85 名将
85 名将
ベッカー伯爵領の南西部には、未開拓の平地があります。そこを戦場に設定した伯爵軍は、6000の兵を3つに分けて横一列に並べます。
これに対するミーナ軍4000は、5部隊に分けられていて、中央前衛に重装歩兵、中衛に弓兵、後衛に軽装歩兵と縦に並びます。左右には騎馬部隊が配置されています。
「私は王弟リヒャルト・アイヒベルガー。私の名を騙る偽物を討伐するために来た。一騎討ちで決着をつけければ、犠牲者は1人で済む。勇気があるなら出てくるがいい。」
両軍の中間地点まで進んだ黒騎士が名乗ると同時に、一騎討ちを申し出ても、ベッカー軍にはざわめすら起きません。ミーナ軍も沈黙を守っていて、戦場に居る1枚の兵士達が黒い王弟に注目しています。
「偽物であっても、私を倒せば、本物を乗っ取れるのだ。この機会を活かさないでどうする。ベッカー伯爵が相手でも良い。南部地域を荒らし、民衆から略奪する盗賊の頭目よ。いつも兵の陰に隠れてばかりでは、兵を率いる事もできまい。南部地域の支配者となり、侯爵になるには、私を倒す必要があるのであろう。卑劣な野心の中に、勇敢さが少しでもあるのなら、14歳の私が相手になってやる。出てくるがいい。」
挑発行為に炙り出されるはずがない優秀な司令官に対して、最上のエサを用意したミーナは一本釣りを試みますが、予定通りに食いついてはきません。そうなると、言葉戦へと移行します。
「挑発されても動かない事が、戦争において重要だとでも部下に騙っているのだろうが。これは戦争ではない。これは、伯爵軍が民衆から略奪する盗賊になり果てたから、懲罰である。お前達が南部で何と呼ばれているのかは知っていよう。乞食盗賊団と呼ばれている理由は、お前達自身が一番よく知っているだろう。武器を持ち、国民を守るのではなく、農民を脅して、食料を奪ってきた事を、お前達自身が一番よく知っているはずだ。王弟の偽旗を掲げても、お前達が盗賊である事に変わりはない。どうした。真実を指摘されて、何も言い返す事ができないのだろう。そうして、黙っているがいい。お前達の罪状をつぶさに語ってやろう。1つ目、モーズリー高原に侵入して、住民3万を皆殺しにした事。2つ目、ケールセット領から食料を強奪して、領民を飢えさせた事。奪い取ってすぐに逃げたお前達は知らないだろうが、餓死者は1万を超えている。3つ目。」
「黙れ。リヒャルト様の名を騙り、我が軍の名誉を汚す偽物。我が、ハルバードで討ち取る。」
「盗賊共の統制が取れなくなって、強そうな部下を送り出したか。これが偽物のやり方。ベッカー伯爵を名乗る、盗賊団のやり方。」
「黙れ!」
赤髪赤目赤髭の巨体が、茶色の馬にまたがって突進してきます。銀の鉄製装備で全身を包んでいる騎士が、砂煙を上げながら、黒騎士に接近しますが、リヒャルトは逃げ出しません。
「逃げないとは、我が刃を受ける気があると言う事か。」
「自信があるから、単騎でここに来ているのだ。」
「我が名は、ベルド・フォン・ジャガール。」
「男爵位を盗んだ強盗団の団長の1人か。大そうな武器を持っているが、使えるのか。」
「うおぉぉ!」
一騎討ちに投入された赤髭は、抑制される事を解除されていて、怒号と共にハルバードを奮い始めます。巨体から繰り出される一撃には破壊力がありますが、一撃目は空を切ります。リヒャルトの黒馬が上手に避けます。
「見事な黒馬だが。」
平民出身のベルドは、ベッカー伯爵の指揮下で武勲を重ねた事で、男爵位を得た強者です。ベッカー軍の中では第1将軍として軍を率いて良し、単騎で突撃して良しの破壊兵器です。
