90 包囲
90 包囲
ウルリヒ直属の木組信徒兵と、セゼック在住の信徒兵が分断される中、ミーナが屠った木組信徒兵達の絶叫は、セゼック在住の信徒兵を興奮させます。単なる武力で言えば、兵士として訓練されている木組信徒兵が制圧する側に回れるはずですが、ウルリヒ及び上級幹部を失っているため、統率を完全に失ってしまいます。
城壁の上から、これまでの光景を見ていた住民警備兵達は、右往左往しているだけでしたが、誰かが叫んだ邪教徒を追放しろという絶叫によって、木組信徒兵達への攻撃性を持ち始めます。外にいる住民信徒兵を助けるんだと言う声が上がると、城門の前に集まった住民達が開門を要求します。
開門すれば、少し離れた所に待機しているミーナ軍の騎馬兵がなだれ込んでくるのですが、その事に気を回す事ができる幹部は存在していません。ベッカー伯爵は決戦を命じられているため、優秀な指揮官達をセゼックには残していません。木組の上級指揮官たちは、ミーナによる口封じによって壊滅しています。
「邪教徒ウルリヒが奪った財宝を取り戻す。私に続け!!!」
城門をくぐったミーナが馬上で叫んだ声と共に、城内の住民達が彼女に従い始めます。敵だったはずのミーナが、いつの間にか邪悪なウルリヒを倒した英雄になっています。精鋭騎馬兵200を率いたミーナは、領主館へと突撃します。立派な防衛施設は存在していますが、防衛力を発揮できるだけの兵士達は残されていないため、ミーナは容易に領主館を占領します。
大混乱の領都内外において、ミーナは領主館の宝物庫と食糧庫の中身を集まった領民に配り始めます。
「私は妹を救助するために来ただけで、この地を占領するつもりはない。妹救出のために協力してくれた領民に感謝すると同時に、邪教徒ウルリヒが奪った財貨の一部を皆に返そう。返済金を受け取った者は、混乱を避けるために自宅に戻ってもらいたい。今回の返済で足りない者は、後で申請してくれれば、奪われた分は必ず返却する。」
セゼックの民が、木組から組織的な略奪を受けた事は一度もありません。図に乗った兵士達の一部が略奪を行った事はありますが、きちんと犯罪行為として裁かれています。しかし、勝手に配られる財貨と食料を受け取った民は、木組信徒兵が自分達の知らない所で略奪をしていたと思い込みます。
自分達が賠償金といえる財貨を受け取る資格がない事を知っているのに、受け取る時の罪悪感を減らすために、木組を邪悪な存在であると思い込むようになります。中には、木組を排除する事に貢献したから、報奨金を受け取っていると言い出す住民達も現れます。
城壁内での施しが進む中、城壁外の木組信徒兵達はミーナ軍の騎馬兵達に捕縛されます。ウルリヒの敵を討てと言う指示を出す人間がいれば、多くの犠牲者が出た乱戦に発展した事は確実でしたが、そうはなりません。
戦闘力は高くても、一部の兵士達は洗脳されていて、命令通りにしか動けないため、抵抗するようにとの指示がない事で、ほぼ無抵抗で捕縛されていきます。捕縛された木組信徒兵が城壁内に連行されると、住民から邪教徒と罵られるようになり、彼らは状況を把握できないまま、犯罪者として扱われます。ついさっきまで、ヴェグラ教のエリートとして戦い、南部から接収した食料を植えた北部のために配る聖人の僕であったのに、悪魔の手下になってしまいます。
軍事的な混乱が収まると、行政に関しての混乱を避けるために、ミーナは住民達の役付きを呼び集めます。ミーナは特別な介入をしない事を宣言した上で、住民達に全てを任せます。その間、砦機能を持った伯爵邸を占拠しながら、捕虜と木組兵士達の尋問と説得を行います。
「武器を返す事はできないけれど、3つの道の内の1つを選べば、すぐにでも解放するわ。1つは、セゼックをすぐに出ていき、教会本部に帰還する事。」
伯爵邸の地下室を、地下牢と尋問室に偽装した上で、ミーナは敵軍の各部隊の隊長達を1人ずつそこに呼び出します。お前たちに隠れて、ウルリヒと言う外道は、私の妹をここで凌辱し続けたのだと、思い込ませるための演出です。ミーナ自身は水色のワンピース姿で、妹に劣らない美貌を前面に押し出しての話し合いを行います。
