89 断罪
89 断罪
ミーナ軍は総騎馬隊の機動力を生かして、ベッカー伯爵領に南東側から侵入します。想定されているルートから外れているため、領都セゼックまで、何の迎撃もなく到達する事ができます。
「私は、王弟リヒャルト殿下の伴侶であるミーナ・ファロン。妹エリカティーナの救出に来た。妹を出せばよし、さもなければ城壁を突破して、妹を救い出す。待つのは1日だけだ。一日も早く、妹を地獄から救わねばならない。ベッカー伯爵、ウルリヒ司祭、これ以上妹を傷つけるな!」
赤黒い装備品に包まれた白馬戦士が、高音の声を城壁にぶつけます。城壁の上の守備兵は、攻撃を受けている訳ではないので、混乱を起こしていませんが、彼女の後方に見える騎馬部隊の存在と、最強の女戦士の登場に驚いています。
急襲を受けた防衛軍はどうしてこのような状況になったのかが分かりません。ケールセットの町へと出陣したベッカー伯爵軍の大軍と遭遇したはずなのに、精強な騎馬兵達が攻撃準備を整えています。精強であっても2000に満たない兵数では、伯爵軍を破る事はできないはずなのに、この場に騎馬兵が揃っています。
わざわざ迂回してセゼックに到着したとしか考えられませんが、ケールセットの町の防御を捨てるような用兵をしている意味が理解でいません。強固な城壁を擁するセゼックに対して、騎馬兵の突撃力は無意味です。そのような事は分かっているミーナが、愚策に見える戦術を取った理由が、防衛側には理解できません。
そして、エリカティーナ嬢が酷い仕打ちを受けているような文言を、敵の司令官が発している事も防衛側には理解できません。交渉のための人質ではありますが、和平のための交渉をするのだから、エリカティーナ嬢は大切な客人として扱っています。
ヴェグラ教のウルリヒが、エリカティーナに召喚状を送ったのは、彼女を領都セゼックに召喚するためではありません。そもそも、召喚状に応じてくる訳がないと考えています。彼の当初の目的は、召喚状を無視したエリカティーナを背教者に認定する事です。ベッカー伯爵軍への援軍として信徒を動かすには、背教者を討伐するという大義名分が必要で、それを作るための策謀として召喚状を送ります。
しかし、15歳の美少女が旅人としてセゼックの街に入ってきて、街の大広場でウルリヒ様から招待状をもらったエリカティーナであると宣言します。白いシスター服の美少女は注目を浴びると同時に住民達を魅了します。木精霊を守護するウルリヒ様にお会いするために天界から降りてきた木精霊ジフォス様の化身だ、という民の一言が信じられる程に、エリカティーナの美は、ドミニオン国でも凶悪な破壊力を有していて、彼女を背信者として敵にする事ができなくなります。
民衆の声を聞いたウルリヒは、エリカティーナを実質的な人質とするものの、最上級の賓客として受け入れます。背教者のレッテルを貼るのではなく、イシュア国との騒乱を鎮静化するために地上に降り立ったジフォス様の化身であると煽てて、和平交渉を有利に進める材料にしようと決めます。極上の美で民衆の支持を得たと言っても、15歳の小娘を手懐けるのは簡単であり、利用しようと考えた司祭は、領主の館で厚遇し続けます。
その厚遇に気を良くした小娘が、ヴェグラ教の教義の授業を希望したため、ウルリヒ自身が教えた事もあります。その時には、素直かつ熱心に学ぶ少女に感心して、教会勢力に取り込むことができれば、聖女として大きな柱になってもらうのも良いかもしれないとすら考えます。宗教勢力が政治力を全く持っていないイシュア国に、ヴェグラ教の勢力を広める機会があるかもしれないと、今後の展開も考えています。
