37 令嬢教育
37 令嬢教育
イシュア国における教育制度は、王都のみで確立しています。王都には6歳以上の庶民が通える学校が3つあり、文字の読み書きと基本的な算術を学ぶ事ができます。それ以外は、職業訓練学校と言える授業が行われています。そして、12歳ぐらいから見習いとして王都の労働力に組み込まれます。庶民の初等教育だけは、国や貴族が面倒を見ています。
貴族の子供達は、13歳から18歳の6年間、中高等教育を提供する学園で学ぶ事ができます。国の指導者になるべき存在である貴族層への教育であるため、学園では様々な知識を提供します。貴族として型にはまった教育を施す学園でしたが、異国へ嫁いだセーラ・ミノー公爵夫人が中心となって学園が大きく変わり、より実践的な高度な知識を学ぶ場所へと変化しています。
学園に入学する以前の貴族の子供達は、制度上、庶民と同じ初等学校へ通う事は可能ですが、多くの貴族令息令嬢は、各家庭で家庭教師を雇います。その家庭教師に初等教育部分を任せるのが、貴族の一般的なルートになります。ただし、単純な初等教育だけでなく、貴族としてのマナー教育や歴史教育などを行うのが普通です。
貴族社会を構成する基本知識を学ばせる家庭教育に指導を任せる仕組みは、事業などを実施できない領地を持たない中級貴族達の雇用対策でもあります。だから、この制度についての不満が貴族社会から出る事はありません。
しかし、子供の視点からは、この退屈な貴族教育は退屈以外の何物でもありません。この面白みのない授業にとっての天敵が、ミーナとエリカティーナの訪問です。机を前にして、家庭教師が施す作法やマナー、歴史の指導を静かに行くだけのような時間よりも、庶民も貴族も関係なく、笑顔で飛び回る事を提供する2人の姉妹のお誘いは余りにも魅力的な時間です。
気まぐれに発生する姉妹のお誘いは、貴族令息令嬢達の家庭教師が授業している時に発生する事があります。家庭教育を妨害するかのような姉妹に憤りを感じる貴族達の親は少なくありませんが、その憤りが表に出る事はありません。
姉妹の両親が国の重鎮だから、文句が言えないという事もありますが、このお誘いが子供達の教育にプラスになるのではないかと考える親達もそれなりに存在しています。
姉妹は貴族だけでなく、庶民とも遊びます。学園の農業部で農作業と言う名の土遊びや、親戚の家を訪問してのおやつあさりなども行います。姉妹に誘われた子供達は全員、同じ体験をする事になります。これらの様々な経験は、貴族の大人たちから見ても、子供達の人格形成に役立つように思えます。特に、庶民との交流を自然なものとして受け入れる事ができるようになる点は、大人になってからとても役立つ事を、親たちは理解しています。
人よりも優れた武勇があれば、傭兵が騎士爵を得る事ができるイシュア国において、庶民と貴族社会はそれほど離れている訳ではありません。また、経済も貴族中心に動いている訳ではなく、庶民、商人、貴族の3つの柱がそれぞれの勢力を持っているため、貴族社会という限られた社会の中だけで動いた場合、利益を得る事が難しくなります。
階級差が無くなる事はありませんが、階級差だけでどうにかなる訳ではないため、庶民とも正しく交流しながら、上手に使う事が今のイシュア国の貴族達には求められています。その前提となる庶民に対する考え方を、姉妹が教えてくれていると考える親たちは、2人の来訪を拒絶させる事はありません。
そして、教育面では、もう1つプラスがあります。不定期に到来するお誘いを受ける時、家庭教師が来訪している場合、その授業をキャンセルしなければならなくなります。その場合、授業そのものはなくなりますが、料金は発生しているため、家庭教師側としては、何もしない訳にはいきません。また、指導している子供達が学園に入学してからの成績は、家庭教師としての評判につながるため、キャンセルされる授業の穴埋めをしなければなりません。
結果として、次の訪問までの課題を提示して、それを実行してもらう方法を取ります。この仕組みは、授業外指導と言う形で定着していきます。親も家庭教師も、自主的に課題をさせるのは難しいと考えていましたが、2人と一緒に遊びに行きたいのであれば、課題をしなければならないと、子供達に約束させる事で、課題の実施率は極めて高くなります。
