91 狂気
91 狂気
ケールセットの位置する南部は、2月はかなり暖かく、小麦等の種蒔きを始める事ができます。今までの3月下旬の種蒔き開始を早めたのは、秋の種蒔きを行うためです。昨年成功しているため、農民達も、作業を手伝う兵士達にも笑顔があります。南部地域は二毛作が瞬く間に広まり、楽園と呼ぶにふさわしいだけの生産力を有するようになります。
実りの秋に期待を込めての種蒔きが一通り終わった頃、ミーナが率いる騎馬隊が被害0で帰還します。戦勝祝賀会と同時に春祭りを開催する町は大いに盛り上がり、南部の各都市から商品の仕入れに来ている商人達も、稼ぎ時だとして、この盛り上がりを大いに利用します。
イシュア国から運ばれてきている、魔石、紙、馬、染料、豆類の種子、傷薬は、高値でも商人達は購入していきます。最初は、競売によって値段が決められていましたが、一部の商品については、天井知らずの競売になってしまったため、限度額を超えるとくじ引きで購入者を決めるようになります。
南部の商人達がイシュア国向けにケールセットの町で売り捌いているのは、海水塩、甘味料、香辛料と、北部の高山地帯から仕入れている鉄製品、銅、銀、金です。これらの物品がイシュア国の豊かさを上昇させています。
イシュア国防衛のためにモーズリー高原を越えての侵略を断行したミーナに対して、イシュア国内での批判が少ないのは、オズボーン公爵家の血筋の宰相だからという理由だけではなく、イシュア国にも大いなる利益をもたらしたからです。
「姉さん、ベッカー伯爵領の商人達も、他の商人達と同じ扱いで良いですか。」
「もちろん、何か問題があるの?」
「特別に便宜を図っておけば、利用できるかなと思います。」
「テリー、商人達に噂を聞かせるのは構わないけど、戦争や政治に直接参加させるような事はしない方が良いわ。」
領主館兼行政府の一室で、ミーナとテリーは内政に関する書類と向き合いながら話し合いも行います。
「イシュアから連れてきた商人達には、諜報活動をさせていますが、彼らは違うのですか。」
「彼らは、諜報官が本業で、正体を隠すために商人をやっているのよ。」
「・・・普通に商人ですだと思いますが。」
「きちんと諜報官としての訓練はしているし、いざとなったら商品を捨てて逃げるようにも指示がしているから、本当の商人とは言えないわ。」
「そう言う事であれば。とりあえず、伯爵領の商人達に対しては、商人としての待遇をして、必要以上に利用しない方が良いって事ですね。」
「そういう事よ。商人達から入ってくる各地の情報だけでも有益なのだから、それ以上の事をさせて、向こう側で疑われるような事を避けるべきよ。」
「ところで、向こう側は、リヒャルト殿下とケールセットの町をいつになったら認めてくれると思いますか?」
「これだけ利益を提供できる町になったのだから、と言いたいけど、利益を直接的に得ているのは南部だけだから、まだ時間がかかると思うわ。」
「ベッカー伯爵領との貿易で大きな利益が出て、伯爵がこちらの味方になってくれたらいいのですが。」
「そうはならないと思うわ。そうなって欲しいと思うから。色々と手を打ってはみるけど。」
ヴェグラ教の木組司令官ウルリヒを、ベッカー伯爵領のセゼックで討った事によって、教会勢力と伯爵の間に楔を打つことができたから、何とか分裂させることができないかとミーナは考えています。王家と一体化している宗教勢力と伯爵が対立するようになれば、彼の王家に対する忠誠にも揺らぎが現れて、付け入る隙があるとミーナは考えています。
ベッカーに命令を出せるウルリヒをセゼックに送り込んだのは教会側で、その結果として、ベッカー伯爵は無敗の名将の名を汚された事になります。領都が少数のミーナ軍に落とされた事は、戦績に真っ黒なバツ印を付けたことになります。
一方の教会勢力としては、ベッカー伯爵の領内で大幹部の1人が殺害されたのだから、伯爵の失態であると考える者は少なくないはずで、傲慢さを持っている宗教指導者たちが、ベッカー伯爵に責任を取らせる動きを取る可能性があります。そうなれば、彼を取り込む道が開けます。
中部と北部も大切な種蒔きの時期に突入するため、しばらくは積極的に動くことはできないだろうから、ミーナは布石を打つために、様々な事を考えています。
