94 教祖誕生
94 教祖誕生
虐殺の地から3日分東にある少しだけ盛り上がっている平地、丘とは言えない場所に、6000の流民を従えた1人の女性が立っています。銀髪緑目、白いシスター服をまとった16歳の少女に、幼さはありません。土に塗れた服のように、純白さを失った指導者は木の杖を掲げます。
身長と同じ長さの杖の先端に、木精霊を示す3本の枝が付いています。掲げられた杖に注目する流民は誰もいません。目前に広がっている20000もの教会軍に、木の棒を装備しているだけの流民が慄いています。
ミーナ軍の殿を追いかけていた教会軍が集結して20000の大軍を作り上げます。そして、その殿を率いていた敵司令官ミーナを焼き尽くす事に成功した火組のアルノルトは、新たな敵兵の登場に高揚します。エリカティーナが率いる6000の民は、獲物以外に見えない教会軍は、リーダーの指示がないから動かないだけで、今にも食いつきそうな表情で高ぶっています。
「木精霊ジフォス、ヴェグラ神の命を受け、人と共に生きる。我ら人は、ジフォスの息吹を受けて誕生し、ジフォスの恩寵を受けて育ち、ジフォスの愛情を受けて結び、ジフォスの息吹を受けて再誕し。」
戦場に大音声が響きます。割れるような怒号ではなく、横笛の調べのように、透き通った高音が全てを包み込むように広がります。女性と分かる高音でありながら、頭脳を貫くような響きではなく、穏やかで静かな響きとして、人々の心に入ります。
「木は大地と共に生きる。木は水の恩恵を吸い上げる。木は火の力で再生する。」
「突撃せよ、悪魔を粉砕しろ。」
歌声に魅了されている信徒達の様子を見て取った火精霊の化身アルノルトが叫びます。周辺の部下達もそれに気付いて、声を合わせて叫びます。貧弱な流民と侮っている教徒たちは、敵対している事を忘れて、歌に聞き惚れそうになりますが、赤き軍神の声に目覚めます。
「火は木の味方。火が産み出す灰は、木を育てる。」
怒号と拮抗する声と共に、両軍の中間地点に、横一直線の炎の壁が出現します。炎が両脇から湧きあがった事で、左右から人間が火を放った事は自明ですが、教会軍の信徒達の目には、美しい声と共に大地から炎が噴き上がったように見えます。
油を染み込ませた枯れ草が燃えただけの現象を、精霊の奇跡だと思い込む信徒が多いのは、軍神アルノルトが魔石で作った炎の剣を使う時、神の御技であると信徒を洗脳しているからです。
「ヴェグラ神の信徒であると自認する者は静かに聞きなさい。ジフォス様の使途である事を騙った罪人ウルリヒは裁かれたのです。誰かが殺したのではありません。ジフォス様が神罰を下したのです。あなた達は、罪人ウルリヒの仇を討つと言って、多くの人間を殺しています。木の棒しか持たない私達を殺すために前進しようとしました。これは罪です。あなた達は罪人です。ですが、ジフォス様は慈悲深い方であり、人間は罪を犯す存在である事も良く御存知です。武器を捨て、その場で天に許しを乞えば、信徒は許されます。」
「騙されてはならぬ。悪魔の言葉に騙されてはならぬ。目の前の炎は油を燃やしただけだ。油の匂いが立ちこめているのが分からぬか。あの悪女は、大悪魔ミーナの妹だ。もし仮に、木精霊の化身であるなら、火を使う事はできぬ。騙されるな。」
「そこで叫ぶのは、アルノルト卿でしょうか。」
「そうだ。お前はエリカティーナと名乗る悪魔であろう。」
「私は、ただの人間エリカティーナです。目前の炎の壁は。油を染み込ませた枯れ草を燃やした物に決まっています。人が神の代わり、精霊の代わりになれるはずがないのです。」
「先程、神罰が下ったと言ったではないか。」
「神罰も奇跡もあります。しかし、それらは人間の手で行われるのではありません。人の行動と、神の御技は全く別の物です。信徒がそれを勘違いしてはならないと、枯れ草に火を放った事を伝えただけです。人の身でありながら、精霊の化身などと偽りを発している人間には神罰が下ります。」
この瞬間、赤き軍神は、自分の居場所を敵に伝えている事に気付きます。咄嗟に身を伏せた事で、火精霊の化身は、ミーナの一矢から逃れます。
