73 迎撃
73 迎撃
遠征軍総司令官かつイシュア国宰相ミーナが暗殺されたという情報は、両国において全く異なる価値を持っています。
事件発生後にケールセット行政府の外へミーナが出なくなったから、死亡はしていなくても重傷を負っているのは間違いないと考えているのはドミニオン国側の人間だけです。一方、イシュア国から来ている遠征軍の全ては、ミーナが暗殺者に殺害されない事を理解しています。まして、10歳の子供達が刺客だというのだから、怪我1つない事を確信しています。仮に傷を受けたとしても、イシュア国の治療薬で瞬時に回復している事も分かっています。
それなのに、ケールセットの町に駐留するイシュア軍の兵士達の表情に笑顔はなく、緊張感に溢れています。ドミニオン国側からは、司令官ミーナの不在に困惑している敵軍のように見えますが、実際は異なります。ミーナ軍は、近々大規模な戦闘が行われるだろうことを肌で感じていて、その事に緊張しているだけです。
ミーナ司令官が大きく軍を動かす機を待っている事が分かっているから、ケールセットの駐留軍兵士は闘志を胸に押し込みながら、出陣の号令を待っています。
ドミニオン国側のミーナの評価は決して低くはありません。成人したばかりの小娘は、父親ロイドの七光りで肩書を得ているだけだという評価をする者もいましたが、ドミニオン国に侵略してからの結果を見れば、彼女の軍事面での指揮力と作戦構想力が優れている事を認めなければなりません。また、占領地の1町4村を見事な防衛拠点に変えて、南部貴族達との貿易関係を短期間で作った事は、政治的手腕が一国の宰相として充分である事を証明しています。
傑物ミーナという存在を認めたからこそ、ドミニオン国軍の上層部は鍛え上げた少年暗殺団を派遣します。そして、同時に暗殺成功した時の手も打ってあります。
ケールセットの町の北部に位置するレーナルト侯爵に対して、ミーナ軍討伐の勅令が発せられます。広大なドミニオン国においては、南西部地域に位置していて、周辺の貴族達を従える事ができる大勢力であるレーナルト侯爵は、自領の兵力6000に、周辺貴族達から集めた4000を加えると、総兵力10000で出陣します。
後方支援を担当するベッカー伯爵軍6000が急速に接近しているとの情報と、ケールセットの町ではミーナが大怪我をして、行政府から一歩も出ていないという情報を得ていたため、侯爵軍は南下を急ぎます。
ほぼ勝利が確定している状況で、イシュア国が持ち込んだ魔石を手にできると考えている侯爵は、王家と繋がりがあるからと大きな顔をしているベッカー伯爵が到着する前にケールセットの町を落としたいと考えます。伯爵の支援を受けての勝利となれば、戦勝利益を分けなければならなくなります。王家との繋がりを考えると、利益を横取りされる懸念さえあります。
「侯爵閣下、敵らしき一団が、丘の上から矢を放ってきています。」
「ん、あれか。味方ではないのか。」
「敵だと思われます。矢を放ってきています。」
「この距離で、届く訳が無かろう。とりあえず、行軍を停止して、一部隊に偵察をさせろ。」
「前後の味方にはどのように指示を出しますか?」
「停止して、周囲を警戒するように伝えよ。この辺りは子爵領の未開拓の荒れ地だったはずだが。」
「はい、閣下。おっしゃる通りです。」
「敵だとすると、男爵領を通過して、ここまで出てきたという事になるのか。」
「そうだと考えます。」
丘の上からの一斉射撃で放たれた矢は、行軍している侯爵直属軍には届きません。しかし、その後に放たれる4,5本の矢は軍に届きます。形としては、イシュア軍の弓隊が側面からの奇襲を行ったことになります。
10000の軍は、味方の領地内の行軍であるため、隊列は長く伸びきっています。2000ずつ5軍に分けた軍の真ん中を率いている侯爵は、見えている敵が、自軍よりも圧倒的に少なく、しかも矢がほとんど届かない位置からの弓攻撃の意図が全く分かりません。
