87 教皇軍
87 教皇軍
姉妹の強盗団は、夜襲の日から7日間、ベッカー軍に嫌がらせを続けます。僅か2名の敵襲に立ち向かった小隊は殲滅され、中隊は崩壊されます。大隊であれば、2人の襲撃者も接近戦を避けますが、馬上で指揮する部隊長は確実に射殺されます。
暴れ回る2人に対して伯爵軍は的確な対応ができないまま、昼夜関係なく出血を強いられ続けます。ベッカー伯爵は夜襲時に少数の部隊と共に一早く撤退した上、領都まではひたすら撤退し続けたため、戦場に残した兵士達に、撤退以外の指示を出す事ができません。特に、男爵領から移動してきた遠征軍には、明確な撤退命令が出ないまま、イシュア軍を挟撃または包囲殲滅するという命令が残っていて、戦場離脱に遅れてしまいます。
戦場で放置される状況に陥った男爵領遠征軍は、伯爵からの撤退の命令が伝えられるまでの3日間、2人と追いかけっこをしながら手痛い反撃を受けて、撤退をしてからの4日間も昼夜を問わずの襲撃に疲労の極致に達します。
恐怖を与えるだけ与えた2人は、馬と食料を強奪してから、悠々とケールセットの町へと向かいます。大活躍した妹、絶賛する姉、姉妹は2人きりの7日間を満喫して帰還します。
ベッカー軍が、ミーナ軍を撃退したという虚偽情報を流す事を予測していたミーナは、大々的な戦勝パーティーを開きます。貿易の大元締めであるケールセットの財務状況を少し圧迫するかもしれないと思わせる程の褒賞を、領主リヒャルトの名で与えます。
この勝利で、国王アルフォンスとの直接交渉の道が開けたと考えていたミーナに凶報が届いたのは、パーティーから10日が過ぎてからです。
ケールセットの行政府兼領主館の小会議室に、領主リヒャルト、駐留軍総司令官ミーナ、行政長官テリー、駐留軍総司令官代理カール、参謀エリカティーナが集結します。最後に登場したカールが書簡の内容を確認しながら質問を繰り出します。
「とりあえず、男爵領の領都を包囲していたのは、ヴェグラ教会で編成された教皇軍でいいのか・・・。教皇軍を撤退させるために、フェルマー侯爵が、金貨50000枚を支払ったと。で、今は撤退済みと。」
「周辺の畑の収穫も強奪して行った。」
「ああ、書いてある。書いてある。穴埋めはできそう?テリー。」
「南部貴族もフェルマー侯爵を支援するとの事だから、こちらで半分も補填すれば、現状の維持はできる。」
2人の従弟が言っているように、緊急事態として対応しなければならない訳ではありませんが、今まで優勢であると考えていた事が、幻想であったことに忌々しい思いのミーナは、殊更に冷静さを装います。
報告書を手に読みながらカールがミーナに向かって話します。
「なるほど、男爵領に向かったベッカー伯爵の軍は、教皇軍と入れ替わったから、すぐに戻ってくることができたのか。」
「そうよ。男爵領の都を大軍で包囲している現状が変わらなかったから。私達はベッカー軍の動きを把握できなかったのよ。」
「でも、敵が早急に戻ってきて、夜襲を繰り出して来たから、敵に打撃を与える事ができた点は・・・。良い事だが・・・。姉さん、教皇軍が20000で包囲したと書いてあるけど、20000、どういう事?」
凶報を作り出した元凶の情報に辿り着いたカールは驚嘆します。20000の兵力を動員できる貴族は存在せず、貴族連合軍を編成しなければ、この数を集めることは不可能です。そして、その大きな動きが事実であれば、ミーナ軍の諜報部署が何も情報を仕入れていない事はありえません。
「もう少し、読めば書いてあるけど。教会勢力の軍部組織は教皇軍と呼ばれていて、所有する兵力は、全土に点在する教会に分散配備されているとの事。総勢は50000以上と言われているけど、実際に50000を集める事は不可能よ。」
「でも、20000は集まったのか。」
「ドミニオン国の人間は、信仰心の強弱はあっても、全員がヴェグラ教徒だから。町で招集をかければ、信徒を集める事ができるみたい。今回の教皇軍は、木組の将軍ウルリヒ・トーン子爵が率いる2000が、中央の大教会から出陣。方々で信徒を募って、10倍まで膨らんだと書いてあるはずよ。」
「確かに、書いてあります・・・。そして今は、参軍した信徒たちに報酬を渡して、各地に戻した・・・。これって、教皇軍はいつでもどこでも大規模兵力を出現できる事を意味していて、かなり・・・。信徒に武器を持たせても戦力にはならないと言いたいけど、これだけの数がいて・・・。ああ、なるほど、本隊2000の正規兵が10人の信徒たちを率いて小隊を作るのか。侮れないな。」
「そう、侮れない。」
行政担当のテリーが2人の会話に入ってきます。
