同棲中の彼女が保険の営業に来ました
「水口様は今後の人生プランについて、何かお考えになっていますでしょうか?」
「はあ」
その保険会社の営業は俺に向かって問いかけた。彼女は目鼻立ちの整った美人で、長い黒髪を後ろで一括りにしている。服装はパンツスーツだ。
「やはり保険はライフプランに合わせたものに見直すべきだと思います。そのためには水口様が将来についてどう考えているのか教えていただきたいと思います」
「いや、ええと、まあ、その」
俺はというと、この状況に困惑している。普通なら聞き流せばいい保険の営業だが、今回は違った。
彼女の名前は清住律希。彼女は俺と同棲中の恋人である。ちなみに俺と同い年だ。
俺の適当な相槌を聞いた律希は座っていた椅子ごとさらに俺の近くまで接近してきた。
「単刀直入にお聞きします。水口様は今後結婚するご予定はありますでしょうか?」
律希の迫力に俺は圧倒されていた。何故か俺は同棲中の恋人から結婚をどう考えているか迫られていた。
どうしてこうなったのか。俺は少し前のことを思い返していた。
俺、水口克哉はとある会社に勤めるサラリーマンだ。社会人5年目で、ようやく仕事に慣れてきたところだ。
そんな俺には同棲中の彼女がいる。それが律希だ。彼女とは大学生の時、共通の友人を通して知り合った。
気が合った俺たちはデートを重ね、遂には付き合うことになった。
大学卒業後、就職した俺と律希はマンションの1室を借りて同棲を始めた。
同棲生活はとても楽しいものだ。同棲してもっとお互いのことを深く知ることができた。さらに、家に帰ると恋人が待ってくれている。とても幸せなことだ。
そんな仕事も生活も順調な俺に起こったことである。
「水口、昼ご飯食べに行こうぜ」
昼休憩の時間になり、同僚の吉藤拓実が俺を昼食に誘った。彼はこの会社に入社した時の同期で、たまにこうして昼ご飯を誘われる。
「悪いな。俺はお弁当があるから」
そう言って、俺は鞄から弁当箱を取り出した。それを見た吉藤はあーと納得したような声を上げた。
「それって、彼女さんが作ってくれた弁当か?」
「そうだ。律希お手製のな」
俺は同期からの質問にドヤ顔で答えた。弁当を作るのは基本的には律希の当番だ。俺もたまには作るけど、律希が作る方が断然美味しい。
「いいなー、彼女からの愛妻弁当かよ。羨ましいなあ」
「いや、その言い方だと結婚しているみたいだろ」
彼女が作ってくれた弁当は何と言うのが正解だろうか。愛妻弁当ではないことは分かるけど。
「そういえば、水口たちはまだ結婚していないんだな。そこらへんは何か考えているのか?」
吉藤の問いかけに俺は律希の顔が浮かんだ。彼女とはもう何年もの付き合いになる。
仕事もある程度慣れてきたのもあるし、同棲生活も順調だ。それに年齢からしてそろそろと言うべきだろう。
「そういうことはまだ話をしたことがないな」
けれど、俺と律希の間に結婚の話題は出てこない。仕事の忙しさもあるためか、今まで聞くことができなかった。だから、彼女が結婚に対してどう考えているのか分からない。
「そうか。まあ、こういうことは2人が話し合って決めるものだしな。外野がどうこう言うことじゃないな」
