55 争乱勃発
55 争乱勃発
女性宰相の誕生から1か月後、イシュア法典が発布されます。両方とも重大な衝撃を与えているため、宰相就任と同時に発布がされていると誤解する当時の人々は少なくありません。実際、王都から離れた地域では、2つの情報が伝わる差が短くなり、最遠の開拓地では、法典発布の情報の方が早く着いた場所もあります。
情報伝達の速さが20年前の2倍になったと言われますが、この時代の情報伝達の速度は、騎馬の速度を超える事はありません。また、気象状況によっては遅延が発生する事もあります。
女宰相の嵐がイシュア国で治まり始めた頃、本当の嵐が到来します。
イシュア歴389年6月3日、宰相ミーナが、書類に許諾のサインを書き終えた時、一通の緊急連絡が届きます。
「お姉様。」
手渡した書簡に目を通してから顔付きが明らかに変わった姉に、エリカティーナが声をかけます。11歳美少女の紺色メイド服姿をにやにや見守っていた女宰相は、戦士の時の表情になっています。黒に近い紺色の文官服のミーナは、書簡を読み終えると、不気味な笑顔を見せます。
「エリカ、ドミニオン国は、私とイシュア国を舐めているみたい。小娘には違いないけど、パパの後を継ぐだけの力はあるし、イシュア国は私だけの力で成立している訳ではない。」
「モーズリー高原の関所が攻められたのですか。」
「そこまでは来ていないわ。北部地域から大規模な軍が南下しているという情報と関所を突破するための兵器を所持している情報が入ってきたのよ。リースにぃにここを任せて、私はすぐに関所へ向かうわ。」
「アラン叔父様の邪魔になるのではありませんか。」
「邪魔なんてしないわ。」
「ですが、軍事行動は公爵家の、総司令官の専権事項です。」
正式な宰相秘書ではなく、侍女であるエリカティーナは実質的には秘書官であり、極めて優秀な能力を持っています。特に、姉の悪評を防ぎたいと考えている妹は、常識的な諫言を行います。姉の事が大好きで思ったように行動してもらいたいとは考えていますが、世間の評判を支配する事ができないため、姉の行動の中で、周囲に理解されにくい事については諫言します。また、妹の言葉だけは素直に受け入れているため、エリカティーナはそれが嬉しくて、常識人としての意見を具申します。
「分かっているわ。視察よ、視察。私が軍を率いる訳ではないのは分かっているわ。」
姉を誰よりもよく見てきたエリカティーナは、姉が物事の道理を理解している事は知っていますが、そこに利があると判断すれば、いとも簡単に枠から外に出てしまう姉である事も知っています。大抵の事であれば、ミーナの手に余るような事は置きませんが、戦争となると話は別です。
どのような無茶をしても、ミーナ自身が誰かに殺害される可能性は皆無ですが、軍を動かす場合は、無茶な行動で多くの犠牲者を生み出すことになります。
「お姉様、止めても行くのでしょうから。必ず、公爵家のアラン叔父様と一緒に行くか。先遣隊として行くのであれば、ジルベッド様とメル様と同行なさってください。そして、先遣隊に同行する場合、次期公爵の権限を侵す事のないようにしてください。」
「分かったわ。とりあえず、リースお兄様を、副宰相を呼んできてくれる。」
「はい、畏まりました。」
エリカティーナの諫言に従った宰相は、兄に後事を託すと公爵邸へと向かいます。
イシュア国の北部にある王都から、南部のモーズリー高原へと進み、高原地帯を横切って、ドミニオン国との国境となる街道関所兼防衛施設に到着するまでを、8日間で踏破した3名の先遣隊は、一晩の休息後に前線指揮を執るための情報収集を行います。
イシュア国と繋がりのある関所近辺の村には、ドミニオン軍は到着すらしておらず、村々から少し離れた位置にあるケールセットの街に、敵の先陣が到着し始めている事が推測されています。
砦内の司令会議室には、宰相ミーナ、公子ジルベッド、公女メルの3人が、茶色を基調とした軽装備の傭兵姿で立っています。大テーブルに広げられた地図の上には、敵軍を示す黒い駒がいつくも置いてあります。
関所砦の隊長、副隊長、情報収集部門の3人も一緒に地図を眺めています。
「敵の三軍が合流すると8000を超えるのか。ここの常駐兵が500、高原内の2拠点から集められるのは600程度、10日後には王都から2500の騎士団が到着するも、こちらは半数か。」
16歳の公子は長身と鍛えられた肉体を持った戦士に成長している上、アラン公爵から学んだ知識が頭脳に収められています。単純な武においては、ファロン家の3人には少し負けていますが、ありとあらゆる戦闘知識を加味すると勝っています。
「どうするの。ここではジルベッドの判断に従うわよ。ああ、ここは戦場で、オズボーン公爵家が司令官であるから、宰相である私に気を使わなくていいから。」
従弟に話しかけてから、関所の幹部達に自分自身の立場を伝えます。指揮系統が分散する愚かさをミーナもきちんと学んでいます。