敵司令官ミーナが少数の騎馬部隊で城壁攻撃を仕掛けようとしている事も、妹を救出すると激怒している事も、理解が及ばないウルリヒは話をする機会を持たなければならないと考えて、特使を城壁外へと送りますが、使者は彼の元には戻らずに、翌朝を迎えます。
領都セゼックの南門の前に騎馬兵1500が押し寄せます。その中から傭兵スタイルのミーナが出てきます。
「妹を開放する要求を拒否するのならば、城門を突破して、妹を取り返すのみ、これが最後通告だ。」
「お待ちください。私は南門の守備隊長です。お声を発しておられるのは、ミーナ様でいらっしゃいますか。」
「そうだ。ミーナ・ファロンだ。城門を開けるのであれば、守備兵には攻撃はせぬ。早々に門を開けるがよい。」
「今は、門は開けられません。私が話しかけたのは、ウルリヒ様から指示があったからです。昨日、特使をお送りしました。書簡が読まれましたか。」
「書簡は受け取ったが、あのような嘘に答えなど必要はない。」
「ミーナ様、誤解があるようです。エリカティーナ様は、賓客として領主の館にお住まいです。」
「誤解だと。そのような事が信じられる訳ないだろう。ケールセットの町にベッカー伯爵軍を送り出している敵の言葉に騙される訳が無かろう。」
「ケールセットの町への攻撃は、ドミニオン国内の問題解決のためです。我が国は、イシュア国と戦うつもりはありません。また、エリカティーナ様は、ウルリヒ様の元でヴェグラ教を学び、いずれは大司祭になられる方です。ヴェグラ教会として大切なお方として、皆が仕えております。」
「口では何とでも言える。エリカティーナは姿を見せないではないか。」
「それは、後ろの騎馬兵がいるからです。弓を放つ事もできましょう。そのような危険な場に、司祭様達を出す事はできません。」
「良かろう。明日の朝、騎馬兵を後ろに下げたまま、私1人だけでエリカティーナを迎えに来る。その時、ウルリヒ司祭には、エリカティーナと共に門外で待っていてもらう。護衛はいくらいても構わない。城壁外で妹と話をする事が、お前たちが妹に無礼を働いていない証明になる。そう、司祭に伝えよ。それ以上は待てない。ベッカー伯爵が戻ってくるまでの時間稼ぎをさせるつもりはない。」
言うだけ言って撤退していったミーナの言葉を守備隊長がウルリヒに伝えている頃、セゼックの都市の中に、南部地域に広まっていた噂話が一気に広がります。ウルリヒがミーナ司令官に、妹であるエリカティーナ嬢を会わせようとしないのは、領主の館で凌辱し続ける事が発覚してしまうからだ、という話が広がると、信徒兵達が高圧的にその情報を取り締まります。
しかし、噂は収まりません。セゼックの住民達は、ベッカー伯爵を下に見ているウルリヒや我が物顔で街を支配している信徒兵に対して嫌悪感があります。今回の出撃も、ウルリヒの命令でベッカー伯爵が動いているため、大きな不満があります。
噂が虚偽だと言うのであれば、城壁の上にエリカティーナ様を連れてきて、ミーナ司令官に一目でも会わせればよかったのに、なぜしなかったのだと言う正論を大きな声で訴える住民も現れます。領主の館で歓待していると言うが、エリカティーナ様は一度も外出していないのはおかしい。なぜ、聖女の姿を隠すのか、その説明をするべきである。
本人が町中に出てきて、ご自身の声で今までの出来事を語れば、全ての問題は解決するのに、なぜそれをしないのだという声が大きくなります。
木精霊の司祭であり、教皇軍の司令官であるウルリヒは、事態を収拾するためにエリカティーナを領主館から外出するように手配しますが、エリカティーナが熱病で寝込んでいる事から、沈静化するための一手を打つことができません。
2,3日前から寝込んでいるため、明日の朝には治癒するだろうという侍女ナタリーの言葉を信じて、ウルリヒは翌日にエリカティーナとミーナを対面させて、全ての誤解を解く事にします。その旨を城内に布告の形で広めます。