「ですが、姉さん、信仰心というのは民兵を強くするのでしょうか。戦闘訓練を受けた人間が信仰心を持って戦う場合は強敵になるかもしれませんが、各町で信仰心のある民を集めたとしても、数は力であるという事になるのでしょうか。イシュア国の兵士達であれば、信徒に遅れを取る事はないはずです。」
「テリーは、信仰心の強さが強さにつながる事を理解していないわね。ヴェグラ神を特別に信奉していない私達にとっては信じ難いかもしれないけど、神のために死を受け入れる事ができるのが信仰心というものよ。命を捨てる覚悟があれば、戦場での使い道は増えてくる。」
「確かに、命をなげうって戦う兵士は強いですね。しかし。」
「訓練していない民兵が覚悟を決めただけでは、鍛えられた兵士には勝てないと思うかもしれないけど。魔獣と戦う事を思い出してもらえば、理解できると思うわ。戦闘能力が低くても、信仰心のあつい民兵が、命を捨てて動きを止める役を担い、訓練を受けた戦士が攻撃役となれば、侮る事はできないわ。」
「魔獣狩りと同じ配置で戦えば、侮る事はできませんね。」
「そう言う事よ。」
「テリー様、信仰心を持った人間はある意味狂っているから、人間の限界を超えるような事があります。油断は禁物です。」
「そうだな、エリカティーナの護衛の少年達も、ヴェグラ教に洗脳された兵士だったな。あの年で、あの強さと言うのであれば、侮るのは危険ですね。ただ、イシュア国の登場で、魔獣を退治できないヴェグラ神という事実が広まり、フェレール国でもドミニオン国でも宗教勢力が弱まったと聞いていますが。どうして、これほどに強くなったのですか。生活に根付いている宗教ではありますが、戦う事とは無縁だと聞いた事があります。」
「リヒャルト、説明してあげて。」
「はい。今教会は、第2王子であった王弟ブルーノ兄上が、教皇代理という役職について実質的に仕切っています。教皇代理は、唯一アルフォンス陛下と母親が同じ王子だったため、とても仲が良く。陛下のために教会に入り、教会勢力を把握しました。教会勢力は今、国王の権力基盤の1つになっています。」
「教会直属の軍部は、実質的に、国王直属軍と言えるのか。」
「はい。教皇軍の中核は、5人の将軍がそれぞれ指揮している火組、水組、木組、金組、土組の5部隊です。5つの精霊を旗印に掲げた部隊が、神の名前を掲げた軍隊として、今までにも何度か国王のために戦場で活躍しています。」
「リヒャルト様、質問があります。」
「はい。カール殿、何でしょうか?」
「ヴェグラ神は、戦神という訳ではなく、教会は元々戦う勢力ではないと思うのです。それなのに、信徒は兵士になる事に抵抗がないのですか?」
「中核の部隊は、最初から国王のための兵士として集められました。しかし、普通の信徒達はすぐに兵士になる事はありませんでした。教会の教義には、戦争をよしとする内容がないからです。ですが、冷害が続いた時に、大きな変化がありました。」
「食料を奪うために戦ったという事ですか。」
「はい。飢えた民をまとめて、食糧のある地、主に南部ですが、南部に出陣して食料を奪います。戦闘を避けたい南部の貴族が食料を差し出す形で決着する事が多く、戦闘そのものは少ないため、実戦経験を重ねるような事はありませんが、抵抗する南部の貴族もいたため、教皇軍の中核部隊は、抵抗する貴族軍を屈服させる必要があるため、相当の軍事訓練を行っています。中核軍の兵士達は、民兵たちを率いるための知識を教えられて、指揮する訓練も行っています。各地で集めた民兵であっても、それなりの軍事行動がとれるようにはなっています。」
軍を直接指揮するカールは、司令官としての苦労を良く知っています。その苦労を、信仰によって補う事ができる教皇軍が弱くない事を理解します。
「食料不足の時に、食糧で釣って兵士に仕立て上げたのか。」
「はい。教会では、これは戦争ではなく、神の恩寵を分け合うための行動であると信徒に教えています。信徒達もそれを信じる者は多く、食糧を分けてもらえるという事で、教皇軍を支持しています。奪われる側の南部では忌々しい存在ですが、中央部から北部にかけては、救世の使者達だと教皇軍は尊敬されています。」
「という事は、今回の教皇軍は、信徒を救うための活動が行って、見事に食糧と金銭を奪い取って、信徒に分け与える事に成功したと。」
「そういう事になります。」
今回の戦いでベッカー軍は敗北と言える被害を受けていますが、もう少し視野を広げて、北部国王軍と南部貴族連合の対立から結果を見ると、南部側は経済的な大損害を受けています。そして、今回は教皇軍が1人勝ちの結果を手に入れています。
ミーナは、王家がこちらからの交渉を無視している理由を理解します。王家にとっての南部は、宗教勢力を大きくするための餌でしかなく、統治外地域であると考えているのです。イシュア国側の勢力範囲に入ろうが、リヒャルトの独立地域が生まれようが、南部から略奪ができるのであれば、大きな問題として扱う意義を、アイヒベルガー王家側が見出す事はありません。
