81 熱波
81 熱波
ドミニオン国は、北部がフェレール国に接していて、南部がイシュア国に接している巨大な国です。南部地域はイシュア国と同様な温暖な気候帯であり、平地が広がっています。モーズリー山地を源流とするいくつかの大河が流れる南部地域は、穀倉地帯と言えます。食料生産等を含んだ経済的な観点から言えば、ドミニオン国の中心地は南部に置くべきですが、北部地域から国が始まった事から、ドミニオン国の中心は北部にあります。
王都も教会の中心である教皇領も北寄りにある以上、北部貴族の政治力が南部地域より勝っています。時々南部の食糧生産地に対して、北部の貴族が臨時徴税と名の略奪を行うのが許されるのは、政治力に大きな格差があるからです。
ミーナがケールセットの街の領有だけでなく、南部地域との貿易を行って親交度を上げるのは、南部側の経済力を上昇させると同時に、地域連帯を進めて政治力を高める狙いもあります。王家や北部の有力貴族からの圧迫を南部全体で受け止める体制づくりがミーナの急務です。
南部地域をイシュア国の助力で豊かにする事ができれば、南部地域の貴族達はケールセットの街がイシュア国の支配下に入る事に反発しないと宰相は判断しています。この判断に基づく施策は成功しつつあります。やはり、王弟リヒャルトという大義名分を掲げる事は大きく、明確な反発を示す南部貴族は皆無となり、貿易によって手にできる利益に満足しています。
「リヒャルトは、各商人からの報告を受けて、どう思う?」
領主の執務室の中央にある大テーブルを挟んで、ミーナとリヒャルトは向かい合って、事務処理を行っています。青のズボンに白のシャツ、水色のワンピース、領主とその婚約者とは思えない簡素な服装の2人は、書類から目を離して、見つめ合います。
「馬を増やせば、貿易が盛んになると思います。」
14歳の少年領主としては合格点だとは思いますが、行政官としてはこの次が問題です。
「馬を増やすにはどうすれば良いと思う?」
「モーズリー高原で購入するしか方法が無いかと思います。」
「買うとすれば、それしかないわね。それで?」
「次は・・・。牧場を作って、馬そのものを増やすでしょうか。」
「正解よ。4つの村のそれぞれに大牧場を作るのが良いと思う。」
「分かりました。手配の方は私が行います。」
領主として成長する婚約者を見守るのは、ミーナの喜びの1つになっていますが、失敗や手抜かりまで見守るつもりは有りません。
「他には?」
「他ですか・・・。他には・・・。」
書類を手にして、もう一度読み直します。行政の師匠であるミーナが気付けた事を自分も気付きたいと考えるリヒャルトは必死に探します。商人達の報告書は、各物品の過不足や、価格の高低が記載されたものです。行政に対する要望書ではありません。
「何かに気付かない?良く売れている品物を見て。」
「極小の水の魔石が、売り切れになっています。飲み水用に使うものが良く売れているのは・・・。」
「売れているのは?」
「水が足りないという事でしょうか。ですが、モーズリー高原から流れ出る水量は、いつもより増やしてもらっています。水が足りないと言う事はないと思います・・・・・・。これから水不足になるんですか?」
「来月あたりには水不足になるのかもしれないわ。どうやら南部地域は、熱波に襲われているみたい。魔石の水は冷たいから、暑い時には好まれるわ。南部全域で気温が上昇していると考えられるわ。3か月前の雨も普段より少なかったのは、商人達から聞いているわ。古老の人達の話によれば、4月の雨が少なくて、例年以上に気温が上がり続けた場合は、熱波でどこも水不足になると。」
「今の水量でも足りないのですか。」
「その可能性が高いわ。南部地域は、川から離れた農地もたくさんあって、簡易水路で水を引くか、井戸水で農業用水を確保しているのだけれど。南部の大地全体が乾燥すると、水路の途中で水が大地に吸い込まれてしまうし、井戸の水も枯れてしまう所があるかもしれない。」
「では、水路を補強して、川の水量を増やす事で対応しておく必要があると言う事ですか。」