ウルリヒに忠誠を誓っていた部隊長達も1人だけになり、ミーナの後方の席に静かに座っている白いシスター服の美少女を見ると、ミーナの会話に割って入り、ウルリヒ様の高潔さを語る事ができません。だから、ウルリヒの邪悪さの説明には、反論しない事で、表面上は認める事にするしかありません。
俯きながら小さく震えている美少女を嘘つきだと罵る事ができるだけの胆力を持っている木組信徒兵はほとんどいません。
「解放してくれるのか。」
「もちろんよ。ただし、条件があるわ。教会本部に、ここで行われた事をきちんと報告して欲しいの。繰り返し言うけど、私達が望んでいるのは、妹の救出であって、戦争ではないの。」
「・・・3つの道というのであれば、残り2つは?」
「2つ目は、この町の教会に所属して、邪教徒の一掃に協力してもらいたいの。木組の信徒の一部が邪教徒だったと言われているけど、この地の教会にも邪教徒がいて、普段から婦女子の拉致を行っているわ。それを阻止する事と、邪教徒の捜索に力を貸してもらいたいの。部隊長であるあなたなら、怪しい部下を取り締まる事ができるはずよ。それに、一部の犯罪者を追い出す事で、木組の汚名も返上できるわ。」
「もう1つは?」
「ケールセットの町の教会運営を手伝ってもらいたい。教会の運営と言っても、ケールセットに問題がある訳ではないから、普通に教会に所属して、貿易を手伝ってもらいたいの。南部の農作物を北部で販売する事が主な仕事になるわ。普段は貿易を行い、冷害や飢饉が発生した場合には、食料を配布してもらう。そういった役割を教徒たちには担ってもらいたい。そのためには人材が必要なの。武力を持ったあなたたちなら、物資を運ぶ時の護衛役もできる。」
3つの提案はいずれもミーナが彼らを利用するための策であり、どの選択をされても利益を得る事ができます。大切なのは、彼ら自身に選択させる事と、選択肢がある事によって仲間内で相談させる事です。
「うーん。」
「考える必要があるみたいね。皆の所に戻って、相談をしてから決めてもらって構わないわ。」
ウルリヒが不浄な存在であるかどうかを考えさせることはせずに、エリカティーナの姿を視野に入れさせる事で、それを事実として受け入れさせます。もちろん、熱狂的なウルリヒ信者は存在していて、ミーナ軍に転びそうになる仲間を説得しようと試みますが、とりあえずここを脱出するためには、その件を持ち出さないようにと、転んでしまった信徒達に説得されます。
1人1人と面談するとミーナは宣言していましたが、初日に隊長クラスの20名程に選択肢を告げる事で、木組を崩壊させて、一部をミーナの駒にする事に成功します。
ただ、エリカティーナ親衛隊となっている8名の子供達には、全員の面通しをさせます。ウルリヒの木組は、教会内での商業ギルドを支配していて、物流などに関連する業務を担っています。それだけでなく、暗殺者ギルドを影の組織として所有していて、暗殺者の育成と運勢を担っています。8名の子供達が所属していたのが木組です。
ウルリヒが抱えていた暗殺部隊の全容を把握するために、関係者の炙り出す必要があります。8名の面通しの結果、育成に関係する4名ほどの人間を確定する事はできましたが、教会本部におけて、暗殺団になるべく育てられている子供達の生活の世話をする係の者達ばかりで、暗殺技術を伝達する人間の発見はできません。
教会組織を破壊するための情報収集は前進しますが、決め手につながる何かを手にする事はできずに、ミーナは今後に向けて布石を打つ事に専念します。
イシュア歴394年1月1日、ミーナはベッカー伯爵邸の財産を使って盛大な祝賀会をセゼックで開きます。都市内の住民に食事と酒を振る舞い、大騒ぎをした後は、子供達には服を仕立てるための布を配布して、兵士達には予備の武具を渡します。
