救済を求める事。この欲望は理性の求めるところと背反する。おおよそ偉大な作家とはみな、この板挟みを経験してきたのではないか。
このジレンマへの解答として、「イワン・イリッチの死」という作品がある。私は自分なりの角度から、彼がいかにしてこの解答(非ー解答)を提出したのかについて考えてみたい。それは先に引用した、イワン・イリッチが光を発見する、その最後の瞬間の意味について、だ。
※
当然、この解決は宗教的なものとなる。死の実存の問題を解決するのは宗教以外にないからだ。
ところが、宗教は近現代人によって排除されている。理性からすれば宗教は迷妄でしかない。トルストイも近現代人の一人なのでそれはわかっている。
では、その矛盾をトルストイがどう調停したのか、それが問題となってくる。
結論としては、不意に、イワン・イリッチという個人が全てを悟り、新たな観念を受け入れ、彼が死ぬ瞬間に、まさに死は存在しない事、死は何も恐ろしいものではないと理解し、そうして"光"をみる、という流れになっている。
これは本来、不可解な事実である。現代の優れた作家、ミシェル・ウエルベックは「プラットフォーム」という作品を、主人公が自らの死を自覚するシーンでしめくくっている。この主人公は我々と同じ現代人らしく、もはやどのような救済もなく、ただ絶望の中に佇む存在として現れてくる。理性に納得できるのは、ウエルベックの方だ。
しかし私がより感動するのはトルストイの方だ。では何故トルストイの方が感動するのか、何故トルストイの方が「良い」のか、と私に聞かれてもそれは答えられない。それはおそらくは理性を越えた事柄だからだろう。
私なりにトルストイの出した解答、つまり「イワン・イリッチの死」という作品のラストを辿って考えていくと、次のようになる。
まず、上記の引用した文章の中で、私が気になるのは
【そして、もう言い直す力もなく、必要な人は悟ってくれるだろうと感じながら、ただ片手をひとふりした。】
の部分だ。
イワン・イリッチは、憎しみを抱いていた家族に対して死の間際に「許してくれ」と言おうとして、言えなかった。だがもう言い直す気力もない。その時に、彼はこんな風に考えるのである。
私が考えたのは「必要な人」とは誰だろうか、という事だ。
人はーーただ世界を客観的な対象として生きているだけではない。魂の次元としても生きている。だがこの魂の次元は外界に理解できる形で現れるとは限らない。
この問題を、哲学者のマルティン・ブーバーは「我ー汝」という定式で捉えた。「我ーそれ・あれ・これ」といった客観的で水平な世界と、「我ー汝」という垂直的な世界は、その構造が異なっている。ブーバーはこの次元の違いを力説した。
イワン・イリッチはもはや力もなく、彼が世界に対してどのように感じたかを言う事ができない。最後の間際になって、迷惑をかけた家族に対して赦しの言葉ーー「ゆるしてくれ」という一言を言いたかったが、言う事ができなかった。
これは言ってみれば、歴史において、記録されなかった事柄は存在しなかった、というのに等しい。彼の言葉は外界に発されなかったのである。
例えば、ある牢獄で一人の人間が無実の罪で捕まっているとする。彼の無実がはらされる事はない。どんな天使も神も下界に降りてきて、彼を助ける事はない。彼は無実を訴えているにも関わらず受け入れられず、彼は処刑されてしまう。
死後に無罪が明らかになるわけでもなく、人々は彼を蛇蝎のように嫌い抜き、そうして彼は忘れ去られてしまう。この時、彼の「無実」という事実は一体、どのようなところで、真実として記録されるのだろうか?
少なくともそれは地上においてではない。我々の不完全な法体系や人としての認識形態の中では、彼はいかようにも救われなかった。もし、彼が心の底から助けを求めるなら、それはここ、地上とは違うどこか別の世界の論理であるほかない。
それはブーバーの言うように「我ー汝」といった形でしか考えられない垂直的なものであるだろう。イワン・イリッチが死の直前に聴く他者の言葉とはそうしたものである。
イワン・イリッチはふと考える。「必要な人は悟ってくれるだろう」と。彼の心からの祈願がふいに、理性には認証されない「必要な人」をその心の中に召喚したのである。
「必要な人」とは誰だろうか。それはこの地上の人間ではない事だけは確かである。それが誰かなのかはわからない。ただ、それはこの地上の人であってはならない、という事だけが確かなのである。
また人が…いや、トルストイが、そして私達自身もまた、そうした人を欲している事も事実であろう。ここでは他者には認証されない事柄を絶対的に認証してくれる存在が必要なのである。
「必要な人は悟ってくれるだろう」と思考してから、イワン・イリッチは個人的な救済に達する。それは、死という彼の生命を奪う現象が彼の魂を純化させた為に、彼にとっての真の他者が何者であるかがはっきりと示されたからだ。
それ故に、イワン・イリッチは死の直前において、垂直的に降ってくる言葉をきく。それは彼の言葉であり、また彼自身の言葉ではない。
イワン・イリッチは死の間際において真の喜びに到達する。…果たしてそんな事は可能だろうか? リアリズム小説としてはこの箇所はおかしいとは言えないだろうか?
