121 撤退勧告
121 撤退勧告
「ん?」
「侯爵、敵兵が門から出てきています。」
「見れば分かる。詳細な報告をせよ。」
決戦の日、アウラー侯爵は全軍を率いて、ミーナ軍が防衛する関所砦へと接近します。夜明けと共に野営地を出発して、そろそろ停止して、攻撃態勢を取らせようとしたタイミングで、防衛に徹するはずの敵が城壁の外に出てきます。
南方から接近する王都騎士団3000が、午前中には攻撃を開始するという連絡を、ヴァイス男爵から受け取っている侯爵は、何かの異変が発生している事は認識できますが、自軍に有利な異変なのか、敵方に有利な異変なのかの判断がつきません。
騎士団が南側の関所砦に攻撃を開始すれば、狼煙を上げるとの取り決めがあり、それと同時に突撃を命令する事になっています。日が昇ったばかりのこの時間に攻撃が始まるはずはなく、敵が動く理由はないはずです。
まして、防錆側勢力が防衛施設から出てくる意味はないはずです。
「数が多い。全軍、臨戦態勢!!偵察隊は接近して、敵の様子を伺え。盾隊は最前列に整列、弓隊は第2列に付け。第3列に長槍隊。騎馬部隊は、左右両端に集結せよ。」
1000を超えた敵兵が、関所砦から出てきます。無秩序に関所砦から出てくる敵兵の中には、装備を付けていない人間だけでなく、無装備の女性の姿も見えます。遠目でしか見えないため、詳細まで確認はできませんが、兵士には見えない人間が目の前に出現します。
侯爵は左右の側近たちの顔を見ますが、側近達も訳が分からないため、主が満足できる回答を示す事ができません。
「侯爵、城壁前に展開している敵は、1500程度。武器を持つ者もいますが、正規兵ではありません。」
「正規兵ではないとすると、昨日南側から合流した精霊教とやらの一団か。」
「はい。集団の先頭には緑の旗があり、木精霊ジフォス様を示す物かと思われます。その旗の近くに、薄緑の神官服をまとった女性がいて、聖女エリカティーナ様かと思われます。」
「・・・・・・。」
「いかがなされますか。」
深き森林の土地に住んでいる侯爵領の住民達は、ヴェグラ教の中でも、木精霊ジフォス様を信仰している者が多く、敵味方の思考とは関係なく、木精霊ジフォスの化身と評判の、大神官であり、聖女であるエリカティーナを信仰の対象として認めている者が少なくありません。
もちろん、今回の戦いで、関所内の野営地においての戦闘では、同じ木精霊を信仰する同国の民である信徒に対しては攻撃しない様にと部下達に厳命を下しています。特に、聖女エリカティーナ様と戦場で接触した場合、丁重に保護するように指示を出しています。ミーナ軍を撃退して王都への義理を果たして、報奨金をもらった上で、保護した聖女を送り返す事で、リヒャルト王弟軍との関係を改善する。これがアウラー侯爵の理想的な展開です。
王都の北部にある侯爵領がミーナ軍の攻撃を受けるのは、王都が占領された後になるのが自然の流れである以上、王都が陥落する寸前にリヒャルト軍に下る事で、その地位を維持できるとも考えています。
「臨戦態勢を解け。少しだけ前進して、聖女様と話をする。保護しなければならない場合もある。救出隊の精鋭をすぐに集めろ。」
侯爵軍の早朝攻撃は、その出鼻をくじかれます。
「ハインツ・アウラー侯爵閣下は、おいででしょうか?」
信徒の群れから1人で出てきた緑色の女性神官の美しく通る声を聞いて、アウラー侯爵は単騎で駆け寄ります。
右手に木の杖を所持している木精霊の化身の美しさに一瞬固まります。
「戦場にて、馬上である事をお許しください。私がハインツ・アウラー侯爵です。聖女様にお会いできたこと、我が家門の誉れでございます。」
「私はジフォス様にお仕えする一神官ですが、聖女ではありません。しかし、その事をここで話をしても意味はありません。大切な事だけを伝えます。信徒の代表として、この戦場より撤退する事を侯爵閣下に要請します。」
「・・・国王陛下からの依頼を受けた以上、その依頼を果たさずに撤退する事はできません。」
「なるほど、アルフォンス様からの仕事を請け負ったため、兵を引くことができないという事なのですね。」
「はい。その通りです。」
「それでは、3倍の報奨金を出すので、撤退してください。報奨金があれば、領民の生活も成り立つでしょう。」
「今年は、その報奨金で生活を維持できますが、来年以降の仕事はなくなってしまいます。一度受けた仕事を放棄するという事は、信頼を失う事になります。このまま何もせずに撤退はできません。」
「確かに、信頼を失う事は良くないですね。ですが、一番大切なのはこの先の領民の生活を維持する事だと思います。そのために決断するべき時が来ています。」
