58 完封敗北
58 完封敗北
イシュア歴389年8月下旬、ベッカー伯爵軍8000が、モーズリー関所砦の正面に到着します。物量作戦で押し寄せると思って警戒態勢を取っているイシュア国軍に対して、伯爵軍はかなりの距離を維持したまま柵を用いた陣地を作り始めます。そして、その策を完成させた伯爵軍は、全く攻める素振りを見せません。防御の役に立つのかが疑問という程の低い柵を横に広げて設置する意図が分からないまま、3日が過ぎると、伯爵軍が2000程撤退させます。
「敵の一部が撤退しているが、我々を誘い出そうという狙いなのか。」
砦の城壁に立つアラン公爵とミーナ宰相は、2人とも同じ傭兵スタイルの装備で、眼前での敵の動きをじっと見つめています。
「誘い出すつもりはないと思います。あの柵には藁が備え付けられていて、こちらから攻め込んでいけば、火を放って、攻撃を防ぐつもりなのでしょう。」
「あの程度であれば、1時間で燃え尽きてしまう。ベッカー伯爵とやらは、何を考えているんだ。ここまで攻めてきたが、一度もここへの攻撃を行っていない。矢すら打ち込んでいないのに。一部の兵を撤退するとは・・・。」
ミーナは隣に立つ美丈夫の叔父を頼もしく思っていましたが、軍略と呼ばれえる分野での経験が少ないため、この状況を分析する場面においては、頼もしさは全く感じません。それは、ミーナにしても同じです。今まで、自分の力と一族の力があれば、何でもできる体験を積み重ねてきたため、何も分からない、何もできないという状況に陥った時、そこからどのように考えて、どのように行動すればよいのかが見えません。
ただ、父親ロイドを引退させて、国王に次ぐ地位である宰相を手にしたミーナには、弱音を吐くことは許されません。そして、正解ではなくても、何らかの回答を得るために考え続けなければなりません。
「誘い出すことができないと判断して、別の作戦を実施しているのでしょう。」
「別の作戦とは、何だと思う?」
「勝てないのならば、犠牲を少なくして撤退するというのが、次善の策かと思います。」
「確かに・・・。だが、ここまで攻め込んで、何もしないままというのであれば、伯爵の評価が下がるのではないか。」
「伯爵側に立ってみれば、防衛に成功したと言えます。私達がケールセットの町の近くまで攻め込んでいて。それを追い払って、この関所砦まで押し戻したという形にはなっています。」
「なるほど。私達からは、戦いを避けるだけに見えるが。侵略した我々を撃退したと言い張れる状況ではあるな。」
「この後も、2000ずつ、順番に兵を下げるのだと思います。」
「分離して撤退すれば、最後の部隊以外は完全に無傷で撤退できる。それに、2000に減った敵に、私達が釣り出される可能性もあるという事か。」
「ドミニオン国で、軍略に優れていると評価される理由が良く分かります。」
第1陣の撤退から2日後に第2陣が撤退します。さらに2日後に第3陣が撤退して、残り2000の兵になります。アランもミーナも、敵兵2000に攻撃を仕掛けて、少しばかりの戦果を得ても、こちら側に犠牲者が出るのであれば、攻撃する価値はないと判断します。
9月に入り、伯爵軍は策だけを残して、イシュア軍の目前から姿を消します。
初戦は防衛側ミーナの勝利というのが、イシュア国側の評価です。関所砦を破られる事もなく、イシュア国兵士に犠牲者を出していないのだから、その評価は妥当です。しかも、敵国側の重要人物である王弟を捕獲した事を功績と考えるのであれば、大勝利であると評価されるのも当然です。
「うぅぅ。」
握り拳でテーブルを一度叩きながら、ミーナはうめき声を上げます。目の前の公女メルは、驚いたまま何も言えなくなります。大好きな姉が表情を歪ませるのを初めて見たからです。一通の書簡を読んだ途端に、表情も雰囲気も全てを変化させた宰相に、どのような報告が入ったのかを聞かなければならないのに、恐ろしくなって聞くこともできません。
