78 新領主誕生
78 新領主誕生
イシュア歴393年1月、ドミニオン国ケールセットの町は、新領主リヒャルトの統治下に入る事を公表します。末っ子王弟と同じ名前の領主が、どのような人物であるかに関わらず、イシュア国宰相ミーナ・ファロンの婚約者である点が重要であり、ドミニオン国及び国民は、イシュア国が侵略の歩を止めない事、奪った領地を返還しない事に驚きます。いつものモーズリー高原のどこに線を引くのか、水利権をどのように分配するのかを決める戦いではない事を理解します。
王都がある北部には驚きだけが広がりますが、南部地域の貴族達には驚きと同時に決断を突き付けられます。現状の立場を考慮した上で、どちら寄りになるのかを決めなければなりません。
イシュア国ミーナ軍が治めるケールセットの町との貿易は、いずれイシュア国軍がモーズリー高原まで引くと考えたから行っています。最終的には、王家とイシュア国との間に停戦条約が結ばれて、国交が正常化すると考えているから、北部貴族や王家からの批判を承知の上で、先行投資を兼ねて貿易を推進しています。
しかし、イシュア国が停戦する意思がない事を示した今、ケールセットと交流を持つ事は、ドミニオン国に対する完全な裏切りになります。イシュア国の遠征軍が強いとは言っても、あくまでも一軍として強いのであって、南部全体をドミニオン国全軍から守るだけの力はありません。
イシュア国との貿易の利益が巨額になるだけでなく、様々な商品作物の栽培に関する技術協力はとても魅力的です。南部地域はモーズリー高地を水源とする大河によって豊かな農産物を算出する地域でもあり、イシュア国と完全に対立して、水源を封じられるような事態に陥れば、干上がってしまうという事情もあります。
どっちつかずの立ち位置が理想的であるのに、どちらかを選べとなると、結論を先延ばすしかできない領主ばかりになります。その領主達に救いの手を差し出す噂が流れます。
ケールセットの新領主は、かつての第7王子で、若き王弟リヒャルトその人であるとの噂が一気に広まります。
「ミーナ姉様、噂は流しているけど。これでうまくいくのですか。」
「噂だけでどうにかなる訳ではないわ。」
ケールセットの行政府の主は、文官公子テリーです。高身長の体躯を持った獅子の強さを持っていますが、性向は穏やかで、公爵夫人の血を強く引いていて、宰相一族であるファロン家に匹敵するだけの文官能力を持っています。
「それは理解しています。問題なのは、姉様とリヒャルト様が、南部貴族達のパーティーに参加する事です。噂での情報戦では、こちらが本物だと信じる者が多いので、何かをする事はないでしょうが。ベッカー伯爵が、自分達が預かっている身代りを本物だと主張している以上、何かを仕掛けてくる可能性が高いです。」
「それを承知で、行かなければならない。南部の貴族達はどちらが本物であるのかを確かめたいのだから、参加を断った場合、こちらが偽物であると認める事になってしまう。」
「そういう風にこちらが考えるのを狙っての罠かもしれないと言う事です。リヒャルト様も強くなったとは言っても、パーティー会場で大勢に囲まれたら、逃げ出すのは難しいです。リヒャルト様は、姉様や私達とは違う、成長したと言っても、普通の人間なのです。」
「そんな言い方では、私達が異常みたいじゃない。」
「異常なのです。その異常を普通だと考えるのは油断につながります。」
「自分達を特別だと考えるのは、傲慢さにつながるわよ。」
「少しぐらい傲慢でも構いません。味方の力を過大評価して失敗するより、過小評価して、私達で支える方がましです。」
「何かあったの。きつい言い方になっているわよ。」
「何もありません。言い方がきつくなったのは、少し気をつけます。」
ミーナが留守の間、テリーが行政を預かります。行政処理で言えば、文官公子の方が優れているため仕事そのものについての問題は有りませんが、ミーナよりも穏やかで、体は大きいけれども、優しい人であるテリー公子に、周囲の人間が、住民までもが、甘え始めます。
ミーナが統括している間、ケールセットの住民が抱えていた小さな不満は表に出てきません。強過ぎる女性像が定着している宰相ミーナに対して、優しい人と言う印象を抱く者はほとんどいないからです。美しい顔立ちや表情だけであれば、ミーナも充分に優しい女性という印象を与える事ができますが、人間は表側だけを見るのではなく、その人物の肩書や経歴を含めて見ています。
優しくはない、厳しいミーナの下で、どのような仕事でも丁寧に処理しているテリーがどうのように見えるかは言うまでもありません。とりあえず、要望を出しておこう、という気持ちになった部下や住民が、次々と要望や不満をぶつけます。それを持ち前の処理能力で解決するのだから、周囲の人間は図に乗って、テリーに仕事を回すようになります。
民政に関する不満が一気に噴出して、それを一手に受け止めたテリーの心情が影のようなものが生まれるのは当然です。
