88 流言
88 流言
イシュア歴393年12月上旬、妹をベッカー伯爵領都セゼックに送り出してから2週間が過ぎます。
「ミーナ様ぁ。」
廊下の方からの足音と共にモーズリー騎馬隊副隊長ユリアンが接近してきます。慌てると同時に憤りも感じられる声に、来るべき報告が来たことを理解します。
「ミーナ様、入室してもよろしいですか。」
「入りなさい。ユリアン。」
「失礼します。ミーナ様。」
「とりあえず、落ち着きなさい。」
「はい。」
元農民の馬乗り戦士は、優れた馬術を活かして、今は機動警察部隊を率いています。ケールセットと各地を繋ぐ街道や小さな村の治安維持を任務としています。
「緊急事態が発生したの?」
「いえ、街道及び、村々の治安は万全です。いえ、そうではなくてですね、噂が広まっていまして、その報告に来ました。」
執務机に乗っている書類に目を通しながら、ミーナは今後の戦略を思考し始めます。
「噂を聞かせて。」
「は、あ、え、その、えっと。」
「エリカティーナの噂でしょ。聞いたままでいいから、話して。」
「セゼックで捕らえられたエリカティーナ様が、酷い事をされているという噂です。」
「噂はもっと具体的だと思うのだけど。」
「あ、はい。」
「報告を。」
「いえ、これは聞かない方が良いのではないかと。女性に聞かせるようなものでは。」
「報告に来たのだから、きちんと話しなさい。」
「分かりました。気分が悪くなるようだったら、言ってください。」
「分かったわ。はい、どうぞ。」
「エリカティーナ様を捕らえたのは、木組の司令官ウルリヒで、即日に異端審問会を開いて、精霊ジフォスの名を騙った背信者との判決を出したそうです。そして、地下牢に幽閉されて・・・。その、あの、ウルリヒに、凌辱されたとのことです。」
表情を変えない姉の態度を見た報告者ユリアンは、総司令官が必死に冷静さを維持していると考えます。
「噂では、凌辱の事が詳しく描かれていたはず。それも聞いてきたんでしょ。報告しなさい。」
「は、はい。噂によれば、ウルリヒは昼夜を問わず、犯し続けるだけでなく、神罰と称して、配下たちにも・・・。代わる代わる・・・。」
「分かったわ。それ以上はあなたが辛そうだから、言わなくてもいいわ。」
「はい、申し訳ありません。」
「ユリアンはどう思う?」
「許せません。宗教に関連して出頭したエリカティーナ様に対して、このような事許されません。ヴェグラ教は、ドミニオン国教会は腐っています。一刻も早く、救助のために出兵すべきです。」
「兵を出す事に賛成なのね。」
「もちろんです。」
「この噂を聞いた部下たちの反応はどうなの?」
「皆、怒っています。セゼックの方から来た商人で、この噂話をしている連中に殴るかかるぐらい怒っていました。ええっと、殴ってはいません。止めましたから。治安維持が任務の私達が、暴力行為は絶対にダメです。やっていません。きちんと厳しく注意をしておきました。ともなく、それぐらい怒っている事を伝えたかっただけです。一応、部隊内には噂に反応しないようにとの通達は出してあります。」
「そう、分かったわ。」
「司令の心中を。」
「ちょっと待ちなさい。誤解があるから言っておくけど。エリカティーナは何もされていないわ。捕らわれているのは事実だろうけど、凌辱されているような事はないわ。」
「え!どういう、え?え?」
「エリカは私と同じくらい強いのよ。エリカが私の影武者になったのは形だけではないのよ。それに、ベッカー軍への夜襲で打撃を与えたのは私だけって事になっているけど、エリカも一緒に戦ったの。エリカがその気になれば、いつでも脱出できるのよ。」
「では、どうして、捕らえられていて、このような噂が流れているのですか?」
「敵を倒すための作戦だからよ。この噂を流しているのは多分、エリカの部下達よ。」
「なぜですか?」
「必要だからよ。とりあえず、この噂によって、兵士達に敵に対する怒りを持たせることも重要だから、副隊長以上の者にだけ真実を伝える事を許可するけど。それ以外にはエリカが凌辱されたという事を信じさせる必要があるわ。分かった?」
「はい。」
「では、すぐにモーズリー騎馬隊を招集して。」
ミーナは、第5騎士団にも招集をかけて、騎馬兵だけを直接指揮する事にします。
南部貴族の街では、ケールセットのミーナ軍が、ベッカー伯爵領に攻め入り、教皇軍木組を討ち滅ぼすだろう、という噂が流れます。愛する妹を救出ために女傑が討伐に動き出すという話が広まると同時に、南部の人間はミーナ軍を支持するようになります。
北部から中央部にかけての地域では、ヴェグラ教は神の代理人として大きな信頼を得ていますが、何度も食料を奪われている南部の民にとっては、口には出さないものの、ヴェグラ教は盗賊集団と変わりがなく、滅んでしまえと考える者も少なくありません。
エリカティーナとミーナが発した噂は、南部地域とそれ以外では民衆は全く異なる反応を示します。だから、ベッカー領にいた木の精霊ジフォスの代理人を自負するウルリヒは、自身が15歳の少女に凌辱の限りを尽くしているという噂を取るに足らない情報として無視して、この噂に対する対処を放置します。彼にしてみれば、余りにも愚かな内容であったため、この誹謗中傷は民衆から無視されると考えています。そして、ミーナ軍側が愚かな情報戦を仕掛けるぐらいに打つ手がないのであれば、こちら側は既定の戦略を実行すれば勝利できると考えます。