吉藤はそう言って、話題を打ち切った。やがて昼ご飯を食べに行くのだろう、俺から背を向け、歩きだした。
と思ったが、足を止めた彼はこちらを振り向いた。吉藤はどこか面白がるような顔をしていた。
「会社で昼ご飯食べるなら気をつけろよ」
「どういうことだよ?」
俺が聞き返すと、吉藤は口に手を当てて俺に向かって囁いた。
「実は、総務の女子から教えてもらったんだけどさ。ほら、ウチの会社って保険の営業が来るだろ?」
「ああ、アレか」
吉藤の言葉に俺の頭の中である場面が思い浮かんでいた。俺の働いている会社では昼ご飯になると、どこかの保険会社から営業がやって来る。
営業の人はうちの会社のオフィスに来ると社員1人1人に話しかけて、保険の営業を行なっている。
彼ら彼女らも仕事だから大変だと思う。けれど、こちらも貴重な昼休憩だから、どうしても聞く気になれず、いつも適当に断っている。
そもそも昼ご飯を食べている時に話しかけられると返事に困る。
「それで保険の営業がどうしたんだ?」
「最近、ウチの会社にくる営業の担当が代わったみたいで、その新しい担当の人が若い美人らしいんだよ」
「へー」
俺の偏見かもしれないが、営業に来る保険会社の人は年配の女性が多い気がする。だから、吉藤の言うことは珍しいと思った。
「おっ、興味ある感じか? 浮気はダメだぞ」
「するか! 珍しいと思っただけだ」
吉藤の軽口に俺はツッコミを入れた。俺は律希一筋だ。そういえば、彼女も保険会社に勤めている。確か営業をやっていたな。
「流石彼女持ちだな。けど、綺麗な人に話しかけられるなんて男としては嬉しいだろ」
「お前と一緒にすんな。美人っていっても保険の営業だろ。聞く気になれないだよな」
「水口らしいな。じゃあ俺は昼ご飯食べに行ってくるから」
吉藤は俺にヒラヒラ手を振って、歩いていった。俺はその背を見送ると、改めて彼女特製の弁当と向き合った。
さて、食べるか。俺は弁当の蓋を開けた。
律希が作ってくれた弁当(とても美味しかった)を食べ終えた俺はスマホでお気に入りの小説投稿サイトを見ていた。ブックマークした小説が更新しているか確認しようとした時だ。
「お昼休みに失礼いたします。お時間よろしいでしょうか?」
どこからか声が聞こえた気がしたので、俺はスマホから顔を上げた。
声の感じはどこか聞き覚えのある若い女の人だ。もしかしたら吉藤が言っていた保険の営業かもしれない。
有限な昼休みを無駄にしないように、俺は営業を断ろうと声が聞こえた方向、すなわち右に顔を向けた。
「えっ?」
俺は自分の目を疑った。この目で見たのが信じられなかった。
「よろしければ私どもの商品の説明をしたいのですが、お時間はよろしいでしょうか?」
俺に話しかけてきた相手は何でもないように俺に向かってにっこりと笑いかけていた。その笑顔はいつもと違い他所行きといった感じだった。
俺に話しかけてきたのは想像した通りの若い女性だった。彼女は目鼻立ちの整った顔立ちで、長い黒髪を後ろで一括りにしていた。
その女性は俺の恋人によく似ていた。というか、律希と瓜二つだ。というか、律希本人だった。
同棲中の彼女が俺の勤めている会社まで保険の営業に来ていた。
(え? え? こんなところで何をしているんだ?)