体に密着した赤黒い強化肌着の上に、茶色革の腰ベルトと短いスカート、ベストには幾つかの付属品が付いています。腰の両サイドには、短剣が吊るされています。赤黒い帽子から漏れている短い金の糸だけが、遠目から見た美しいです。
かなり後方に展開している騎馬兵から単騎で歩いてきたミーナは、精鋭信徒兵2000と混成兵3000、総計5000の兵士が目前に広がっている事に恐れる事は有りません。
ヴェグラ教徒兵には緑のリボンを腕に付けた者とそうでない者がいます。緑の木組兵士は、統一された軽装革鎧を身にまとい、集団の中央部に固まっています。左右の兵士達は、不統一の装備をしています。構成は傭兵と武器を持たせただけの一般教徒の混成となっていて、統率が取れていない感が漂っています。
「ミーナ・ファロンだ。1人で来た。」
高音の大声が城壁の前の平地に広がって行きます。
木組の兵士達の前衛が少しだけずれると、そこから薄緑の神官服を身にまとった8人の男性が出てきます。8人とも長身細身で、ウルリヒ司祭の特徴を持っています。ミーナの武力を理解している神官達が、ミーナによる殺害を警戒しているのは理解できますが、無意味であるためミーナには滑稽に見えます。
「ミーナお姉様。」
白のシスター服で身を包んだ美少女が、8人の後ろから前へと出てきます。緑目銀髪の妹は敵兵に表情を見られない位置に居る事を理解していて、姉に満面の笑みを見せた上で、悲痛な声を出します。
「逃げてください。」
「エリカティーナ!」
「私はもう生きていても仕方がない人間です。私の身を案じて、降伏するような事をしてはしないでください。そんな事をすれば、私と同じように、お姉様が凌辱されてしまいます。私の身は汚れています。助けてもらっても生きる望みはありません。」
「やはり、お前ら!!!」
「お姉様、罠があります。こちらに来ないでください。私は最後に、お姉様に会いたかった・・・。うぅぅ。」
神官達は目の前で起こっている事が理解できません。ミーナの誤解を消し去るために、真実を知っているエリカティーナを連れてきたのに、目の前で繰り広げられているのは、妹が凌辱されたと姉に訴えている光景です。領主館ではそのような事は一度たりとも起こっていないのに、それが発生した事が事実になろうとしています。
「エリカティーナ嬢、何を言っているのだ。伯爵の館で。」
「お姉様にあった今、私はこの身を終わらせる覚悟はできています。子供達を人質にしても、私は屈しません。」
「馬鹿な。何を言い出すのだ。」
「昼夜問わず、私を犯し、娼婦のように振る舞わせ、部下達に。」
「なぜ、嘘を言う。どういうつもりだ。」
「このような嘘をついて、私に得があると言うのですか。真っ黒な私に未来はないのです。子供達のために屈辱に耐えながら、側近に犯され。」
「黙れ!黙れ!私を貶めるのが目的か。」
「神の声を騙れば、何でも許されると思わないで。」
「こいつを捕えよ。信徒達よ、よく聞くがいい。これは我々教団を。」
「騙されないで。伯爵の屋敷に呼び出された娘達は皆。」
「黙らせろ!」
教徒兵の中央前衛で繰り広げられる寸劇を見守っている5000の兵士達は、街中に広がっていた噂と合致するエリカティーナの訴えに、少しずつ引き寄せられていきます。
「私の娘も、信徒兵が伯爵に居座ってから、一度も戻ってきていない。」
「姉さんも、一度も戻ってきていない。会いに行ったら、忙しいと、警備兵に言われて会えなかった。」