「・・・・・・ごめん、メル、驚かせたみたいだけど。何か悪い事態が発生した訳ではないの。」
徐々に普段の青い瞳に戻っていくのに安心する従妹は、書簡を手渡されると、それを読みます。ドミニオン国側に放っている諜報員からの報告で、4つに分かれて撤退した伯爵軍が、4つの村へ向かって、小麦の収穫を実施して、その収穫を全て持ち去ったと書いてあります。
「姉様、伯爵軍が4つの村で、収穫を奪ったと書いてありますが。どういう事なのでしょうか。村の人間を飢えさせるのが伯爵の策なのですか。」
「村には、隠し畑があるから、飢える事はないわ。それに小麦だけを取って言ったという事は、他の作物は取っていないはず。村の貯えを考えれば、他の地域から食料を買う事ができる。それに伯爵は、本当に飢えるようであれば、私達が支援する事を知っているのよ。」
「でも、村人から恨まれるようなことをしては。せっかく防衛のために来た伯爵の評判が落ちます。どういう意図なのでしょうか。」
「4つの村は、もともとイシュア国寄りで、ドミニオン国に忠節を誓っている訳ではないから。今更、恨まれても気にしないのよ。」
「だとしても、さらに恨みを買うようなことをしなくても。それに、兵糧は充分にあるはずでは。」
「収穫した小麦は、今回の戦いに参加した貴族達への褒賞よ。4つの村の収穫量は、他の地域と比べると、量で3倍、質で2倍とも言われているわ。貴族達は喜んだでしょうね。」
再び怒りに包まれそうになる自分を抑えて、ミーナはメルに、今回の戦いがベッカー伯爵の思惑通りに進んだことを語ります。
「伯爵の1つ目の任務である、リヒャルト排除は、私達が手を貸した事になるわね。私達に殺害させる予定だった事が、拉致に変わったけれど。影武者を立てる事に成功しているわ。」
「2つ目の任務は、何なのですか。」
「4つの村への牽制よ。穀倉地帯でもあるから、破壊する訳にはいかないけど、勝手にイシュア国と貿易されるのは止めさせたいし、完全にイシュア国領に取り込まれる訳にはいかない。そこで、大軍で牽制に来たのよ。そして、ほとんど戦いはしなかったけれど、ドミニオン国側としては、私達を4つの村から追い払って。4つの村に対しての牽制である収穫を没収する事を成功させた。」
「私達が防衛に成功したのではなくて、もともと、関所を越えるつもりがなかったという事ですか。」
「伯爵軍はそこまでの準備はしていなかったからね。」
「3つ目の任務は?」
「任務は2つだけだと思うけど。伯爵が手にした利益は大きいものよ。国王の依頼を果たした事に加えて、イシュア軍を退けたという武勲も得たわ。しかも、南部の貴族を率いての軍事行動で、しっかりと褒美まで与えているわ。これで、南部地域の有力貴族の地位を得たわ。領土を増やした訳ではないけど、これまでの功績を加えて、陞爵する事になれば、ベッカー伯爵としては笑いが止まらないでしょうね。」
「自分の勢力を強くするために戦を起こしたという事ですか。」
「そうよ。」
怒りを抑える事ができたのは、この結果に辿り着くために、ベッカー伯爵の方が良く考えて、適切な行動をしている事を自覚したからです。怒りに任せて思考判断すれば、それを利用して利益を得る人間が敵方に居て、隙を作る余裕はありません。
それに、世の中には、上には上がいて、自分の想定外の存在もいます。その事を自覚したミーナは、王都に戻るまでに、しなければならない事、しておいた方が良い事を考え出して、今度のために手を打っておかなければなりません。
自分を中心に思考をして、生きてきたミーナは、人生で最初の思いがけない敗北を経験します。表立っての敗北ではありませんが、宰相ミーナから司令官ミーナに変貌するきっかけとなる敗北です。