「どのくらいの影響が出るのかは分からないけど、とりあえず、その手で対応するしかないわ。南部地域の領主貴族達に、その旨を伝えて。モーズリー高原の方には、私が依頼するから。」
ミーナは20年ほど前にイシュア国で導入した天候調査制度を、ドミニオン国でも導入したいと考えていますが、親交度が高い南部の貴族達に対してであっても、現時点において、上の立場から指示を出す事はできません。あくまでも、貿易の利益をチラつかせながら、お願いや提案をするというのが、ケールセットという中規模になりつつある街の領主にできる事です。
「お姉様。この暑さは尋常ではないと思います。」
「エリカ、そんな薄着になるのは、ここだけにしてね。」
「寝間着でも暑いです。」
汗でびっしょりの薄着が肌にまとわりついている銀髪の美女の艶めかしさは、男性を狂わせるものであるとミーナも認めずにはいられません。そして、部屋の中であれば、姉妹揃って裸体になっても構わないと考えてしまう程に、暑い日々が続いて、まともな思考力が奪われるようです。
「魔石の水でシャワーを浴びてきなさい。」
「どうせすぐに・・・。」
「そうね。」
男女とも薄着を認めているため、別々の部屋で仕事をするようにと指示を出していますが、薄着であっても、裸になっても耐えきれない暑さに、エリカティーナでさえ、姉を前に愚痴を出してしまいます。
歴史上最も暑い夏と認定される酷暑に対して、元気でいられるのは、豊富な水を得られている農作物達だけです。水路の整備と、河川の水量増加によって、作物がある土地が乾燥しきる事はありませんが、他の地面は乾燥しきっていて、雑草達も枯れている所が増えています。
「お姉様、暑いです。」
「こういうエリカも可愛いわね。」
「可愛くないです。汗がべとべとで、ああ、暑いです。」
15歳の少女らしい態度に微笑むも、ミーナ自身も暑すぎて、目の前の書類を放り出したくなります。領主として、生活の糧である農作物を守る事ができたのは、合格点であっても、この暑さでは、民衆の支持率が上がる事はないと考えます。数十年に1度の自然現象が、たまたま新領主1年目に発生しただけの事で、それを新領主の責任であると考える者は少ないでしょうが、1年目に住民達に満足感を与える事ができないのは、スタートとしては望ましくありません。
「エリカは、シャワー以外で、今、何がしたい。」
「川の中に入るか、水路の中に入りたいです。」
「涼しそうね。もうすぐお昼だから、川沿いまで出て行って、そこで涼みながら食事をしない?」
「嫌です。水につからないと、涼しくなりません。川沿いに行くまでに干からびてしまいます。それに、お昼ご飯、今日はいらないです。こんな暑い中、シチューとかいりません。スープもいらないです。パンも口の中で水分を奪って、食べにくくなります。食べたくないです。」
「毎朝訓練しているのだから、食事だけは取りなさい。」
「冷たくした、緑の実なら食べられます。」
「魔石の水につければ、冷たくなるわね。昼はそれでいいかもしれない。」
「用意してきます。」
「ダメよ、その格好で部屋の外に出るのは、着替えないなら、私が取りに行くから、部屋から出ないで。」
「分かりました。」
ぐったりしている妹を見ながら、ミーナは本格的に、何かをしなければならないと考えます。気候を変えられる事はできませんが、こういった自然現象に対応できる何かを領主として示す必要があると考えます。
日中の仕事を停止する許可と同時に、夜間の水祭りの開催を領主リヒャルトの名で布告します。大河と農地を繋ぐ水路沿いに、魔石の明かりを設置して、食事ができる場所と冷やして食べられる食事そのものを提供します。
「皆も喜んでいるようです。」
「日中の暑さに参って、食事を減らす住民が多いというから、こういう食事の場を設ける事は、素晴らし事です。」
リヒャルト、テリー、ミーナの3人は、運営本部となっている大テーブルで食事をしています。
「お酒も解禁したいところだけど、酔い潰れて、水路で溺れるような事がありそうだから・・・・・・。」
「どうかしましたか?」
「向こうの方で、何か騒ぎが起こったみたい。見てくるから、テリーは護衛をお願い。」