「入ってもいいですか。」
「カール、入って来ても良いわよ。」
事務机が2つ並んでいる部屋に入ってきたカールは、いつもの陽気さを失っています。金髪青目が霞んで見えるぐらいに、表情の色を失っています。親族の誰かを失った時にしか見えないような顔に、ミーナもテリーも警戒しています。
「何かあったみたいだけど。そんなに悪い知らせなの。」
「はい。ガリウス男爵領の領都アザランが、ヴェグラ教教会の軍勢の攻撃によって、壊滅しました。」
「教会の攻撃で壊滅?どういうことだ?アザランが占領されたのか?」
軍事はミーナ、内政はテリーと言う分担は決まっていますが、ミーナが出陣すれば防衛軍の指揮官も担うテリーは、より詳細な情報を求めます。救援軍を出すにしても、最も食料が少ない時期であるから、きちんと計画を立てなければなりません。
「教皇代理ブルーノが、3万の信徒兵を従えて、ガリウス領に攻め込み、領都に逃げ込んだ住民を含め、2万近い人間を皆殺しにしたとの事です。ガリウス男爵は生死不明ですが、領都から脱出した人間の中には、男爵は居なかったそうです。」
「2万と言うと、男爵領全体の人口だぞ。そんな馬鹿な事があるのか。」
テリーは事実だとは思えずに、虚報を聞き流すような感覚で、カールの言葉を聞いています。ヴェルラ教の教会勢力が各地で募兵をかければ、3万の兵力を集結させる事は知っています。しかし、2万の民を皆殺しにする意味も理解できないし、実行が簡単ではない事は分かっています。
「間違いない情報です。商人たちの中には、アゼランを直接見た者もいます。」
「他に分かっている事は?」
ミーナは驚いていますが、表情を変えずにさらなる報告を求めます。
「3万の兵士の中には、5精霊の名を冠した教会中枢である5部隊も含まれていて、教会勢力の主力が来ているようです。第一報は以上です。」
「そう。さらに詳しい事は第2報を待つしかないみたいね。他の都市を攻撃するかもしれないから、何か手を打たないと。」
「姉さん、なぜ、教会は、こんな事をするのですか。陥落させるときに住民にある程度の犠牲が出すのは理解できますが。なぜ、皆殺しにするのです。」
「木組のウルリヒを殺したことに対する報復なのでしょう。」
「待ってください。ウルリヒを討伐したのは姉さんで、復讐と言うのなら、ケールセットに攻め込んで来るはずです。どうして、男爵領が、先の戦いでは、食糧だけでなく、金貨を献上しているのです。どうして。」
「精霊様の化身を殺した私を討伐したいけど、私との戦いでは確実に勝てない。だから、確実に勝てる相手に対して報復をしたかったのでしょう。金を払ってまでも戦争を避けたアゼランは弱い都市だと判断したのでしょう。」
「そうだとしても。これで南部の人間は、反教会の立場を取るようになるのは間違いありません。教会側に何のメリットがあるのですか?」
「信仰心というのは、そういうものなのよ。私達には分からない彼らの理屈では、ウルリヒに対する報復をする事が一番大切で、その影響については優先順位が低いのよ。もしくは、この虐殺も信徒の信仰心を揺るがす事はないと自信があるのかも。」
ミーナは信仰心と言うものをよく知っています。ほとんどの国民が唯一神ヴェグラを信じていないイシュア国には、オズボーン公爵家を神のごとく敬う信仰があります。暗闇の暴走における魔獣との決戦において、公爵家の休憩時間を作るためだけの人間盾になる事を希望する戦士は無数にいます。死が確定する任務を与えられた時、泣きながら喜ぶ戦士もいます。選ばれた戦士の一族は名誉を得られ、その戦士の妻や遺児たちは、手厚く保護されます。死の恐怖を越える何か、家族の死を乗り越える何かは、公爵家への信仰心と言えます。
小娘ミーナが宰相になれたのは、非凡な能力を持っているからではなく、公爵家の一族であり、対魔獣戦で絶大な武勲を手に入れた最強公女レイティアの娘だからです。信仰心を捧げる一族の1人であるから、特別扱いされても、国民が不満を持たないのです。むしろ、小娘を仰ぎ見ながら、イシュア国の民は崇めています。成人する前から守護神としての能力を身につけているミーナに対して称賛する事を喜んでいます。
神輿の中央にいる神を担ぐことを名誉とする民衆にとって、神とはオズボーン公爵であり、ミーナは眷属神の1人で、眷属神の中で最強格の存在なのです
