103 公害
103 公害
アーベル公爵家との婚姻政策によって、ボンダール大河以南の地域を勢力下におくことができると確信していたミーナは、中西部に残っているリンケ公爵家との交渉はスムーズにいくだろうと推測していましたが、交渉さえ拒否してきた事に疑問を持ちます。
大河の北側にある王都や王家に所属する貴族達とは、大河を挟んでの交流になるため、中南部のリヒャルト派との交流を重視した方が、利になるのは間違いありません。しかも、リヒャルト軍が軍事行動を起こした場合、王都からの援軍が十分な量になるはずがなく、軍事面から考えても、リヒャルト派に入る事が、リンケ公爵家の唯一の生存の道である事は誰でも分かるはずです。
「お姉様、お腹が大きくなりましたね。」
「出産は四か月後よ。12月だから、少し寒くなるみたいよ。セゼックでも。」
「お姉様の防寒具も作って、次は送ります。」
「気持ちは嬉しいけど、もう防寒具は先月に届いているから。」
「そうでしたっけ?だったら、子供の防寒具を作りますね。」
「・・・・・・、エリカ、本当に嬉しいのだけれど。赤ちゃん用の防寒部は三か月前に送ってもらっているわ。3歳用も含めて、大きさが違うのが10着も送ってもらっているわ。」
「そうでした。でも、双子の可能性もあるかもしれません。」
「エリカ、喜んでくれるのは、嬉しいのだけど、程ほどにね。」
「はい。」
17歳の妹は充分な成長を遂げていて、見目も中身も成人女性と同様ですが、姉の前だけでは、少女らしい笑顔を見せます。精霊教の大神官ではない時の妹は、神々しい美しさではなく、愛らしい可愛さだけを持っています。しかし、愛らしい妹がミーナにとっては一番手強い相手です。妹の我儘を何でも聞いてあげたいという姉心がある事が主因ですが、ミーナが唯一、どのような方法を駆使しても思い通りにコントロールする事ができない存在が、エリカティーナです。
「ところで、リンケ公爵家の事を調べてくれた?」
「はい。エルとバリを入室させてもいいですか?」
「ええ。」
「エル、バリ、入ってきなさい。」
「はい。」
返事共に入ってきた2人の13歳少年は、エリカティーナを信奉する親衛隊であり、大神官の手足となって様々な工作活動を行う戦士でもあります。かつて、大教会の暗殺部隊に所属して洗脳されていた彼らは、自分達を開放してくれたエリカのためには死も厭わない人間です。
しかし、8人の少年には、ミーナ殺害未遂事件を起こした過去があり、エリカティーナ様の姉だとは分かっていても、どうしても緊張してしまいます。
「お姉様、この子達も、私の隣に座らせてもいいですか?」
「もちろんよ。」
「ほら、2人とも座って、ね、お姉様は優しい方だから、怖がる必要なないのよ。」
「はい。」
「はい。」
幼少期から暗殺技術を仕込まれて、ミーナをターゲットにした事で敗北捕獲されて、エリカティーナの洗脳解除を受けてから、彼女に仕込まれた少年戦士は、戦士としても諜報官としても、通常の大人の3倍の能力を持っています。
「まずは、リンケ公爵が私達と貿易をしない選択をしている理由が分かっているのなら、教えて。」
「はい。公爵領とその周辺地域には平地が少なく、住居のほとんどが山間部の狭く平らな場所に作られています。主な産業は、金・銀・銅・鉄の発掘と、住居用の木材の販売です。大河以南で唯一大きな鉱山を所有しているのがリンケ公爵家で、これまで南部の経済を、裏で牛耳っていますから、こちらの思い通りにならない事を示すために、貿易交渉を避けているのだと思われます。これは、現地の商人の1人が言っていた意見ですが。正しい考えかと思います。」
「なるほど、今のリヒャルト派の領地で、お金そのものを作る事ができる所はないから。リンケ公爵家は経済的に優位に立てると考えているのね。こちらからの食糧が入らないと困るだろうと思っていたけど、向こうは金と交換すると言って、商人達に食料を運ばせることができるのだから、向こうは焦る必要はないわね。」
海に接する平野の多いアーベル公爵家と全く異なる要因を抱えているリンケ公爵家の調略は簡単には進みません。