戦をしては連戦連勝のベッカー伯爵に、教皇軍の旗を与えると同時に、ケールセットの町の占領を命じます。総勢10000の伯爵軍の総力で、騒乱の根を絶つ事を神に誓わせて、教会よりヴェグラ教の加護を与えます。加護とは様々な場所で、教皇の代理として募兵する権利を付与する事を言います。いつでもどこでも兵の補充が可能になった名将の出陣を見送ったウルリヒは、ミーナに対して、妹を返還する代わりに、ドミニオン国からの撤退を要求します。撤退に同意するのであれば、ドミニオン国への侵略の罪を問う事はせず、撤退完了後、エリカティーナをイシュア国に無事に届ける事も、要求書には記載します。
教皇軍の手法である威嚇進軍と戦争回避のための要求書簡の重ね技は、2か月前に南部地域のフェルマー侯爵に通用しているだけでなく、北部の反国王派の蠢動を悉く潰してきた定石であり、無敗の戦略です。この戦略は教皇軍の末端にまで浸透していています。
魔獣に汚染されているイシュア国の野蛮人が、神の恩恵を理解せずに、要求を断ったとしても、名将ベッカー伯爵の軍略で、勝利を手にする事を信じている木の精霊の信者は、完全に油断しています。
「ミーナ様、南部の街で噂を広める事に何の意味があるのですか?」
「ベッカー領に向かっている今、聞く事なの。」
「気になってしまって。」
馬上のミーナに、ユリアンが話しかけます。
「宗教と言うのは手強いのよ。イシュア人の私達には理解しにくいと思うけど。神への信仰心というのは、それを信じている人間の力を何倍にもする事があるわ。」
「ウルリヒの悪評が広まっても、奴だけが信頼を失うのであって、ヴェグラ教への信頼は崩れないと思うのですが。」
「簡単には崩れないと思うわ。だけど、傷をつける事はできるし、今から討伐する敵の司令官個人の信頼を失わせる事は、私達にとって有益よ。」
「それは分かりますが、わざわざ遠回りまでして、噂を広げる価値があるとは思えません。」
「まあ、少しでも効果があれば良いのよ。それに、ケールセットから最短距離で、セゼックへ向かう事はできないわ。」
「どういう事ですか。」
「今頃、セゼックから、ベッカー伯爵が出陣しているだろうから、途中で遭遇するのを避ける必要があるのよ。」
2人の近くで聞き耳を立てている馬上の部下達も驚いたような顔を見せます。自分達が出発したケールセットの町には、重装歩兵を始めとした防衛軍は存在していますが、町の機動力である騎馬部隊はほとんど残っていません。
敵軍が町だけを攻撃するのであれば、守り切る事は可能ですが、城壁内に閉じ込められてしまうと、周辺の農村が荒らされるのを防ぐ事はできません。
「ミーナ様、敵が大軍を率いていたら、籠城戦でも苦しいのでは。」
「伯爵軍は多くても15000だろうから、残った兵力だけで十分に守る事ができるわ。」
「村は焼かれてしまいますよ。」
「それは仕方がないわ。それに、収穫は全て終わっているから、敵も無人の家だけを焼いても意味がないと考えて、そういう事はしないでしょ。ケールセットの町は拡張してあるから、周辺の村の住人を全て収容できるわ。」
今回の出陣におけるミーナの狙いは2つあります。1つは、ベッカー伯爵軍に大きな打撃を与える事です。前回の夜襲戦において、ミーナとエリカティーナの活躍によって一定の打撃を与えていますが、再び同じ状況を作る事は無理だろうとミーナは考えています。警戒心の強い知者である伯爵が、同じ失敗をするはずがありません。しかし、今回はベッカー伯爵の上に教会勢力のウルリヒがいて、それを利用して戦場に引きずり出す事ができます。
教皇軍の特徴を分析すれば、敵の城塞を囲んで威圧するのが定番です。要するに、包囲攻城戦が教皇軍の得意技であり、絶対的な勝ち筋です。攻城戦の不利を知っている伯爵が取るはずのない選択を、宗教家がしてくれるのだから、これを活用するのがミーナの策です。どんなに指揮が優れていて、縦横無人に兵士達をコントロールできると言っても、城と言う点を攻撃する場面においては、伯爵の能力を活かす事はできなくなります。
伯爵軍の精強さは、伯爵の作戦をしっかりと実行する兵士達の練度によるものですが、勝利を手にするためには、伯爵が戦場で自由に采配を振るうというのが条件になります。
ミーナはベッカー伯爵をケールセットの町におびき寄せるために、途中で遭遇戦をする訳にはいきません。遠回りして、セゼックの街へ向かうのはそういう理由です。
もう1つの狙いは、ウルリヒの首を取る事です。物理的に言えば、ミーナの視界に入れる位置まで接近すればどうにかなりますが、宗教勢力の人望のある人間を排除するためには、大義名分がとても重要です。大義名分を明確にせずに、敵将を殺害した場合、彼が殉死者になる危険があります。殉死者を掲げた宗教勢力が暴走する可能性が高く、簡単には倒せなくなります。また、1つの戦いでの勝利で全てが決まるような事はなく、戦後処理を誤れば、永遠に宗教勢力に目の敵にされてしまいます。
これらを避けるために、ウルリヒを極悪非道な人間であると印象付けて殺害する必要があります。エリカティーナが捕らわれる事を承知の上で、召喚状に応じて、ミーナがそれを許可したのは、討伐するための下準備です。
南部の民にとっては、神の名を借りた強盗団であっても、中北部の民にとっては神の恩恵を施す善意の集団です。その善意の集団の闇を暴かなければ、ドミニオン国の闇を振り払う事ができないと、ミーナは考えています。