投入した伯爵も、投入された男爵も、14歳の若造を一瞬で抹殺できると考えていますが、第2撃もリヒャルトはいなします。周りからは、ハルバードの攻撃をリヒャルトの剣が受け止めているように見えますが、王弟の剣はハルバードに少し触れて、攻撃の方向を少し変えるだけです。
巨体の強力な一撃を受け止めるだけの膂力を持ってはいませんが、攻撃をかわすだけの速さと目と経験をリヒャルトは持っています。義妹エリカティーナに鍛えられた体は、攻撃から身を守ると言う技能においては、最上のものを手に入れています。
「はぁ、はぁ。はぁ。」
2時間近い一騎討ちが続いても、王弟にハルバードが届くことはなく、武勇優れたベルド男爵は、攻撃し続けたために呼吸を乱すようになります。
「ん、どこへ行く。」
赤髭の巨体が馬首を翻した黒騎士に問いかけます。
「腹が減ったから、陣に戻って食事を取る。なかなか、強かったぞ。」
1日目の前半戦は、太陽が真上に来た時点を持って、一騎討ちの引き分けという結果を出します。
ミーナ軍の陣形は、騎馬隊で敵側面を攻撃する作戦を実行するためのものです。騎馬突撃で敵陣を突き崩すためのものです。
「左右の騎馬隊を、敵の側面に回して攻撃。中央は重装歩兵を前進させる。敵の弓兵の射程距離に踏み込む。」
命令が発せられると昼食後の攻撃が始まります。敵兵の前で昼食を取っての挑発にも動かなかったベッカー伯爵軍が、防御を固める戦術を取っている事は明確です。主導権を譲られるというのであれば、騎馬の速度を利用して敵陣を切り裂くタイミングを作るのが定石です。
「左右の騎馬隊が突撃を躊躇っているようです。」
最後方の軽装歩兵隊の中にいる紅白の騎馬兵と黒騎士だけが、前方の様子を見る事ができます。リヒャルトが淡々と言葉にした状況は、ミーナの予想外の展開です。伯爵軍が突撃した騎馬兵を押し返したのではなく、突撃の隙を作らずに、突撃そのものを見事に防いでいます。
「敵は3軍とも、重装歩兵、軽装歩兵、弓兵を混成させている。だから、側面に回っても、すぐに騎馬のいる方向に、重装歩兵の壁を作る事ができる。無理やり突撃をして、切り開いても、軽装歩兵が壁の中で動けるから、騎馬の足を止める事ができる。それに、歩兵の中に突入した騎馬兵は、弓兵の的になるわ。」
完全に防衛に徹したベッカー軍には隙がありません。敵の弓兵が弱々しい遠距離射撃を断続的に行っていて、戦いが行われているように見えますが、実際にはミーナ軍が攻め手を掴めないために、敵の前で盾を掲げて矢を防いでいるだけになります。
「左の騎馬が突撃を仕掛けます。」
「敵の左側に、弓兵の遠距離射撃を行わせて。援護射撃をさせなさい。」
ミーナは全体を見つめながら、伯爵軍の隙を作るための手を打ち出します。
エリカティーナが行った騎馬突撃は、壁の一枚を剥す事には成功しますが、何層にも重なっている防衛陣は強固です。騎馬兵が飲み込まれてしまう危険を感じた紅白の美騎士は、突入を中断して撤退を行います。
逃げ出す騎馬兵に追い打ちを仕掛けるのが、ベッカー軍の既定戦術です。先頭で突撃した騎馬兵であるエリカティーナはそのまま殿となり、軽装歩兵の的になります。故王伯の女騎士が敵将軍の1人である事が分かったベッカー軍は、エリカティーナに群がります。軽装歩兵が急接近して攻撃を仕掛けてきますが、エリカティーナは馬上槍で次々と返り討ちにします。
30の遺体を作った頃、エリカティーナを囲もうとした歩兵達は後退し始めます。エリカティーナは距離を取られると、弓兵の的になるため、馬首を翻すと逃げ出します。