「リンケ公爵領は山間地を利用した要塞や関所が何か所かあって、防衛がしやすいため、こちらから攻め込んだ場合、かなりの犠牲が出ると思われます。敵の正規兵は公爵家だけで5000です。ただ、攻撃を受けた場合は、住民達も防衛に参加します。」
2人目の少年が、軍事侵略での決着は難しい事をミーナに伝えます。
「弱点でなくてもいいけど、偵察に行って気になる事は何かあった?」
「・・・・・・気になったのは、鉱山の周辺の木々が広く枯れている事です。」
「ん、枯れているというのは、鉱山周辺の木々を伐採したから木々が無くなっているのではなくて、枯れて木が生えなくなったという事?」
「はい。領民の話では、鉱山から流れ出る濁り液が、木を枯らせているとの事です。」
「なるほど・・・。」
「お姉様、何か気になる事でも。」
「ええ。エリカに送ってもらった教会の北部の過去の収穫量の事なのだけど。川沿いの地域なのに、どう考えても少ないのよ。南部に比べて、気温が低いから、収穫が減るのは当然だけど、それを考慮しても少なすぎる。大教会の司祭達が私腹を肥やすために、収穫量を減らして報告したとも考えたけど、それぞれの地域で同じような割合で少なくなっているから、人為的ではないと考えていたの。」
「鉱山の濁り液が、何らかの毒性を持っているという事なのですか。」
「うん。その可能性は高いと思う。」
「木を枯らすという事は、木に対しての毒性がある事は間違いなさそうですね。それと、大教会の収穫量データと関係があるのですか。」
「関係がある気がする。詳しい調査が必要だけど、濁り液がボンダール大河に流れ込んでいて、その下流域である大教会の農地が被害を受けていると思ったのよ。」
「リンケ公爵領では、濁り液を川に流しているの?エル、どうなの?」
「川に流している場面は見ていないです。ただ、川から水を引いている所は何か所かありました。」
「だそうです、お姉様。」
「ペンタス先生に、地下水の事を習った事があるでしょ。遠く離れた土地で染み込んだ濁り液が、徐々に地下水と交じり合って、大河に流れ込んでいる可能性はあるわ。」
「そうでしたね。先生をお招きしますか?」
「来てくれるだろうから、すぐに書簡を送るわ。ただ、この仮説が正しいとすると、アーベル公爵領にも被害が出ているだろうから、過去の収穫量の情報を分析した方が良いわね。その辺はテリーに任せるけど。」
ドミニオン国の南部は平低地、北部は傾高地です。北側は山間地も多く、そこには鉱山があり、金属を産出していています。貨幣を製造する能力があるからこそ、南部の穀倉地帯を抑えて、北部が経済の中心として動いています。
その北部が冷害によって度々食糧危機に襲われるのは、鉱毒が関係しているのではないかとのミーナの推測は当たっています。この事象が証明させるまでには、100年近い時間の経過が必要ですが、ミーナはこの事象を事実として広める事にします。
収穫期直前、リンケ公爵は詰問書を受け取ります。精霊教大神官エリカティーナの名で発した書簡には、鉱山の毒液を森林に垂れ流して、木々を枯らされているのは、木精霊ジフォス様への反逆の意図があるのではないか。という事が書かれています。この時代においては、言いがかりでしかない詰問書を公爵は無視しますが、すぐに領内に噂がばら撒かれます。
領内の枯れ木は、毒を巻いている証拠である。大河沿いの農地では、他の地域に比べて収穫量が少ないのは、木精霊ジフォス様からの警告である。すぐに毒の放出をやめなければ、公爵領内だけでなく、周辺の傘下貴族の領内の森林も枯れてしまう。
このような噂が流れると、領民達の分断が発生します。鉱山で働く人間にとっては、金属製造する時に出てくる廃液によって、周辺の木々が枯れるのは常識であり、数百年も続けてきた営みの一部です。近接している場所では木々へのダメージが発生していますが、離れた場所での影響はありません。
この当時において、鉱毒の影響は周辺地域に限定されていて、地下水の汚染も周辺地域限定のものです。ボンダール大河に流れ込む鉱毒の領は極めて少なく、河川の水を飲むことによって人体に悪影響が出る事を証明できる事象は発生していません。