無論、私も一人の現代人として、この箇所に虚飾がある事は認めざるを得ない。もっとも、ここには先に言っておいたような理性と情念との争いが現れている。それ故にイワン・イリッチの救済そのものは、ただ彼の内的なものに留まり、彼の外部には一切漏らされない。
トルストイが何故そうした構成にしたかと言えば、作品そのものはあくまでも近代リアリズム小説の範囲で貫き通したかったからだろう。しかしリアリズム小説においては決して描き得ないものをトルストイは描こうとしたが為に、イワン・イリッチはおそらく現実ではありえないようなヴィジョンをみる。
…いや、もしかしたら、そうしたヴィジョンを人がみる事は可能かもしれないが、それはあくまでも一人の個人がみる幻影であり、感覚でしかない、とトルストイは念入りに描いている。だからこそ一番最後の行は
【彼は息を吸い込んだが、それも中途で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。】
(p102)
という極めて平凡な文章にとどまっているのだ。これによってトルストイはリアリズム小説の構造を貫いたのだが、その最後にトルストイは自らの理想を書き入れたのだった。
イワン・イリッチは死の間際に声を聴き、光をみる。だがそれは他人には決してみる事のできないものである。
現代において文学が廃れた事のひとつの要因は、人間のうちにある内的なものが理解されなくなった為であろう。
繰り返して言うが、イワン・イリッチという平凡な人間がその人生で体験したものは、トルストイという作家が描かなければ外側に露出する事は決してなかった。
これはユーゴーの「死刑囚最後の日」も同様だ。ユーゴーがいなければ、あの主人公の内面は決して外側に現れ得なかった。
文学を信奉する人間と、そうでない人間との間には大きな懸隔が存在している。それというのは、こうした事である、この為であるーーと言ったところで、わからない人にはわからないだろう。
文学とは、我々の中に決して他人に伝え得ない魂の秘密があると日頃から感じる人間に贈られるギフトである。反対に言えば、そうした垂直性の魂の諸段階を自らの中で体感した事のない人々にとっては、その意味も価値も理解できないだろう。
トルストイはイワン・イリッチの内面を徹底して描いていく。死が近づくにつれて彼は孤独になっていく。暗い魂の牢獄で孤独になっていく。
しかしその最後においては、イワン・イリッチは死の消滅を発見する。孤独の中、自問自答の果てに、彼は死ぬ。彼は死ぬ事によって、彼ではないものへと転化していく。ここにおいて、内と外は繋がっていく。彼は死ぬ事ができなかったが、死ぬ事によって、彼は他者の所有となる。彼は彼でなくなる。
イワン・イリッチにとって死ぬ事は最大の恐怖であった。というのは、彼が死ぬ事は、彼が自身を失う事であるからであるし、人生においてこれ以上の事はない(人々はそれをみない振りをしているが)からだ。
だが、死の瞬間に際してイワン・イリッチはこれ以上ない喜びを体験する。
「ああ、そうだったのか!」「なんという喜びだろう!」
イワン・イリッチは、彼自身を失う事に恐怖していた。しかし今やーーというのは、現に死ぬこの今は、それが喜びである。というのは、彼が"他者"になるからである。彼が彼でなくなり、自分が消え、他者の所有となるからである。彼が世界に開かれていき、世界と一つになるからである。
死が真っ暗なのは、個人の生命が存在しているという観点からみている為である。死が喜びなのは、個人というのは他者から離れているものとみる観点のためである。
彼はもはや彼でなくなる。その時に、彼が彼であるという観念の方こそが、むしろ世界から"他者"であったという事がわかる。それ故にイワン・イリッチは死に喜びを感じる。イワン・イリッチはイワン・イリッチでなくなる。
その時にはもはや死は存在しない。何故だろうか?