民衆の歓心を買うことだけでなく、都市内の富裕層である商人達にも大きな飴を提示します。ケールセットの町との貿易契約を結んだ商人達は、その日から貿易商団の準備を行って、3日後には出立する商団も現れます。
イシュア国の属領ケールセットとの交流を当然のように受け入れているセゼックの住民は、自分達がベッカー伯爵の統治下に居る事を完全に忘れていますが、1月5日にベッカー伯爵が10000の兵士を率いて帰還する旨の情報に触れると、自身の立場が危うい状況に居る事に気付きます。
「私達はベッカー伯爵に、セゼックの街を返すつもりです。」
大会議室に、都市の上級役人、顔役、大商人の合計40名が集められます。中央の席に座っているミーナは、赤騎士装備で彼らを威圧しつつ、笑顔を絶やさずに、温和さも演出しています。
「返すというのは具体的にどのようにする事なのですか?」
大商人の1人が近くの席から話しかけます。
「もちろん、我が軍は撤退します。」
「ベッカー伯爵と交渉されないのですか?」
「交渉で和解できれば理想ですが、ベッカー伯爵は、我が軍の討伐を王家や教会から命じられています。和解は無理でしょう。私達と交渉する事も。反逆を疑われる可能性があるから、今の段階では避けるでしょう。我が軍の一時的なセゼック占領は、エリカティーナを救出するための正しい行いですが、伯爵の立場からは、侵略占領された事にしか見えません。」
「確かに、ミーナ様のおっしゃる通りです。撤退していただければ、街での戦闘が避けられます。いつ撤退されるのですか?」
「その鎧姿ですと、今日にも撤退するのですか?」
「ここにベッカー伯爵が到着するまでには3日はかかります。その間は、撤退できません。伯爵軍が到着してから、機会を見て撤退します。」
「なぜ、到着してからなのです。撤退がしにくいのではありませんか?それこそ、機会を失ってしまうのではありませんか。」
「私達は追撃を受ける可能性があります。追撃されれば反撃する事になり、双方に犠牲者が出てしまいます。今すぐ、ここから撤退した場合、ケールセット方面から戻ってきている伯爵軍とどこかで交戦しなければならなくなります。帰途上での遭遇戦は避けたいのです。伯爵軍がこの街を包囲した時が、一番撤退しやすいのです。私達が出て行った都市を接収するために、ベッカー伯爵はこの地に留まるはずです。追撃は仕掛けるでしょうが、私達の騎馬兵が追いつかれない所までに到達するだけの時間は稼げるはずです。」
「確かに。」
「なるほど。」
「ですが、包囲されては脱出できないのでは?」
「この街の大きさを考えれば、複数の門を10000の兵力で全て封鎖する事はできません。全門を封鎖するために兵力を分散配置する事の危険を、伯爵も理解しているでしょう。私達が逃げ出せるように、兵力を配置しない門もいくつかあるでしょう。」
「空いている門から脱出しても、伯爵軍にも騎馬隊はいます。騎馬隊には追いつかれてしまうのでは?」
「その危険はあります。そこで、お願いになりますが、伯爵軍に包囲されたら数日間、住民には何もせず、城内に閉じ込められていてもらいたいのです。」
「何もせずにいるという事は、伯爵軍が攻めてきた時に、私達は防衛に参加しなくても良いという事ですか。」
「交戦するつもりはありませんので、防衛に参加する必要はありません。私達も門で防衛するつもりはありません。」
「攻撃されたらどうするのですか?」
「攻撃する事はありません。降伏勧告を出しながら、いくつかの城門を封鎖して、こちら側の様子を見るはずです。伯爵から見れば、私達は住民を人質に取っているようなもので、強硬策には出にくいでしょう。街で戦闘する事で大きな被害を出したくないと伯爵も考えているはずです。」
「その通りです。しかし、伯爵様もいつまでも包囲だけをしている訳にはいかないでしょう。」
「おそらくですが、こちらが何もしなければ、3日目の夜に、一度後方に下がって、陣を再構築して野営をするはずです。その時、我が軍を伯爵軍のいない門から脱出します。お願いしたいのは、脱出の時まで沈黙を守ってもらいたい事と、これはできればですが、私達が脱出してから、もう1日だけ沈黙を守ってもらいたいのです。丸一日、伯爵軍をここに足止めできれば、私達は逃げきれます。」