「援軍が到着するまで防衛。味方の援軍が来る前に、敵の一部が急襲してきても十分に対応できる。情報収集は続けるとして。」
「ジルベッドお兄様、私達3人は、敵の集合予定地であるケールセットの町に偵察に行く方が良いと思います。敵の数だけでなく、装備や兵器を確認できれば、今後の戦いに役に立ちます。それに、牽制して敵の行軍を遅らせる事もできます。」
公女メルは14歳の少女にしては長身で、ミーナと比べて細身の体付きの戦士です。両親からの良い所を引き継いだ顔は、凛々しい美人で、男性だけでなく女性をも魅了します。学園の中で女性騎士を目指す学生たちのリーダー的存在であり、周囲に気を配る事もできる視野の広さも持っています。
「確かに、敵の対城壁兵器が優れていれば、ここを抜かれる事もある。偵察は必要だな。」
たった3名の先遣隊ではあっても、それぞれの武力は基本的な人を圧倒しています。戦闘で倒される事のない力を持っていると言うのは、戦場で全ての行動が許されている事を意味しています。
関所防衛隊に当面の指示を出すと、3人は司令会議室に残ったまま地図をじっと見守ります。
「ミーナねえ、いえ宰相ではなくて、ミーナ。」
「メル、もう呼び捨てでも、姉様呼びでも好きにしてくれて構わないわ。戦地で味方の名前の呼び方を気にするなんて無意味よ。ジルベッドも。」
「はい。」
「それで、メルは敵の動きをどう思うの?」
「8000もの兵力が気になります。ここの関所は狭い街道の入り口に作られていて、兵数が多くでも有利になる訳ではありません。少数精鋭で迅速に動くべきなのに、大軍で行軍が遅くなっている意味が分かりません。」
ミーナが防衛戦の前線にわざわざ来たのは、イシュア国の欠点を良く理解しているからです。対魔獣に特化した戦闘力は、対人戦での戦闘力に変える事はできますが、軍略を補う事はできません。軍団同士の戦いになった場合、イシュア国が両国に劣っているのは間違いありません。
アラン公爵の新方針である集団戦闘の訓練も以前より多くなっていて、集団戦の知識も騎士達の嗜みになっていますが、実戦で経験する場が存在しないイシュア国では、知識を持った人間が、名将に育つ環境そのものがありません。
ミーナがフェレール国で活躍できたのは、叔母セーラの戦績を詳しく学び、その中で戦略戦術の基本を徹底的に身に着けた経緯があるからです。ジルベッドとメルも、同様に学びを修めているため、こういった話をする事ができます。
「確かにおかしいな。最終的には8000で攻めるにしても、足の速い騎馬で急襲するのが最善手なのに、それをしないのは、何か別の狙いがあるのか。」
公子と公女が戦士だけでなく、司令官としての素養を持っている事をミーナは喜びながらも、2人に圧倒的に足りないものについて指摘しなければなりません。
「今回の戦争で、敵は村を焼くつもりなのよ。確証はないけど。そう考えた方が、敵の動きを説明できるわ。」
「自国の村を焼く・・・、のか?」
「4つの村は、イシュア国が手なずけている事は知られているわ。できるだけ、こちらからの接触は隠すようにしているけど。完全に隠すことは無理。敵にすれば、4つの村も潜在的な敵なのよ。これまでだって、南方の食糧を強奪しに、北の貴族達が軍を率いてくることもあったわ。村を焼くぐらいの事はやると思うわ。」
「村を焼いて、関所から私達を誘き出す作戦ですか?」
「メルの言う通り。私達をこの砦から誘い出して、平地での戦闘になれば、大部隊の威力を発揮できる。」
「誘い出されなければ、敵はどうします?」
「村を1つ丸ごと焼けば、イシュア国は頼りにならないから、手を切った方が良いと残りの3つの村に脅しをかけて、完全に取り込もうとするのでしょうね。村からの情報が断たれると、相手の動きを知る事が難しくなって、私達はこの関所に大軍を配備しなければならなくなる。敵方にすれば、私達を疲弊させるという嫌がらせになるわ。」
対魔獣戦に存在せず、対人戦に存在する重要な要因は悪意です。魔獣達は機械のように人間の命を狩るために素早く正確な行動をする驚異的な存在ですが、悪意を持って人間を陥れるようなことはできません。魔獣達が1つの所に集まるのは、標的である人間を発見したから集まってくるだけで、集まったからと言って、連携して戦う事はありません。レイティアが中の巣で完全勝利したのは、魔獣達が人の命だけを目指して突撃する習性を利用したからです。
最大の脅威が悪意を持って行動しないため、イシュア国の人間は悪意を持って攻撃される事に慣れていません。慣れていないため、その根本的な思考に辿り着くことができない人間が多いのです。
「では、敵の先遣隊がここの町にいるのは休憩ではなく、集結地点だからなのですか。」
「推測ではね。とりあえず、3人で偵察に行きましょう。より多くの情報を手にしないと、戦いを有利に進める事はできないわ。」
3人は関所を出てドミニオン国内へと入ります。