金銀銅鉄の原石を取り出して、そこから様々な物を作り出している鉱山労働者から言えば、取り立てて騒ぐ必要もない上、公爵領にとっては重要な経済基盤を攻撃するのは、リヒャルト派閥の嫌がらせに決まっているから、煽られずに無視していれば良いだけだと考えています。
しかし、領内の人間でも、全員が枯れた木々を見たことがある訳ではなく、改めてその姿を見ると、出回っている噂が真実のように聞こえます。すでに、聖女エリカティーナの奇跡は広まっていて、その聖女からの警告を無視してよいのかと言う声が、公爵領内の教会から上がってきます。
大教会が崩壊した今、精霊教の教会として生き残るしかないと考えている司祭達は、神官への脱皮を実現するために、エリカティーナ様の教えを忠実に守る姿勢を見せなければなりません。唯一神ヴェグラの庶民への影響力は大きく、教会が動くとなると、庶民も一緒に行動します。
揺さぶりで領内が安定しない状態で、南部地域の大豊作の情報が公爵領内に入ってきます。南方の貿易商団が、大量の食糧を携えて、公爵領に入ってくると、大豊作によって値崩れした食料品を、今までよりも格安で販売し始めます。
南方の温暖で土壌豊かな土地で取れた作物が、真反対の特性を持っている北側の作物よりも美味しいのは当然です。収穫の時期が少し遅れている公爵領内で取れた作物と、南方から輸送された作物の食べ比べが始まると、商人達が持ってくる食べ物の方が美味しい事が分かります。
調味料と様々な調理法のおかげで圧倒的な差が出ているだけですが、庶民にしてみれば、精霊教が言っている事の正しさを証明する事例になります。
リンケ公爵領内が3か月間落ち着きを取り戻せないまま、涼しさから寒さに移行を始める11月になります。精霊教が2万の信徒を引き連れて、公爵領に侵攻を開始する準備をしているという情報が流れてくると、領内の民や周辺貴族から、公爵に対して、精霊教会と交渉で問題解決して欲しいとの要望書が届くようになります。
国内最高貴族に対して、要望書というタイトルの付いた抗議書を送るのは異例の事ですが、この行為を止める貴族達はいません。1年半前の教会勢力による大虐殺があった事を民達も貴族達も覚えています。精霊教が教会の大虐殺を非難しているため、同じような事が起こる訳がないと信じている者もいれば、同じヴェグラ神を信仰している集団なのだから、集団となって押しかた場所で、大虐殺を起こす可能性があると考える者もいます。
公爵を怒らせても大虐殺はないけれども、宗教集団は怒らせると何かが発生する不安があるため、周辺貴族達は、リンケ公爵に折れるように要望書を送り続けます。そして、20000もの精霊教徒たちが押し掛ける前に、公爵を捕らえるのが一番良いのではないかと住民達が隠れる事無く言い始めます。
最後の一突きで大混乱が起きそうな時、テリー・オズボーン公子が単身でリンケ公爵領に登場します。アーベル公爵家に婿として入る事が決まっているテリーが持ってきたのは、鉱毒への対策です。
魔獣の巣から産出させる魔石を加工して、水を発する機能を持たせた場合、その魔石から流れ出てくる水には、浄化作用があります。魔法の研究が全く進んでおらず、その仕組みについては全く解明されていませんが、魔法道具としての魔石の研究は進められていて、理屈は分かりませんが、その効果だけは確かなものとして、イシュア国のオズボーン公爵家では把握しています。鉱山で使う水を、魔石水に置き換えておくと、毒性が弱まる事はすでにイシュア国内で確かめられています。
テリーはリンケ公爵に対して、この現状を解決する方法として、水の魔石を手に入れるしかないと訴えます。その事を理解させる事で、テリーの任務は完了します。魔石を安定的に手に入れるためには、イシュア国との交易ルートを構築しなければならないため、リヒャルト王弟殿下と貿易条約を結ぶしか方法がありません。そして、それはリンケ公爵家がリヒャルト王弟殿下の傘下に入る事を意味します。
ボンダール大河以南の地域を勢力下に収めたリヒャルト王弟殿下は、土地面積で国の半分を勢力下に入れて、5大公爵の内、2公爵家の助力を得る事ができるようになります。