脱出の準備を整えながら、ミーナは伯爵邸の財産を残らず貧しい者達に分け与えていきます。住民達に敵意を見せずに、伯爵軍に打撃を与える手を次々と打ち続けます。
町を包囲したベッカー伯爵軍は攻撃も威嚇行動もしません。ミーナ軍が2000名以下で駐留している事だけは把握しているため、一気に攻撃を仕掛ければ陥落させる事ができるのは分かっていますが、騎馬兵以外の人間は全員セゼック出身者です。警備兵として狩り出されている者達もいると考えると、伯爵は攻撃命令を出す事ができません。
城壁の上に守備兵は全く見えないため、降伏と開城を要求する書簡を付けた矢を打ち込みますが、守備側からの返事はありません。何かの策があるようにしか見えない伯爵は、日暮れと共に少しだけ後退して、町の様子を伺います。
2日目は、門前まで向かった小隊が声を大にして、開門を要求しますが、沈黙以外の返事は戻ってきません。何かの企みがあるだろうと警戒している内に、2日目の夕暮れになります。その時、町から脱出した大商人の使いが、ベッカー伯爵に城内の様子を正確に伝えます。
ミーナ軍は、住民代表や商人達に、交戦せずに撤退する旨を公表していて、すでに脱出の準備はできていて、全兵が反対側の東門の方に集結しています。脱出のタイミングは、追撃を避けるために、ベッカー軍が後方に陣を構えて、野営する時と定めていて、今はそれを待っています。
住民達が門を開けないのは、ミーナ軍が撤退する体制しか取っていないため、それまでは何もしないと決めているからである。何かをした時、ミーナ軍の牙が自分達に向かってくる可能性を考えると、彼女たちが出ていくのを静かに待つことが最善であると、ほとんどの人間が考えています。そう報告した使者は、城内の様子を事細かに伝えます。現状、ミーナ軍が住民を殺したという話は1つもなく、セゼックの街から追い出された木組の兵たち以外に犠牲者はないと伝えます。もちろん、ウルリヒが伯爵様を追い出した後、敵司令官の妹を凌辱して、その怒りを買って滅んでしまった事も、使者はベッカー伯爵に伝えます。
使者を送った商人を知る兵士が、この使者の身元を確認したため、伯爵は翌朝から後方に下がります。セゼックの町と距離を取ってから、野営地の設営を始めます。
その様子を確認したミーナは、住民代表や大商人、教会の司祭達に今夜撤退する事を伝えます。
包囲3日目の夜、セゼックの東門から1500の騎馬兵が脱出に成功します。それを知っていたベッカー伯爵は、翌朝の日の出と共に騎馬兵での追撃を行う計画でしたが、それはできなくなります。
夜間脱出と同時に、ベッカー軍の野営地は、ミーナとエリカティーナの襲撃を受けます。所々に火矢が撃ち込まれるだけでなく、野営地に深く入り込んだ2人が、そこで数名を切りつけます。東西南北のいずれから夜襲が繰り出されているのかも理解できずに、叫び声と怪我人が、突然内部から出現する状況に、兵士達は混乱し始めます。
火矢の光筋が、野営地の真中から外縁に飛んでいるのを見た兵士達は、さらに混乱を深めます。姉妹戦士は、この混乱に乗じる形で、伯爵を探しますが、当たりを引くことはできません。
「もしかすると、この野営地とは別の所にいるのかもしれない。」
「用心深いんですね。」
「これ以上は、疲れがたまってしまうから。撤退するわ。」
「分かりました。お姉様。」
翌朝になってから、夜襲の混乱を収めたベッカー伯爵は、もはやミーナ軍を追撃しても追いつかないと判断して、セゼックの町を奪回した事で、今回の戦いを終わらせます。軍略にも優れたと勘違いした1人の宗教指導者が起こした騒動で、伯爵の得る所は何1つありません。
それどころか、愚か者の死についての責任追及が来る可能性があります。王家を支えるという目的が同じであっても、戦略を理解できない人間に全体の指揮権を持たせる事は危険であると身に沁みます。