ミーナの一撃必殺の策は失敗しますが、エリカティーナを前面に出した戦いは続きます。流民達の左右に伏せて隠れていたミーナ軍が立ち上がると矢を放ちます。炎の壁を超えた矢を受けた教会軍の兵士が大混乱した訳ではありませんが戸惑います。
飛来する矢の先端には矢じりが付いていません。矢羽は付いていますが、それ以外は細い木の棒だけが飛んでくる事に、教会軍の信徒達は、敵が何を意図しているのかが分かりません。
「神罰!!」
エリカティーナの奏でる大声が戦場に響くと、一部の教会軍兵士が倒れ始めます。木の棒であっても弓から放たれたものである以上、当たり所が悪ければ、怪我をする事はあります。しかし、絶命させるほどの殺傷力は持っていないはずで、信徒達の一部が騒ぎ始めます。
「神に許しを乞う者は、その場で跪くがいい。」
次の一言で跪いた信徒達は、そうでない者達が倒れる事に驚愕します。そして、状況が把握できない精兵ではない信徒達は、周囲の信徒達に同調して跪きます。
殺傷力のない矢は、山なりに飛翔していますが、矢じりの付いた殺傷力のある矢は水平に飛んできます。炎の壁から飛び出してくる矢は命を奪う矢です。射抜かれて倒れる兵士達は、矢じりの付いている事を知っていますが、そうでない信徒達には、木の棒に当たっただけなのに、倒れているのは、神罰が下っているからだと考えます。
軍隊組織として整然と動いている5精霊の精鋭達は、跪く事をせずに、水平射撃で次々と射抜かれていきます。名手である弓隊が散らばって、水平射撃を行い、それ以外のミーナ軍兵士は、山なりに木の棒とも言える矢の雨を降らせます。
勝敗は教会軍が全面撤退する事で決まります。ミーナは炎の壁を埋めて、追撃をしかけたい衝動に駆られますが、教会軍の幹部達を補足できる保証がない事から、一般の信徒達への被害を増やさない事を優先します。
教会軍は集団として崩壊した訳ではありませんが、20000の武力を発揮できる状態ではなくなります。信徒達の精神状態から教会軍は3つに分けられます。悪魔討伐続行を強く主張する信徒達の多くは、5精霊組に所属していて、軍事力の中心となっています。一般信徒は2つに分かれていて、南部に近い領地から集まっている信徒達は、完全に戦う意志を失っていて、エリカティーナ嬢こそ真の木精霊の化身ではないかと噂をするぐらいです。教会の存在する中央部領地から従軍している信徒達は、教会への信仰は変わらないものの、多くの実戦を経験した事で疲れ果てていて、戦う事に対する熱意を失っています。
3分の2が戦う意志が無い状態では、戦意のある3分の1の兵力で戦う事が一番勝率が高くなりますが、それでは4000程度と推測されるミーナ軍に勝ち切れる保証は有りません。戦力としては微々たるものですが、6000程度の流民も侮る事はできません。
仕切り直しの決戦に挑むか、撤退を選ぶのかを検討している間に、ミーナ軍と流民達は即日に撤退します。その方向は、ガリウス男爵領アザランであり、その事を知った弱気な信徒達の中には、虐殺の地へ行けば自分達は呪われると言い始める者が現れます。
これ以上の士気が低下するのを危惧した宗教指導者達は、今回の遠征の終結を宣言して、信徒達はそれぞれの居場所に戻す事を決めて、自分達も教会本部へ帰還する事を決定します。
300の死者、200の部位欠損者を出したミーナ遠征軍は、1割の戦力を失います。ドミニオン国における戦史では、見事な撤退戦と評されますが、大規模戦闘で味方の死傷者を多数出す事を愚行の極みと考えているイシュア国の観点で見れば大失敗と言えます。
ミーナは自分がイシュア国の縛りでは、愚行を犯している事を十分理解しています。犠牲者とその遺族に対する罪悪感は心に広がっていますが、それとは全く別に冷静に動くことができる別の心も有しています。
巨大な廃墟と墓場となったアザランに到着すると、体力を残している兵士達を選抜して、1500の部隊を編成します。本拠ケールセットが、ベッカー伯爵軍に攻撃を受けている情報が入っているため、救援のためにミーナは部隊を動かします。