律希が保険について説明しているのを聞きながらも、俺の頭の中はクエスチョンマークで一杯だった。
そんな俺の脳内のことは露知らず、律希は平然としていた。彼女は近くにあった空いている椅子を持ってきて、俺の机のそばで座っていた。
「水口様、聞いていますでしょうか? 先程から心ここにあらずといったご様子ですが」
「え? いや、あの、というか」
俺が何やっているんだと律希に尋ねようとした時、気づいた。彼女の目が面白がるようにしていた。まるで上手くいったというように。
その瞬間、俺は悟った。彼女がここに来た目的を。
律希は一見真面目そうな印象を受けるが、中身は中々茶目っ気たっぷりなのである。
よくドッキリ系のバラエティ番組をテレビやパソコンで観ているし、サプライズも大好きだ。もちろん彼女が仕掛ける側である。
ハロウィンでミイラの格好になったこともあるし、俺の誕生日でお好み焼きそっくりなケーキを作ったこともある。
そういえば、昨日の夜に明日は楽しみにしてねと律希から言われたことを思い出した。あれはてっきり仕事から家に帰った後のことを言っているのだと思っていたが、どうやらこのことだったらしい。
律希は驚く俺の顔が見たいがために俺が働いている会社まで営業に来たのだろう。そう考えるととても彼女らしく感じる。
律希の目的が分かり、安心した。しかし、まだどこか違和感を覚えている自分がいることに気づいた。
「以上が弊社で扱っている保険の概要になります。水口様が気になる商品はありましたでしょうか?」
律希のドッキリは未だに続いていた。一向にネタバラシをしてこない彼女に向かって俺は目配せをした。もう分かったから大丈夫だと伝えた。
けれど、彼女は気づいているのか気づいていないのか分からないが、種明かしをしようとしない。未だ保険の営業に来たというスタンスを崩さないままでいる。
「水口様? どうしましたか?」
答えない俺を不思議に思ったのか、律希は再度問いかけてきた。その営業用のスマイルを見ると彼女の企みはまだ終わっていないことが分かった。
「ええと、今は別の保険に入っていまして、だからこれ以上は特に必要なのかなと」
今の俺たちは保険会社の営業とそれを聞いている会社員という立場だ。その形に則り俺は彼女の問いに答えた。というか、俺は既に律希の勤めている会社で保険は加入している。
そんなことは律希も知っているはずだ。だから、彼女がこうして俺に保険の営業を続けるのは不思議で仕方がない。
「なるほど。水口様は今契約している保険で十分だということですね?」
「ええ、そうです」
「しかしながら申し上げますが、保険を見直した方がよい時があります。特に人生の節目となるような時にですね」
しかし、律希は俺を逃してくれなかった。先程の営業スマイルがより一層深められたように見える。
「人生の節目ですか?」
「ええ、そうです。少々失礼なことをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
律希は顔を引き締めて、俺に問いかけてきた。俺は内心何を聞いてくるのかドキドキしていた。
「何でしょう?」
「水口様は今後の人生プランについて、何かお考えになっていますでしょうか?」
「はあ」
律希の問いに俺は困惑した。いきなりそんなことを聞かれても答えに困る。ましてや、恋人から聞かれているならなおさらだ。
「やはり保険はライフプランに合わせたものに見直すべきだと思います。そのためには水口様が将来についてどう考えているのか教えていただきたいと思います」
「いや、ええと、まあ、あの」
律希は俺にグイグイ迫ってくる。気づけば彼女との距離は縮まり、お互いの足が触れてしまうぐらいだ。
「水口様には現在お付き合いしている方はいらっしゃいますか?」
そう聞かれ、俺はズッコケそうになった。いや、お前(恋人)がそれを聞くのか。
「えっと、(目の前に)いますけど」
俺はチラチラと律希を見ながら言った。
「まあ! それはそうでしたか。なるほど、水口様には恋人がいらっしゃると」
しかし、律希は俺の視線を無視し、わざとらしく驚いていた。まだこの茶番を続けるつもりらしい。
というか、今のセリフはどういう気持ちで言っているんだろうか。
「その方との"今後"について、水口様は何か考えをお持ちなのでしょうか?」
律希はずいっと距離を詰めてきた。俺の顔をじっと見つめていた。「今後」という言葉に力が込められているように聞こえる。
「ええと、その」