情報収集が戦争の基本である事を理解しているミーナは、膨大な予算をかけての情報網の構築を命じます。すぐに結果が出る訳ではありませんが、教皇軍の情報はすぐに集まってきます。
今回の戦いの勝利者であるウルリヒ・トーンは子爵家出の高身長の美青年で、ヴェグラ教会内では女性信徒に人気があります。教会内での恋愛は禁止されていないために、多くの女性信徒が彼との結婚を夢見ていますが、彼は木精霊の化身として神に仕えている事を明言しているため、生涯独身である事を宣言しています。
この殊勲者は、信徒達を解散させた後、教会本部には戻らず、ベッカー伯爵領の領都セゼックに木精霊の軍団である木組と共に駐留します。その情報が入ってきた時、ミーナは悪くない情報だと考えます。敵の圧力が大きくなっても、敵軍の司令塔が2つに分裂しているのであれば、そこに付け入る隙が発生すると考えます。
「ミーナお姉様。入室してもよろしいですか?」
「いいわよ。エリカ。」
軍司令官の執務室に入ってきた妹は、ヴェグラ教会のシスター服をまとっています。薄緑色で全身を覆っている美聖女の笑顔にミーナは嫌な予感しかしません。
「どうしたの、そんな服を着て。しばらく結婚式はしないわよ。」
「ウルリヒ様から、召喚状が私に送られてきたのです。これです。」
「木の精霊ジフォス様の代理人だから、緑の封筒なのね。それで、何のための召喚なの?」
「私が、ジフォス様の名を騙って、神聖なる結婚式の主催を行った事に対する弁明を求めるとの事です。要は、昔行われていた異端審問会を開くから、被疑者として出頭せよとの書簡です。」
「勝手に教会の人間として結婚式を司った事を罰するという事なのね。それで、エリカは行きたいのね。」
「はい。」
15歳の妹は、美女としての完成に近づいている美少女で、そこにいるだけで男たちを跪かせることが可能な美貌を持っています。しかし、それは万人に通用するものではなく、その美の肉体に欲情する男性も少なくありません。オズボーン公爵家の血を引いた女性だからという理由で、不埒な思いを抑制する男性が多いのは、イシュア国に通用する理屈です。ドミニオン国において、エリカティーナは極上の美人という肩書を持っている獲物にしかすぎません。
「木組とは、教会の商業部門を名乗っているけど、子供達を洗脳して、暗殺者に仕立てている所よ。分かっているの。」
「もちろんです。」
「護衛達を連れて行くつもりなの。」
「はい。」
「ナタリーも連れて行くつもり?」
「はい。私の護衛として。」
「ナタリーは自分で身を守る事はできないわ。」
「護衛の子達が守ってくれます。」
「優れた子供達だけど、私達とは違うわ。身を守る事でさえ難しい状況もありえるのよ。」
「ナタリーも子供達も納得しています。私が身を守るのに精一杯という状況になったら、見捨てる事も伝えてあります。」
「エリカは見捨てる覚悟はできているのね。」
「できています。」
姉ミーナは、妹が恐らく最強の人間であると考えています。成長期である妹は、肉体的な成長が終わっている自分と現時点で同等の武力を持っています。このまま伸びていけば、妹が18歳になる3年後には、自身よりも一回り強い武人になる事は間違いありません。
そして、この少女には、人の生死に対する感情を封印する事ができるという特質を持っています。敵ではあっても命を奪っても良いのかという逡巡だけでなく、戦場で発生する味方の犠牲が魂を重くする事もありません。エリカティーナは、死んだ事実を単なる現象の1つとして捉える事ができます。ミーナがその本心を聞く事はありませんが、姉として観察してきたミーナには、そうと考えないと納得できない事が数多くあります。
「分かったわ。召喚状に応じる事は認めるけど。目的は何?」
「ウルリヒ様の出方次第です。ただ、敵地に乗り込んでいって、暗殺するだけという事はしません。殉死した聖人として祀られるような状況を作ってしまうと、今後の戦いが不利になりますから。」
「捕らえたあなたを人質にして、様々な事を要求してくると思うけど。」
「向こうの要求は全部無視するか。断ってください。」
「・・・・・・。パパとママに心配をかけるのは仕方がないけど、叱られるような事はしないって、約束できる?」
「はい。」
妹基準での叱られるような事をしない約束と言うものが、自分の意図とは全く違うだろうことは分かっていても、ミーナは、この場で自分よりも強いカードを切る事を決断します。情報を集めれば集める程に、現状打破が難しい事が理解できているため、エリカティーナを出動させるしかないと判断します。