細長い隊列の脇腹を騎馬隊などで奇襲をかけるのであれば、理に適っていますが、警戒させるだけの弓攻撃の意味はどう考えても分かりません。
「前衛は弓隊に向けて防衛陣を作れ。弓隊はその後方で待機せよ。後衛は進軍方向とは反対方向に防衛陣を作れ。敵の騎馬隊が奇襲攻撃をするかもしれん。向こうの丘に敵が現れてくる可能性がある。」
レーナルト侯爵は教科書通りに軍を動かします。急ぎたい気持ちがあっても、それは行軍においてであって、戦闘中に焦りは禁物である事を良く知っている彼は、元来の慎重さを発揮します。
弓隊の反対方向にある丘を駆けあがった黒の騎馬隊と青の騎馬隊が、ドミニオン軍を見下ろします。しかし、接敵するまで前進すると平地に達してしまうため、騎馬隊は高所の優位を得た訳ではありません。
「私に続け!」
騎乗のミーナが先頭になって緩やかな斜面を駆け下ります。黒のモーズリー騎馬隊500騎,青の第5師団500騎が一団となって、レーナルト侯爵のいる中軍へと向かいます。平地に達した騎馬隊は徐々に左右に広がります。
「敵の盾兵、重装歩兵へは攻撃するな。横を通り抜けて、真ん中にいる侯爵を捕らえろ。討っても構わない。討った場合は勝鬨を挙げてからすぐに離脱する。」
ミーナの大音声は騎馬の進撃音でほとんど掻き消されていますが、部隊の先頭を走っている中級指揮官たちは、作戦の内容を知っているため、ミーナの声が左右に広がる合図だと分かっています。
重装歩兵の壁は騎馬の突撃に有効ですが、その壁が厚い事が前提です。ミーナ軍の騎馬の攻撃に応じて左右に広がる場合、壁が薄くなりすぎて、騎馬突撃を止める能力を失います。一部の部隊が重装歩兵の裏に入れば、壁の機能は完全に失ってしまいます。
「一撃を加えて突破する。中央にいる侯爵を逃さぬように、包囲体制を取れ。」
弓隊を先に登場させた目的は2つあります。1つは騎馬隊がいない方向に防御用の兵力を割かせて、騎馬突撃で敵を突破する可能性を高める事です。実際に、侯爵軍の中軍は、自軍の弓兵を、敵の弓兵に向かわせているため、騎馬突撃の威力を弱める事ができる弓攻撃を行う事ができません。しかも、丘を駆け下りてきた弓兵達が、本格的に矢攻撃を行う事で、騎馬突撃と逆方向にいる兵力を足止めする事に成功します。
もう1つの目的は、侯爵の居場所を探る事です。弓攻撃を受けた後、敵の中軍から前後それぞれ2軍に伝令が向かいます。それは、中軍に全軍の司令官がいる事を示しています「侯爵閣下を守れ。」
「重装兵は集まって、壁を作れ。盾を構えて密集すれば、突破はされない。」
「踏ん張れ、敵は少数だ。前後の軍が救援に駆け付ければ、包囲殲滅できる。」
中軍の司令部には優れた武官が大勢います。貴族間戦争が普通に行われているドミニオン国において、勢力を大きくした貴族の騎士団が弱いはずがありません。混乱せずに冷静さを取り戻せば、兵力差で勝敗を決める事ができると知っています。
「テリー、カール、侯爵はあそこだ。捕らえるぞ。」
「はっ。」
「了解。」
茶色の傭兵3人が騎馬から飛び降りると、敵軍を擦り抜けるようにして走ります。敵兵の剣を受けずに、ただ避けながら走る3人は、両手の短剣で敵兵に一撃を加えて通り抜けます。
優れた騎士であっても、鉄鎧で身を固めている以上、その動きはどうしても遅くなります。魔獣の速度に対応できる3人の戦士にとって、重装備の戦士は単なる置物と変わりはありません。そして、それはドミニオン国の兵士からは、身動きができないまま、いきなり致命傷を受けるように感じます。
恐怖によってではなく、遅すぎて対応できない侯爵軍は、陣を切り裂かれた訳でもないのに、3人の侵入を止める事ができません。
「レーナルト侯爵、降伏宣言して。そうしないと殺す。」