俺はというと、どう答えたらいいか迷っていた。というか、何だこの状況。新手のプレイか。
「やはりいつまでもお付き合いを続けるわけにはまいりません。いつかは何かしらはっきりさせた方がいいと思われます」
そう言うと、律希は俺を真っ直ぐに見つめた。
「単刀直入にお聞きします。水口様は今後結婚するご予定はありますでしょうか?」
とうとう彼女は俺に問いかけた。結婚。具体的な単語が飛び出したことで俺は内心ドキリとした。
「そういうことはいずれ彼女と話をしたいと思いますけど」
俺の言葉に律希の目がキラリと光った。何かを期待しているように見えた。
「なるほど、そうですか。もし、よろしければ、私に教えて欲しいのですが、どのような話をするつもりなのでしょうか?」
今までにない圧を感じながら律希は俺に迫った。彼女にとっても聞き逃せない話なのだろう。
「すみませんが、プライベートなことなので」
しかし、俺は断った。いくら律希から聞かれたからといって、何も会社のオフィスで話す内容ではない。
側から見たら今の俺たちは保険会社の営業とその相手をするサラリーマンなのである。営業の人にプライベートなことを話さないのは不自然ではないだろう。
「……そうですか」
律希もそのことが分かっているのか、肩を落としながらも引き下がった。この好機を逃さず、俺は仕掛ける。
「保険の方も今のところ見直す予定はありませんよ」
俺は律希にそう告げた。今の彼女が俺に話をしているのはあくまで保険の営業という名目だ。
それがなくなってしまえば、これ以上律希が俺に話しかけてくることはない。そう思ってのことだ。
これでやっと律希のイタズラが終わる。そう思った時だ。
「私の話をお聞きして頂いてもよろしいでしょうか?」
突如、彼女は口を開いた。俺は思わず律希の顔を見る。彼女の顔はどこか切なそうだった。
「私には恋人がいます」
それは知っている。だって、俺のことだから。律希が何を言い出すのか俺はハラハラしていた。
「彼とは学生時代から付き合い、社会人になってから同棲を始めました」
とてもよく知っている。他人事じゃなくて、当事者だからな。
「彼との生活は何事もなく幸せな日々を過ごしています」
そう言って、律希は笑った。その笑顔は先程までの営業スマイルとは程遠く、眩しく見えた。
俺だって今の生活に満たされている。家に帰ると好きな人が待ってくれている。家で待っていると愛しい人が帰ってくる。これを幸せと言わず何というのだろう。
「けれど、自分の中にどこか不安があるのです」
先程の笑顔から一転し、律希の顔は曇り、視線を下に落とした。
「この幸せな生活はいつまで続くのだろうか。5年後も、10年後も、その先もずっと続いているのだろうか。そんな漠然とした不安が私の心の片隅に浮かんでいるのです」
彼女は再び俺を見た。律希の目は不安で揺らめいていた。
「何度も彼に尋ねようとしました。この先のことを考えているのかと。けれど、できませんでした。もし、彼がそんなことを考えていないと知ったら、私はどうにかなってしまうからです」
俺は彼女の話を黙って聞いていた。誰だって付き合う前に結婚はどうするかなんて、確かめ合うことはしないだろう。
結婚を前提としたお付き合いならば違うかもしれない。けれど、普通の恋人同士でそんな先のことまで意識して、さらに相手に伝えるのは中々できないだろう。
そんなことを考えていると、律希は再度俺に問いかけた。
「水口様、貴方はそのことについてどう思われますか? どのように考えていますか?」
律希の話を聞いていたはずが、いつの間にか再び俺に尋ねる話になっていた。
彼女は俺をただ真っ直ぐに見つめていた。俺の答えを待っているようだった。
今日、律希がこの会社に来た目的がようやく理解できた。彼女は俺に聞きたかったのだ。
俺がこの先のこと、結婚についてどう考えているかどうかを確かめたかったのだろう。
いつものサプライズもあるもしれない。しかし、それ以上に俺の本音を聞いてみたかった。
ここでなら恋人同士ではなく、ただの保険の営業と会社員という関係だから。たとえ俺がどんな答えを出しても取り乱さずに、表面上は冷静に振る舞うことができるからだ。
「はあーー」
俺は深いため息を吐いた。律希が俺の反応を見て眉を上げた。
俺はうんざりしていた。律希ではなく、自分に。恋人にここまで不安にさせてしまった自分をどうしようもないやつだと思った。自分の都合のせいで恋人を不安にさせてしまった。
本当はもっとふさわしい場があるに違いない。こんなところで、上司や同僚がいる場所で話すことではないのは十分に分かっている。