【「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。
彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分自身に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』】
(p102)
死が存在しなくなるのは、彼が現に死ぬからである。彼の意識は一瞬だけ時間を先取りしている。死の直前において、彼の意識は死そのものを先取りしている。もはや彼は『死んで』いるから、もう死は存在しないのである。彼はもう他者であるから、彼ではないから、死は存在しないのだ。
死の間際に苦痛も、死も消えるのは、死や苦痛はイワン・イリッチという個的存在に宿るものだからだ。この個体が消え、垂直的な他者の声に導かれて世界に帰還する時、もはや苦痛も死も存在しない。というのは、その時にはもう彼ではないから。
彼の意識はその事実を一瞬早く先取りする。真理をほんの一刹那だけ、自らの中に持ち越す。それによって彼は死の消失を、まさに彼が死んでいる最中だという事実、そのために彼はそれを経験する。
トルストイはこの瞬間について次のような注釈を加えている。
「これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬感の出来事であったが、この一瞬感の意味はもはや変わることがなかった。」
(p102)
この最後の瞬間においてイワン・イリッチが存在している場所は非ー時間的な場所である。この非ー時間的な場所から、あらゆる時間・空間が照覧され、世界が一望される。しかしそれはほんの一刹那にすぎない(その中身がたとえ永遠にせよ)。
真理は明らかになった。世界と、平凡なイワン・イリッチは一つになった。何故、死は、死の間際に消えたのだろうか? それは、ウィトゲンシュタインが「死は人生のできごとではない」と語るのに少しばかり似ている。
人はまさに死ぬ時、死は存在しないと悟るのである。あるのは死の恐怖ばかりである。そして死の恐怖とは、生存にしがみつく個体が生み出す幻想である。
この幻想が消える事は喜びである。「私」が私でなくなる事は喜びである。仏教における涅槃のように、生存の苦悩から解放される事は喜びなのだ。
これが悲しみでもなく消失でもないのは何故なのか。それは当然ながら、死の向こう側に宗教的位相が想定されているからである。宗教的位相とは、人間の時間ー空間概念を越えたなにものかだ。
時間ー空間概念を越えた何かとはなんであるのか、と問われても私にはわからない。それは私の認識の限界を越えたものである。ただ、異なるのはそうした超越的なところを人が想定するか、どうかだ。
トルストイは宗教的な領域を見据えている。そうでなければ、主人公は絶望するほかない。ミシェル・ウエルベックの小説の主人公のように。だがイワン・イリッチは喜びを感じる。
この喜びの感情が刻印される領域は、少なくともこの世界とはどこか違う場所である他ないだろう。イワン・イリッチが垂直的な声を聞く、死の間際の彼の立ち位置も、もう半分ほどはこの世界から退いている。
人は時間と空間の概念の中を人として生きる他ないが、この時空における個体的存在を越えたなにものかを想定するかどうかによって、人としていかに生きるかという垂直的な軸は変わってくる。超越的なものを想定する人間とそうでない人間は生き方は変わってくる。
だがその変化は他人からは容易に見破れないものである。イワン・イリッチがついに自分を越えたなにものかを発見するのは彼が死のうとするまさにその時であって、彼が死のさなかで見つけた真理は彼以外の誰にも決して共有できるものではなかった。
この個体的真実をすくい上げる為に、文豪は筆を取った。私はここにトルストイの孤独があるとみる。そしてこの孤独はまた、多くの人と決して共有できないものだ。
イワン・イリッチが死の間際で発見した真理ー死の消滅は、もうそこで永遠の意味を刻印されている。作家はそこまで描いた。だがこの意味は、現実の他者にとっては全く意味のない事であると、近代人トルストイはよく知っている。
だからこそイワン・イリッチはごく当たり前の一人の人間として、他の人々と全く同様に(そしてもしかした他の人々もまた個体的真実にたどり着いていたかもしれない、という疑問を残しつつ)死んでいくのである。
トルストイはイワン・イリッチという平凡な人物がたどり着いた個的真実に、読者を導くためにここまで筆を走らせてきた。そうしてその最後でイワン・イリッチは、ごく平凡な、当たり前の人間として死んでいく。こうして作品は閉じる。
しかし閉じられた作品はまた、開かれるだろう。それは、トルストイが一つの作品を通じて描き出した内的真実は、果たして本当にその死によって閉じられたのかどうか、その事自体が、この作品を読む者の内的葛藤を通じて、それが本当に外部化されたのか、そうでなかったのか、その事が世界という舞台の上で演じられていくのである。
トルストイは人々をここまで導いてきた。ここで彼は筆を終わる。そしてここからは読者の我々が考える場面である。すなわち、ここからは我々が自らの死をみつめなければならない時間である。
天才・文豪と呼ばれたトルストイが、ごく平凡な人間と全く同じに、誰よりも死をおそれ、自らの消滅に怯えて、それと徹底的に対峙せざるを得なかったのと同様に。