カールが剣を撃ち下ろしてきた護衛の鉄装騎士の首を切り落としてから、馬上にいる侯爵に剣を向けます。一番近くにいた護衛騎士だけが、カールに攻撃を仕掛ける事ができますが、他の護衛達は、すでに侯爵を救出できない状況を作り出されているため、動きようがありません。
「・・・ぐ。」
侯爵の後ろからテリーが飛びついて、落馬されると同時に完全に捕獲します。カールに注視していた護衛達は、逆側から走り込んで来たテリーの存在に気付かずに、守るべき主を馬上から落とされてしまいます。
「姉上!」
「よし。」
2人の従弟の成功を見届けたミーナは、レーナルト侯爵の馬へと飛び乗ります。混戦状態の中央部から戦意が消え始めます。自分達の主が討たれたか、捕らわれたかのどちらかである事が確定している状況に加えて、3人の傭兵達の圧倒的な強さを感じてしまった兵士達は、主を取り返す事を諦めています。
「レーナルト侯爵は降伏したぞ。」
テリーが軍の主に代わりに降伏を宣言すると、中軍の動きが止まります。
「私はミーナ・ファロン、イシュア国の宰相だ。レーナルト侯爵を捕らえた。中軍は武器を放棄せよ。さもなければ、侯爵と共々、皆殺しにする。」
この刹那、ミーナに矢が放たれます。矢を放った敵兵を見つめていた宰相は、飛来する矢を目の前で掴みます。
「侯爵、あなたは部下からの慕われていないのか。それとも部下が勇敢なのか。私を矢で射殺せると思うな。魔獣の話を聞いたことぐらいはあろう。この短剣一本で魔獣を討伐できる我々を、弓矢で倒せると思うな。良く聞け!!!我が軍はこのように話ができない人間を討伐するためにここに来た。そして、話ができる人間と、共に豊かになる事を望んでいる。南部地域の貴族とは貿易を始めている。ケールセットの町は以前の2倍もの人口になっているが、それは南部の貴族領から働きに来ている者が増えたからだ。すでに共生は始まっている。しかるに、侯爵は、わずか10歳の子供達を刺客にして、私の暗殺を画策した。暗殺そのものに怒りはない。戦争しているのだから、私の命を狙うのは当然だ。だが、子供達を捨て駒にして、私を狙わせたことは許せない。選ぶがいい。子供を犠牲にする領主に従って、ここで私に切り殺されるか。武器を捨て、自分の子供達に会いに行くのか。」
ミーナに注目が集まる中、中軍に突入してバラバラになっていた騎馬隊が、小集団を作り始めます。負傷した兵士達は、味方に囲まれて、傷薬を塗り始めます。次の戦いのための準備をしているのを見ている侯爵軍は武器を捨てる事ができずに、各部隊の中級指揮官に視線を集めます。
「我々は降伏する。武器を捨てろ。」
伯爵ではなく、地面に伏せている伯爵の口を押えて、剣を突き付けているテリーが叫びます。この声が伯爵の物でないと分かる者は多かったが、分からない兵士達もいます。その兵士達の中には、生存するために武器を地面の落とす者が現れます。
戦意を失い武器を捨てるのを責める中級指揮官は1人もいません。武器放棄を咎めないのであれば、それは、降伏を認めたのと同じです。声の区別がつきにくい、ミーナから遠い場所の兵士達が次々と武器を手放します。
「武器を持たぬ者は、北へ退避しろ。負傷兵を連れていくことも許す。武器を持つ者は、その場でしばらく待つがいい。私が1人1人相手にしてやる。」
「負傷兵を連れて、退避、退避だ。北の味方の陣に合流しろ。」
テリーの声が響くと、伯爵軍の中軍兵士の一部が逃亡を始めます。そして、それを止める人間がいない事を知ると、本格的な逃走を始めます。
中軍を瓦解させられても、前後2軍ずつ合計8000の戦力は、臨戦態勢を維持したまま健在です。しかし、司令官を拉致された事によって、レーナルト侯爵軍は完全に思考停止します。ミーナは、弓部隊とも合流を果たすと、そのまま戦場を離脱します。