けれど、そんな俺の都合なんて不安に思っている律希に比べればちっぽけなものだ。俺は深呼吸し、律希に向き直った。
「俺からも話をしていいですか?」
そう俺が口を開くと、律希は目を見張った。次の瞬間、彼女は顔を引き締め、俺の話を聞く体勢に入った。
「どうぞ」
律希が手のひらを俺に向けた。その手は僅かに震えているように見えた。俺は覚悟を決めた。
「実は彼女に内緒にしていることがありまして」
「! それは何でしょう?」
律希は一瞬嬉しそうな表情を浮かべ、そして、すぐに真剣な顔つきになった。
こんなことを誰かに言うなんては初めてだ。誰かに相談するのも恥ずかしいから、俺1人で考え行動していたことだ。
「俺の恋人はサプライズが大好きで、よく俺に仕掛けてくるんですよ。だから、俺も彼女にサプライズを仕掛けようと考えたんです」
「何をですか?」
不思議そうに、そして、どこか興味深そうに律希は俺を見ていた。俺からサプライズを仕掛けるなんて付き合ってからこれまで1度もなかった。だから、彼女も興味津々に違いない。
「こういうのは、やっぱり男の俺から言うべきで。それもただ言うんじゃなくて、彼女が驚くようなことをやってみたくてですね」
俺は拳を握りしめ、律希を真っ直ぐに見つめた。彼女と目が合った。
「実は彼女に指輪をプレゼントしようと思っているんです」
「……指輪ですか?」
律希は首を傾げていた。その様子は可愛らしかったが、俺が言いたいことを掴めていないようだ。
それならばはっきり言おう。目の前にいる恋人に男として一世一代の勝負に仕掛けるのだ。
「そうです。でも、ただの指輪ではありません。特別な指輪で、一生のものなんです」
俺は律希に向かって笑いかけた。
「特別な指輪……? あっ!」
何かに気づいた律希は目を見開き、手で口元を押さえた。
「彼女に贈るのは婚約指輪なんです。それを今日の仕事が終わったら、取りに行こうと思ってまして」
俺は彼女の顔を見つめた。律希の瞳が潤んでいるように見える。今が好機だと思った。
こんなことは予定外だが、勢いも大事だという。だから、思い切って俺が考えていることを大切な人に伝えようと思った。
「だからさ、律希」
俺は普段のように彼女に話しかけた。律希と目が合った。
「俺と一緒に指輪を取りに行ってくれないか?」
そう律希に遠回しのプロポーズした。
「えっ? あっ? ほ、本当なの?」
律希は混乱のあまり営業用の仮面がすっかり剥がれ落ちていた。彼女からすれば晴天の霹靂といっても間違いないだろう。
これが俺の律希に仕掛ける一世一代のサプライズだった。本当ならば、どこか綺麗な夜景が見える高級ホテルのレストランでプロポーズをしたかった。
けれど、このような場所でやっても良かったと今なら思う。だって、そうでもしないと律希の意表を突けるとは思わないから。彼女の驚きと混乱と戸惑いと、そして幸せそうな感情が混ざった表情を見ることはできなかっただろうから。
「本当だよ。嘘じゃない。俺だって律希とずっと一緒にいたい」
彼女と同棲生活を続けていくうちに、その想いは大きくなっていた。俺も今の生活はいつまで続くのか不安に感じたこともある。
だから、俺は決めた。今の幸せな時間が続くように、この先もずっと律希と共に歩んでいきたいと思ったから。俺は大きな決断をしたのだ。
「俺と結婚してください」
俺は右手を律希に差し出して、頭を下げた。内心心臓が跳ね上がるようだ。
俺のサプライズ兼プロポーズはどうなるのか。その時を静かに待った。
ふと右手に柔らかな感触がした。いつもデートの時に感じるものだ。
顔を上げると、律希が俺の右手を握っていた。彼女の瞳から雫が溢れていた。
「私も克哉君と結婚したいです。よろしくお願いします」
律希は涙を流しながらそう返事をした。彼女の言葉を聞いて、俺の心は温かな気持ちに包まれてた。
突然、パチパチと拍手が響く音が聞こえた。周囲に目を向けると、オフィスにいる上司や同僚たちがスタンディングオーベーションをしていた。
吉藤を始めとした誰もが満面の笑みを浮かべ、口々におめでとうと声を上げていた。何人かの女性社員は涙さえ浮かべていた。
彼らの様子を見て、俺はある考えが頭に浮かんだ。
(あっ、もしかして……)
俺は今更ながら理解した。俺と律希はずっと俺の席で話をしていた。ウチの会社は席ごとに仕切りがなく、そのため、俺と彼女との会話は丸聞こえである。
(俺のプロポーズ、みんなに聞こえていたのか!?)