ケールセット防衛隊は2000で、ベッカー伯爵軍10000の前では、籠城してもすぐに陥落するだろうと攻め手には思われていましたが、5度の攻撃の全てを防ぎ切ります。虐殺されてしまうという恐怖感に耐えきれなくなった住民達が、城壁の上に立つ事を申し出て、防衛戦に参加した結果です。鎧もなく農具を手にしただけの農民達も、防衛戦に加わった事で、籠城側の数の少なさが補われた事が主因で、名将ベッカーの攻撃を退けた事は、領主リヒャルトの功績として大々的に宣伝される事になります。
ミーナ軍が救援軍を率いて、ケールセットに到着した時には、すでにベッカー伯爵軍は撤退しています。
「アザランは一度死にました。ですが、生き延びた人々の意思と私達の協力があれば、この都市は甦ります。」
エリカティーナの言葉で、流民達はこの巨大な墓所を安住の地とする決意をします。大虐殺から始まった南部地域の大混乱で、家族を失い、住まいを失い、自身の居場所を失った人々は、エリカティーナとその周りに居る人間に支えられて、ここまで流れて来ています。
薄汚れた衣服をまとい、頬が土で汚れていても、その美しさを損なう事が無い少女の献身に全員が救われています。直接助けられた事が無い者でも、両親を失い、感情を失った子供を抱きしめながら眠る姿を見た事は有ります。民に混じって行進している時に、小さい子をずっと抱える姿を見た事があります。
食事の配給を手伝ったり、衣服を繕ったり、大地にそのまま寝たりと、流民の中で最も働き者と言われる生活を続けながら、各地の被害を受けた人々を受け入れていったエリカティーナが率いた集団は、新たな大きな家族としての絆を作り上げます。
木精霊ジフォスの化身と信じる者は大勢いますが、彼らはヴェグラ教を信じている訳ではなく、神や精霊が人に乗り移るような事があれば、エリカティーナのような行動を取るだろうと考えています。
エリカティーナ自身が人間であると明言しているから、誰もジフォスの化身とは呼びませんが、彼女を見る瞳には信仰心が宿っています。
再建への道を歩み始めると、南部地域の貴族達は競うように支援を行います。教会軍をミーナ軍と流民の集団が引き付けたから、自領が虐殺行為を受けなかった事を知っているからです。それに、アザランで生まれた木精霊の話が民衆に広がっていて、現在の教会勢力を毛嫌いするものの、長年のヴェグラ神への信仰を維持したい人々は、新たな信仰の対象を奉戴します。
廃墟の中で立ち上がる人々の先頭に立っている美しき少女の話は、支援のために物資を運んだ商人達の口を通じて広まっていきます。誰しもが、その美しさを褒め称え、あの方こそ人ならざる精霊そのものであると主張するのだから、これまでの教会のやり方を見て、信仰を捨てた者達も関心を持たずにはいられません。
未成年の美少女、しかも、全ての人間が絶賛する美しさが虚偽でも、大げさでもない事実として、その地に存在しているのだから、話の中心になります。さらに、フェレール国でも、ドミニオン国でも凌辱されたという話が広がると、人々は同情よりも怒りに心を支配されます。
虐殺者集団と化した教会勢力の指導者を全て排除しなければ、ドミニオン国は地獄になると考えるようになります。魔獣のいない楽園というのが、ドミニオン国の謳い文句であったのに、今や魔獣を討伐しながら生き続けたイシュア国の公爵家の血筋の令嬢こそが、最も神聖な存在で、地獄を照らす光源になっていると民衆が考えるようになります。
納税とは別の食糧徴収を強制されていた南部の民が、それを実行していた教会勢力に嫌悪感を抱いているのは当然で、批判を言葉にしても問題視されない状況が作り出されれば、その言葉に怒りが含まれるのは当然です。
そして、南部で盛り上がったその言葉は、怒りのトーンを少し失いながらも、教会本部であるドミニオン国中央部にも伝わります。それは、教会勢力がアザランで生まれた新興勢力に追いつかれつつあることを意味しています。
400年程前に発生したイシュア国の人々が、神さえ手出しできなかった魔獣を駆逐し始めたという情報に触れた時と同様の衝撃が、教会幹部を襲います。