不自然な声である事に気付く者はいません。2人の男の声は信徒を動揺させます。その動揺が、信徒達の本音を表に出させます。突然来訪した木組兵士2000名が、町の支配者であるかのように振る舞っている事に対する不満は、セゼックで徴兵された信徒達の間にも溜まっています。領主ベッカー伯爵を部下のように扱っているウルリヒを快く思っていない住民は多いのです。セゼックに隆盛をもたらした伯爵を尊敬している住民達にとっては、ヴェグラ教の一司祭よりもベッカーと言う人物の方を信頼に値する人物で、皆が慕っています。
「私は南部から流れてきた人間だが。この木組は掠奪者だ。先の戦いでは、南部の街から金貨30000を強奪していた。食料を出させただけでなく、金を奪ったのだ。しかも、金は貧しい信徒に分け与えるのではなく、傭兵のような力の強い者、教会の幹部で分け合ったのだ。木組は行っているのは、略奪だ。同じドミニオン国の民の財産を奪われる事が許されるのか。」
「このままだと、都市は邪悪なウルリヒに乗っ取られて、地獄に変わるわ。」
エリカティーナの絶叫が一瞬にして、兵士達のざわめきを停止します。すでに、陥れられている事を理解しているウルリヒが、激怒と共にエリカティーナに鋭い言葉をぶつけます。
「黙れ。」
「キャァァァァァ!!」
悲痛な叫び声に、多くの兵士達が、美少女を痛めつける悪徳司祭の姿を思い浮かべます。高い舞台に立っている訳ではないため、ウルリヒとエリカティーナの様子はほとんど見えません。だから、多くの兵士達の想像の中で、捕らわれた聖女は、悪徳司祭に暴行を受けています。
「お姉様ぁ!!」
肉親を求める絶叫に信徒達の心が大きく揺れます。
「やめろ!!!」
「乱暴は止めろ!」
「周りの信徒は助けろ、ヴェグラ様がお許しになるはずがない。」
信徒の中から発生られる声に怒号が混じります。木組の兵士達は、木精霊ジフォスの化身であるウルリヒを信じ切っているため、その声に乗っかる事は有りませんが、その外側に居る領都民信者達は完全に煽動の波に飲み込まれています。
「捕えろ!!」
怒号にかき消されない様に発したウルリヒ司祭の声だけが、なぜか戦場全体にはっきりと広がります。演説で信徒をその気にさせてきた彼の声が、この大切な場面で発揮されます。民衆に響く声、心を揺さぶる声が、いかんなくその能力を発揮します。
エリカティーナを捕える命令の意味が、内側の信徒と外側の信徒では全く違う事にウルリヒは気付きません。信徒に罵倒される初めての経験が、彼の冷静な思考力は完全に奪い去ります。
「解放しろ。」
「敵の煽動に乗るな。」
「グァ。」
「蛮行を許すな。」
「静まれ。静まれ。剣を抜くな。我らは味方だぞ。」
「ア!」
「救出しろ。」
「身柄を確保するだけだ。少女を攻撃する訳がない。これ以上近づくな!」
「キャァァァァァァァ!!!」
エリカティーナの絶叫が、騒いでいる兵士達の声を一気にかき消します。そして、その直後木組兵達が口々に叫び出します。
「ウルリヒ様が殺された!」
「天罰よ!ヴェグラ様が私達を救ってくれたのよ!」
エリカティーナの周囲にいた緑の神官8名は全員絶命して倒れています。聖女は兵士から奪った長剣を握りしめながら悲痛な声で叫びます。
邪司祭ウルリヒは少女を強姦した罪でヴェグラ神によって粛清されます。歴史書にこの虚偽が記載されたのは、少女の側に姉が立っているからです。大騒動の中、距離を詰めたミーナは、妹から粛清者の任を譲り受けると、エリカティーナが剣を奮っているのを直視した80名程の木組兵士達を次々に切り伏せます。
怒号で恐喝する姉と、神に懺悔する事によって救われると訴える妹と、信徒に紛れ込んだ煽動者の茶番劇が繰り広げされると、武装解除された木組兵士達はセゼック領民兵の捕虜になります。
ベッカー伯爵領で発生した邪教徒討伐事件は、ミーナ軍が南門を開かせた事で一先ず終結します。そして、敗北感ではなく、開放感を得ながら、セゼックの住民達はミーナ軍の支配下に入ります。