羞恥に襲われた俺は顔が赤くなった。まさか自分にとっての大勝負が全て白日の下に晒されているとは思わなかった。
「ごめん、律希。こんな見せ物みたいになっちゃって」
拍手を浴びながら、俺は隣にいる彼女に謝った。律希だって人に注目されるのは恥ずかしいだろう。
「ううん、私は平気だよ。だって、克哉君の会社の人たちにお祝いされて嬉しいから。本当にありがとう」
そう言って、律希は俺に笑いかけた。その眩しいほどの笑顔を見ていると、俺の心は落ち着いた。律希が嬉しそうなら別にいいか。
「水口君」
課長が俺と律希に近づいてきた。この人は入社当時から俺に仕事や社会人として必要なことを色々教えてくれた。俺にとってとてもお世話になっている人だ。
「私は感動したよ。こんなに心が揺れ動いたのは久しぶりだ」
そう言って、課長は俺に右手を差し出した。俺は上司の手を取った。職場の真ん中でまさかの上司と握手をした。こんなことは繁忙期の修羅場を乗り切った時でもなかった。
「えっと、ありがとうございます」
俺はなんて言えばいいか分からなかったので、とりあえずお礼を告げた。
「お礼を言わなくてもいい。それよりも今日はもう仕事を休みにしてどうだ?」
「えっ?」
課長の口から信じられないような提案が聞こえた。俺は思わず上司の顔を見た。
「しかし、私はまだ午後からも仕事がありますが」
「そんなことはどうでもいい! 君には、今の君にはやることがあるだろ」
課長からそう言われて、俺はハッとなった。俺は一世一代のサプライズを無事に成功させた。そして、プロポーズを成功させた俺にはやることが色々とある。
「私も今、午後から休みを取ったよ」
横から律希がそう口を開いた。その手にはスマホが握られていた。
俺と課長が話している間に、彼女は会社から休みを取ったらしい。中々手際がいい。
「ほら、彼女もそう言っているよ」
「克哉君、行こう」
上司と恋人から迫られ、俺は決心した。ここまで背中を押されては応えないといけないだろう。
「分かりました。それでは申し訳ありませんが、お先に失礼させていただきます」
「うん、お疲れ様。彼女と、いや、奥さんと仲良くな」
俺の言葉に課長は嬉しそうな顔をした。こんな上機嫌な課長はどれだけアルコールを入れても現れないだろう。
「行こうか、律希」
「うん、克哉君」
俺は隣にいる律希の顔を見た。彼女と手を繋いで、オフィスから出ていった。背中から溢れんばかりの拍手が響いた。
「まさか、こんなことになるなんてな」
「本当にそうだね」
目的地に向かいながら俺と律希は話をしていた。
「でも、私の目的は果たしたよ」
そう律希は得意気になって言った。
「どういうことだ?」
「だって、ちゃんと"契約"を結んだからね」
彼女はいつものサプライズを成功させた時の笑みを浮かべていた。
「? ああ、そういうことか」
少し間を置いて、律希の言うことが理解できた。自然と笑いが込み上げた。確かに結婚もある意味契約といっていいものだ。俺にとっては今までのどの契約よりも素晴らしいものだが。
「これからよろしくな」
「こちらこそ」
俺たち2人はお互いの手を握った。俺と律希は隣同士で市役所まで歩いていた。婚姻届を取りに行くためだ。
歩きながら俺は律希との新たな生活に思いを馳せていた。この生活がずっと続きますように。そんなことを心から願っていた。