「リヒャルト王弟殿下が勝利するから、その軍門に降った方が良いという事ですか。」
「いいえ違います。王家内部の争いに関係なく、侯爵領だけで皆の生活が維持できるようにするべきだと考えての提言です。ここで撤退すれば、王家内部の争いに参加しない事を表明する事になりますし、傭兵家業をさせている優秀な領民から犠牲者を出さなくて済みます。」
「その提言は、我が領内に、領民を支える農地や産業がある事が条件です。最北の我が領地は、他領とは異なり、作物の収穫量は少なく、過去には多くの資源を産出していた鉱山もほとんど枯れています。」
「侯爵閣下は、寒冷の地でも収穫量が落ちない芋類の事をご存じないのですね。イシュア国から持ち込んだ芋を広げれば、食糧問題は解決できます。収穫が安定するまで、教会が援助もします。」
「ありがたいお言葉ですが、食糧問題を解決するだけでは、領民に最低限の生活しか提供できません。」
「食糧問題が解決すれば、豊富な森林資源を活用しての産業で豊かになる事ができます。」「木材は我が領の産業の1つですが。」
「これからたくさん売れますよ。」
「え。」
「侯爵の領内では木材はどこにでもあって、買う者はほとんどいないでしょう。しかし、他領では売れます。特に大森林にある大木は、侯爵領の特産品とも言えます。10年以上利益を出し続ける事は間違いありません。ボンダール大河の両岸に船の発着所をいくつも建設する予定があります。」
「木材の販売先を保証してくれるという事ですか。」
「保証が欲しいのであれば、北伐軍総司令官のミーナお姉様にお願いしてもいいですよ。」
「・・・・・・。」
アウラー侯爵が単騎で出てきたのは、エリカティーナを捕縛しようと考えたからです。傷つけるような事をしなければ、交渉材料としてこれほど有用なカードはありません。しかし、この美しい神官が手にしている木製の杖からは、殺気のような何かを侯爵は感じています。
そして、この娘には勝てないと、なぜか直感で理解しています。配下であるヴァイス男爵と共に、国内では五指に入ると呼ばれている自分が、ただ対峙しているだけで気圧されている事に驚きますが、現実として受け入れるべきであると、武人としての直感が教えてくれます。
「侯爵、どちらが勝つにせよ。北部地域での戦闘は激減します。傭兵として稼ぐことができるのは、次の世代の王位継承戦争を待たなければなりません。他の道を探すしかないのです。」
「おっしゃる事は、理解できますが。」
「もう少し、情勢を見てからというのが、領地を持つ侯爵としては、当然のお考えかもしれませんが。あまり時間はないかと思います。ミーナお姉様の部隊は、南側から来る王都の騎士団を今頃撃破しています。侯爵の所に、ヴァイス男爵の伝令が来ていない事がその証です。」
「・・・・・・。」
「侯爵側の内部情報を私が知っている理由は、私に情報を提供してくれる信徒が、至る所にいるからです。侯爵領では主に木精霊ジフォス様が信仰されているのは、ご存じかと思います。それはともかく、昼頃にはお姉様が戻ってきて、関所前に広がる敵を排除しなければならないと動き出すと思います。その前に、後方に下がった方が良いと思います。森を愛する民から犠牲者が出る事は、辛い事ですから。」
長々と対話をしている時点で、自分が負けている事を自覚する侯爵は、撤退ではなく、とりあえず後退だけでもしようかと考えます。その気持ちの変化を、エリカティーナは把握しています。多くの人から見つめられている美聖女は、それだけ多くの人々の表情を見ています。
「侯爵閣下、後方に下がるのであれば、今の野営地よりも後方に下がった方が良いかと思います。今の野営地は、お姉様が夜襲をかける事ができる範囲です。それに、侯爵領から緊急の連絡が、そろそろ来るかと思いますので、できるだけ北に移動した方が良いと思います。今、王都を包囲している北伐軍にとって、最大の脅威がアウラー侯爵軍なのですから、私達が何か仕掛ける可能性があると思われませんか?十分な距離を取る事が重要です。」
傭兵軍に対して十分すぎる警告を発するのは、木精霊の信徒達を思っての言葉であると同時に、アウラー侯爵に対する脅迫でもあります。南側から迫ってきている王都騎士団とヴァイス男爵が率いる部隊を片付けたら、次は侯爵軍本体を片付けるとの威圧行為を、慈悲深いジフォス様の化身が行っている事に、侯爵は身震いします。
「配下達と相談して、撤退します。」
「そうなさって頂けると、助かります。」
信徒の群れを見せながらの交渉で、エリカティーナは北伐軍最大の敵を追い返す事に成功します。