「何もないなら、いいけど。テリーにアドバイスしておくけど。内政において大切なのは、民に取捨選択させる事、自立させる事だから、自分で何でもできるからと言って、何でも抱え込んだり、何でもしてあげるのは良くない事なのよ。」
「それが分かっていて、私に丸投げしたのですか。」
「そうよ。経験しないと分からない事だから。でも今は、リヒャルトの治政の評価につながるから、細かい所までよろしくね。」
「分かりました。それで、パーティーの参加するのなら、護衛隊が必要だと思いますが。」
「その辺は何とかなるみたいだから。任せておいて。」
優れた文官による町づくり、村づくり、貿易路の開拓が進んだ事で、ミーナの狙い通りに、リヒャルトの評価は大きく上がります。ベッカー伯爵の権威付けに利用されているリヒャルトの名前を取り返すために、イシュア国の宰相は次々と手を打っていきます。
宰相ミーナとベッカー伯爵の情報戦は、噂話を流す事が基本戦術になるため、どちらが有利なのかという判定を出す事は難しいのですが、ミーナ側は南部の貴族との貿易を継続する事に成功しているため、充分な戦果を得たと言えます。しかし、南部側の貴族は、本当に信じている訳ではなく、イシュア国との交流を継続できる言い訳を見つけたため、それに飛びついただけとも言えます。国王側が武力でケールセットを落としたら、自分達は騙されていたと主張して責任追及から逃れる事ができるため、完全にイシュア国側に立っているとは言えません。
南部貴族を完全に取り込む事が課題となる新領主は、3月中の種蒔き終了と共に、南部地域への訪問の準備を整えます。
「ミーナお姉様。私達が、リヒャルト様の護衛として同行します。」
行政府の謁見の間に入ってきたエリカティーナは満面の笑みで、姉とその婚約者に報告します。他国の王族に姉を奪われたエリカティーナは泣きじゃくった末、ドミニオン国への同行を許されます。そして、姉の役に立つことで、リヒャルトよりも自分の方が上位の人間である事を示そうと考えます。
ケールセットの町に到着した直後に、妹が姉から聞いた一番の悩みは、地下牢に捕らえられている8人の少年の事です。ヴェグラ教で洗脳された少年戦士達を開放する訳にもいかず、洗脳を解く方法もミーナには分かりません。
エリカティーナは8名の少年と地下牢を預かると、侍女ナタリーと2人だけに任せてくれれば、三か月で彼らの洗脳を解く事を宣言します。ただし、地下牢には誰も入らないという条件を付けたため、洗脳を解く方法は誰にも知られる事はありません。
「その子達に護衛させるという事みたいだけど。」
「はい。皆、お姉様に言うべき事があるでしょ。」
エリカティーナの後ろに横2列で並んでいる少年達が跪きます。白いシャツと黒ズボンで統一された衣装をまとった少年兵達は深々と頭を下げます。
「木の精霊ジフォス様の化身の姉君に対して、邪教に騙されたとは言え、刃を向けた事、万死に値する罪であると自覚しています。処罰される事に異存はありませんが、願わくば、エリカティーナ様の役に立つ任務を授けていただきたく。その任を全うしてから、天にこの身を捧げたいと思います。」
「エル、ヴェグラ様は、人の死を償いとする事は許していません。それに私はジフォス様の生まれ変わりではありません。精霊様は大自然に宿る事はあっても、人の中に宿るものではないのです。」
「申し訳ありません。エリカティーナ様。」
教会から受けた子供達の洗脳が解けているのはミーナにも理解できます。悪魔を征伐するまで屈しないという決意の塊だった少年たちは今、ミーナに刃を向けた事を本気で反省しています。
宰相ミーナは、妹の恐ろしさを理解しているつもりでしたが、真の恐ろしさはもっと深い所に存在している事を知ります。具体的な手法は類推する事もできませんが、妹は少年戦士達の心の中にあるヴェグラ教への信仰心を自分に向ける事に成功しています。簡単に表現すれば、洗脳する対象だけを塗り替える事に成功しています。政治において一番難しいとされる民の心をつかむことです。それを、8名の幼い狂信者に対して実現できる妹は、頼りになるカードである事に間違いはありません。
「分かればいいのです。エル。」
姉に自信満々の笑顔を向けるエリカティーナが、姉からのお褒めの言葉を求めているのが姉にも分かります。
「エリカ、よくやってくれました。少年達を、邪教の魔の手から救い出した事、素晴らしい功績です。この子達には、リヒャルト様の従卒の職を与えます。主な任務は護衛になります。エリカには、この子供達の後見人として、もうしばらく、この子達の指導を任せます。」
「分かりました。お任せください。お姉様。」
美の女神の後継者エリカティーナ15歳は、少女から女性へと羽化しつつあります。その美しさはすでに完成したものであり、最上級のものであるため、1年前よりも美しくなったという表現は適切ではありませんが、体が一回り大きくなったことで、包容力まで圧倒的になります。
ケールセットの町は、新たな逸材を抱える事によって、大発展への道を加速しますが、最初の目標は南部地域の貴族達を取り込む事です。