「はい、姉さん。」
焼肉竈の人盛りの所で、発生している騒ぎの中心には、美の女神エリカティーナがいます。女神の前には、少年に腕を決められて地面に押さえつけている若い男性がいます。エリカは優しい目で見降ろしていますが、その隣にいる専属侍女が睨みつけています。
「噂話をしていただけなのに。なぜ、このような扱いを受けねばならない。」
「黙りなさい。どこの所属です。」
「不当な扱いをするお前らに、言う事はない。領主を呼んで来い。ぐうう。」
若い男との問答をしているナタリーが視線で合図を送ると、男性を背後から締めあげている少年護衛エルが、さらに力を加えて、腕をねじり始めます。関節に激痛を与えているのに、若い男はそれを堪えています。この瞬間、捕らえた人間が、敵方の諜報員である事はほぼ確定しています。
侍女ナタリーと少年護衛エルは、エリカティーナ様のためには、どのような処分が良いのかと考えます。黙らせるだけであれば、殺害するか、気を失う程叩きのめすかをすればよいのですが、この場は住民のための憩いの場であり、それは避けなければなりません。2人にとって、住民の感情はどうでも良いのですが、主の評判が悪くなるのは避ける必要があります。
「エル、力を弱めてあげなさい。言いたい事があれば、言わせてあげなさい。」
「ですが。」
「良いのです。」
「・・・・・・俺を憐れんでいる姿を見せて、聖女ぶる気か。獣共に汚されまくった女のくせに。」
ケールセットの聖女の欠陥は、6年前にフェレール国で発生した誘拐事件だと言われます。9歳の少女が盗賊団に攫われて、凌辱されたという話は、ドミニオン国にも噂として流れています。あまりにも美しい少女を犯したくなる盗賊団の気持ちは分かるなどという話と共に、この手の下種な話は酒場を盛り上げる事があります。
この噂は、全くのデマであり、エリカティーナは盗賊達を全員殺害していて、そのような事は起こっていません。この事を信じる事ができる人間は、この噂を積極的に止めようとはしません。こちらが反応すればするほど、真実味を与えてしまう事になるのを理解しているからです。
それに、エリカティーナが凌辱されたという話を前提にして、フェレール国は盗賊団の殲滅に加えて、北部にいた盗賊団とつながる貴族を討伐しているため、公式には否定しにくい噂でもあります。
「私は聖女ではありません。」
「結婚の儀を主催して、精霊様の化身との嘘を広めているくせに。」
「精霊様の化身でもありません。ヴェグラ様を信じているただの人間です。」
「汚れた身で、ヴェグラ様のお名を口にするな。」
「それがあなたの考えなのですね。可哀そうに。ヴェグラ様が、私のような女性を汚されたと言って侮蔑する事を許すと思っているのですか。私が何か悪い事をした訳ではありません。悪い事をしたのは盗賊達です。違いますか。あなたの言葉で、汚された人間の方が悪であるかのように聞こえますが。ヴェグラ様は、虐げられた女性を貶す事をお許しになるのでしょうか。」
「・・・・・・。」
「ヴェグラ様は、私達に生きる希望を与える唯一神です。悪事を働く人間に、罰を下す事をするかもしれませんが、ヴェグラ様は私達を救済してくださる絶対的な存在なのです。私はヴェグラ様のご意思により、救われて、この地で結婚の儀の主催させていただいているのです。あなたがどのような噂を流すのも構いません。それが私だけを貶めているのであれば、私は許しましょう。ですが、結婚の儀は、ヴェグラ様がお認めになる神聖な儀式であり、結婚した住民達のものです。それを汚した事を許されません。このまま行政府に連行して、ご領主様に裁いてもらいます。」
ミーナは静かに群衆の中で、妹の対応を聞きながら、不審な人間を探そうとします。商人や労働者の自由な出入りを認めているケールセットの街に、ヴェグラ教会側の人間や、ベッカー伯爵の手の者が入り込んでいるのは間違いありません。
その人間を現時点で捕らえるつもりはありませんが、どの程度入り込ませているのかだけは把握して、敵側が暗殺に動く時だけは事前に捕らえようと考えています。