「エリカの突撃も防がれたわ。」
「どうしますか?」
「リヒャルトなら、どうする?」
「今日は本陣まで撤退するべきかと思います。」
「理由は?」
「兵種別の編成の目的は、騎馬突撃で敵陣を切り裂く事ですが、それができていません。軍の編成を変えて挑む必要があると思います。」
仕切り直しを提案するリヒャルトの意見を採用すると、ミーナは殊更に隙を見せながら敵前から撤退しますが、騎馬兵を率いていないベッカー軍が追撃に出る事はなく、1日目の戦いは、双方大きな犠牲もなく終わります。
1日目の夜襲はなく、2日目の戦いが朝から始まります。
「2と3の騎馬隊を突撃させて。楔を打ち込む。」
ミーナは自ら騎馬兵を率いて突撃を開始します。2日目の陣形は、全軍4000が混成部隊となり、1つの塊になります。ただし、その塊の中に100騎馬16組の小隊を配置して、敵に対してどこからでも騎馬突撃を繰り出す事ができるようにしています。
重装歩兵と軽装歩兵で作られた発射口がある壁を前面に押し立てて敵の弓を防ぎます。その後方から長距離射撃の集中攻撃を行って、敵陣に小さな傷をつけます。その傷口を騎馬兵で大きく広げる事が基本戦術になりますが。複数の壁で騎馬隊の大突撃を、昨日も封じ込めていたベッカー軍には通用しません。
その事はミーナも理解していて、16組の騎馬隊に小さな突撃を何度か仕掛けさせて、敵兵の偏りを作り、弱くなったところに一斉突撃を仕掛けるという戦術を取ります。騎馬兵を率いる部隊長の力量が問われる戦術は、見事に機能していますが、主導権を握っているはずなのに、ミーナは敵陣を崩す事ができません。
ベッカー軍は攻撃を受ける側で、戦況に対して後手になっているはずですが、的確に防御を続けます。
「あの3本の大旗で、歩兵達にどの方向に動くのかを指示しているのか。」
敵中央軍、左軍、右軍の後方に高々と掲げられている赤、青、緑の3本の旗が、大きく動くと、兵士達はその向きを変えて、騎馬突撃に対処します。ミーナは小さな傷を作る事には成功して、2撃目を加える所までは進みますが、切り裂くための集中突撃を繰り出す前に傷を防がれてしまいます。
傷が塞がれると、突撃した小騎馬隊が敵陣に取り込まれる場合もあるため、その際にはミーナ軍は救出のための突撃を行わなければならなくなります。先手を取って攻撃しているのに、各所ではミーナ軍が不利になる場面も発生していて、ミーナ、エリカティーナ、カールの3枚の切り札を、救助のために投入しなければならなくなります。
オズボーン公爵家の血と武を受け継いでいる3人が、個人でありながら、戦略兵器であると言われるのは間違いなく、3人が赴いた戦場では、敵兵の死体が次々と誕生します。しかし、敵軍を崩壊させるためには、敵陣を突破できる攻撃を軍として仕掛けなければならないため、個人の破壊力だけでは、陣を突き崩す事はできません。
ミーナ軍に決定的な場面を作らせないようにしながら、巧みに自軍をコントロールしているのが、ベッカー伯爵軍です。3つの軍の後方にある3本の大旗の元に、彼がいるのは間違いないのですが、3つの内のどこにいるのかは不明です。
そもそも、この戦場にいる6000の兵士達が、別動隊で、伯爵がここに居ない可能性もあります。
ミーナ軍が崩壊するような攻撃を受ける事はありませんが、ミーナ軍の攻撃を全て受け切るベッカー軍が強敵である事は間違いなく、戦場全体を支配していると言っても過言はありません。