2人と遊ぶ時間を逃したくない子供達は、課題が出るとすぐに実施して、2人の来訪を待つことになります。週に1度程度のお誘いのために、残りの日を真面目に学習するというのであれば、親の方としてはありがたいという認識を持ちます。
監視しなくても、自主的に学習する子供を理想的な姿であると考える親達は、ミーナと、エリカティーナが毎日誘いに来るのであれば、追い払う選択をしていますが、週に1度程度の訪問であれば、大歓迎と言う姿勢で受け入れています。
「ああ、慌てないで。ゆっくりでいいから。そうそう。エリカは、コネコネしてね。」
「エリカも、ダンダン叩きたい。」
「これは力が必要だから。」
「力あるもん。」
「ミーナ、ここからはどうするの?」
「もう少し、こねて。」
「わぁ。粉が。」
「ちょっと、時間はあるんだから。慌てないで。」
ファロン邸の厨房に入り込んだ12名の少女たちが、ミーナの指示を受けながら、どたばたと動いています。白い割烹着と白頭巾で身を包んだ貴族令嬢が、その白色を汚しながら、何かを作っています。
「違うから。この前、教えたでしょ。」
「教えたでしょ。そのタレは、まだ入れちゃだめだよ。」
「えー、今入れるんだよ。」
「そこは、エリカの言う通りよ。次の工程だから。」
「これを焼くのはどうするの?」
「焼くのは私達がするのはダメだから。準備が終わってから、料理長に手助けしてもらうのよ。」
「えー、この前は、自分達で。」
「今日は、火は私達だけでは使わないって事にしないとダメなんだから。」
令嬢たちの、お母さんのお手伝いをしたことがあるとの言葉を、信じてはいけない事をミーナは良く知っています。セーラ叔母さんの料理上手が特別であって、何もできないママの方が貴族としては普通です。そして、その普通側にいる貴族達の令嬢達のお手伝いとは、料理ではなく、給仕たちが行う食器を並べる程度の事を指す場合がほとんどです。
経験不足の令嬢を引いての料理は簡単ではありません、ミーナにとっては、三歳児の妹の方が、姉の行動をそ真似してくれるため、とても役立つ存在です。
「途中まで、私がするから、真似をしてみて。」
2時間の奮闘の成果は、料理長の焼き加減1つで決めるだけではなく、彼の優れた修正能力によって決まります。
少女たちの着替え室になった侯爵邸の会議室で、お互いの着替えを手伝う令嬢たちの動きは遅いものの、メイドから貴族令嬢への変身はゆっくりと進みます。着替え室に最後に入室したミーナは、脇に抱えていた妹を下ろすと、一緒に下着姿になります。
3歳児用に仕立てられた水色のドレスを身に着ける妹の手伝いをします。小さな椅子に座らせると、髪を梳いてから赤い花型にしたリボンを付けます。
「皆も準備はできた。最後に、全身をチェックして。白い粉が付いているようであれば、濡れたタオルを付けるようにして、粉を取っていって。擦ったりしたら駄目よ。自信がない人は私に言いなさい。」
妹と同じ水色で同じ形のドレスと赤い花型のリボンを付けたミーナは、準備が終わっていない友達の手伝いをします。てきぱきと令嬢達を仕上げていったミーナは、最終チェックを終えると、令嬢たちを引き連れて、夫人達の待つ大食堂へと向かいます。
色とりどりのドレスで着飾った令嬢達が、大食堂に入ってきます。6歳から11歳の仲間たちを一列に並ばせたミーナが、淑女の礼で音頭を取ります。
「レイティアお母様、皆様、遅れて申し訳ありません。準備が整いました。」
美しい姿勢で母親達に、淑女教育の成果を見せます。
「ミーナ、予定より遅れていますが、私達は私達で楽しい時間を過ごしていました。気にする事はありませんよ。」
「はい。お母様。」
ミーナとエリカティーナが美少女である事を、その場にいる夫人達は全員知っていますが、ドレスで着飾った姿を見たのは初めてです。社交界にデビューしている訳ではなく、会うのは娘を遊びに誘いに来た時だけで、作業服のような服装の2人しか見る事ができません。
美の女神であるレイティアの娘なのだと実感する夫人達は、憧れの対象であり、信仰の対象でもある宰相夫人と、2人の娘達をじっと見比べながら、嘆息をぐっと堪えます。