自分の立ち位置をよく理解しているミーナは、ヴェグラ教の教会勢力の愚行を肯定はしませんが、発生した事案がいずれ起こるだろうことは、予測していて、ついにそれが起こったのだと認識しています。
ケールセット軍を城外広場に集めたミーナは、赤い鎧を装備して、全軍に1人で向き合っています。高台に登ったミーナは赤き美戦士の姿を示しながら、よく通る高音で語り始めます。
「男爵領の領民が、ドミニオン国の教会勢力によって虐殺された。2万もの領民を殺した非道な人間は、各都市に分散して他の領を襲い始めた。この虐殺者どもを討ち取らない限り、南部地域に安全はない。非戦士である領民も、女性も、子供も、殺した奴らは、精霊の化身ウルリヒを殺した天罰が下り、平和を維持するための生贄をヴェグラ神が求めた結果であると嘯いている。だが、天罰を受けて絶命したのは強姦魔ウルリヒであり、その周囲を固めていた邪教徒を成敗したのは私だ。ウルリヒが真に精霊の化身であれば、天罰は私に下るだろうが。そんな事は起きていない。そして、教会勢力は、私ではなく、最も弱い所を攻撃して、最も弱い人間を殺している。もはや、奴らは狂っていて、神の名を騙る邪悪な存在になっている。この邪悪を討ち、南部に平和をもたらすのは私ミーナ・ファロンの願いだ。そして、ケールセット軍の使命である。邪悪と戦う強い信念を持て、領民を守る強い誇りを持て、私ミーナ・ファロンの剣となり、盾となり、その使命を果たせ。」
長剣を抜き放って天に向けたミーナが、出陣するとの言葉を発すると、総勢6000の軍が雄叫びを発します。
イシュア国から付いてきた兵士達は、ミーナ・ファロンという至宝を守るための盾になれた事を喜びます。ドミニオン国出身の兵士達は、長年南部の土地の収穫を奪っていた邪教徒の命を刈り取る死神の鎌になれた事に興奮します。
同じ頃、ケールセットの町の大広場に多くの住民が集まります。その中央の高台に白いシスター服の美少女が登ります。美の女神が、ヴェグラ教のシスターとなり、聖女と呼ばれるようになりますが、住民達はその美しさが眩しすぎて、見る事ができないのではありません。教会が流している噂を知っているから、16歳の少女を見つめる事ができません。
9歳の時にフェレール国の盗賊団に犯された少女が、ここドミニオン国でも、宗教家を名乗る邪悪に犯された事を、南部地地域の住民達はドミニオン国の恥だと考えています。
「みんな、顔を上げてください。どこの国にも、どの場所にも、悪はいます。その悪がなした事を、みんなのような善人が恥じる事はないのです。そうです。顔を上げて、正面を見てください。私を見てください。私は汚れていますか?私は何も悪い事はしていません。恥じる事は何もありません。皆も同じです。恥じるような悪事を行ったことはないのだから、頭を下げなくても良いのです。私がここで立っていられるのは、ヴェグラ様の恩恵を受けている事に気付いたからです。この私に注がれる暖かい太陽の光こそ、ヴェグラ様の恩恵であり、全ての命を育てる輝きなのです。その光の下、頭を下げてはいけません。胸を張って堂々としなければなりません。過去に償うべき罪があるのなら、この太陽の下、日々を生きる事によって償えばよいのです。私達は未来に向かって歩かなければなりません。未来を潰そうとする者と戦わなければなりません。今、東の地で、教徒を名乗る罪人がさらなる罪を重ねています。私達には武器を持つ力はありません。しかし、戦ってくれる戦士を支援する事はできます。私はこれから東の地へ向かい、傷ついた人々の手助けを、戦いで傷ついた戦士達の手伝いをします。戦地に近づき、状況によっては巻き込まれる危険もあります。それでも、私と共に歩んでくれる人には、協力をお願いしたいと思います。」
涙する信徒と共にエリカティーナも戦地へと向かいます。姉ミーナの力になれる事に喜んでいる少女の姿は、民衆からは全く違うように見えます。ありとあらゆる苦痛と屈辱に耐えて笑顔を見せながら、民の罪悪感を和らげ、民を慰める姿は、理想の中にしか存在しえない聖女のように見えます。
この白いシスター服の美少女を見て、彼女に助力しない人間はいないと確信している民たちは、エリカティーナの導きに従って、東へ向かう一団となります。