「それでは、皆様、席を移動してください。」
夫人と令嬢が交互に着席できるようにと、移動を始めます。母親が椅子を引いて、美しく着飾った娘達を座らせます。買い与えたドレスが、刺繍やリボン等の追加装備で、さらに攻撃力を増しています。
自分か夫に似た娘は、やはり愛らしく、可愛らしく、母親たちは朗らかな笑顔を娘に向けます。理想の姿、理想の場所で開催される食事会に夫人達は満足します。
美の女神レイティアの娘達の訪問を受容している夫人達には、1つの悩みがあります。日々逞しく成長する娘達が、女性らしさを欠如してしまうのではないかというものです。
イシュア国の貴族が、魔獣討伐に成功した英雄の子孫であり、領地内にある魔獣の巣を制圧する使命を背負っている以上、武勇に優れているというのは、貴族の嗜みの中で最上に位置するものです。
だから、ミーナに誘い出されて逞しくなった令息達の親は喜び、ミーナ嬢に呼び出されなくても、時には下町に出かけて、王都の民と遊んで来いと家から出させることもあります。
貴族家にとって、息子達が騎士の位を授けられることは大きな名誉であり、大きな利益になります。6人1組で魔獣一匹を何とか倒すことができるようになると、1人前の騎士に認められます。3人1組で魔獣を安定して撃破できるようになると、近衛騎士に入隊できます。単身で魔獣を撃破できる人間は、騎士団長クラスとの評価を受け、実際に魔獣の巣で複数の魔獣と戦う事ができるようになれば、それは英雄と呼ばれます。
ただし、全ての男子が強くなれる訳ではありません。訓練によって騎士になれるのは3分の1、近衛騎士になれるのは、騎士達の中の10分の1と言われています。さらに上の実力を持つ人間は限られています。
英雄が誕生した一門は、武門の貴族家となり、どのような階級であっても、貴族達からも尊重されるようになります。実際強くなるかは別として、とりあえず令息達に剣を握らせるのは当然の事です。
女性騎士が一定の数存在しているのは、女性であっても、エリスやレイティアのように英雄になれる可能性はあるからですが、令嬢達にその道を選ばせたい親はごく少数です。貴族家が令嬢達に望むのは、やはり婚姻です。貴族同士の血縁関係を繋ぐ事ばかりが注目されますが、婚姻によって身分は低くても強い戦士を取り込む事も、イシュア国の貴族達は重視しています。
自分たちの息子達が強い戦士になれる保証がない以上、自領で活躍する戦士と娘を結婚させる事は、最も確実な戦力増強策になります。強い戦士の血を一族に入れるために、婿に入れる貴族もあれば、強い戦士と娘の間に生まれてきた子供を、本家筋の養子にする貴族もいます。本家に取り込まなくても、分家として強い戦士を輩出し続けてくれれば、騎士爵持ちの分家が誕生させることも可能です。
イシュア国においては、爵位を継承する男子と同じくらい、女子の価値は高く、大切に育てます。強い戦士達を魅了できる女性に育てる事が、令嬢の幸せと同時に一族を反映させることにつながります。
ミーナは、そういった事情を汲み取って、遊び仲間である令嬢たちが、自由に遊べるようになるには、女性としての魅力も鍛えている事を示さなければなりません。この面倒だらけの食事会を企画したのは、料理上手、裁縫上手、おしゃれ上手といった所を、母親達に示すことで、外で遊んでいても問題ない事を証明するためです。一般的な女性としての魅力が十二分にあれば、そとで薄汚れながら遊ぶことは、取るに足らない事になります。
淑女たちの昼食会は円満に終了します。この企画が、夫人達に好評であるのは当然ですが、令嬢達にも大好評になります。綺麗や可愛いが好きなのは、活発な女子であっても同じで、着飾る事を嫌う令嬢はいません。これからも同じような会を開いて欲しいとの夫人達の要望に、令嬢達も賛同します。ミーナは自分で企画した事でもあり、反対する事もできずに、定期的に遊び友達への淑女指導をする事になります。
妹エリカティーナが興味を持って、楽しんでいるため、ミーナも嫌ではありませんが、今まで以上に面倒な事を呼び込んだ点は反省します。




