102 調略
102 調略
大教会本部があった都市ハルナドは、ドミニオン国の標準的な都市とは異なります。領民の住居を取り囲む、広大な城壁は存在していません。神域と呼ばれる中心教会のある地域だけが要塞化しているだけで、その周辺に住居している信徒達を守る城壁は存在していません。
防御力の低いハルナドから、大教会幹部が逃亡したのは軍事的には正しい選択ですが、宗教的には大敗北につながる選択です。木精霊ジフォスの化身であるエリカティーナ大神官が、その威光で邪悪を退けたという物語が大きく広まる事によって、それまでに教会本部が構築してきた宗教的な秩序が崩壊します。
その結果、国王側の北部とリヒャルト王弟殿下側の南部の状況が逆転します。安定と不安定、安心と不安、信頼と疑心、秩序と混乱、それぞれの地域を評していた言葉が全て入れ替わります。
ただ、中南部地域にも2つの火種が残っています。ボンダール大河の南部側に存在しているリンケ公爵家とアーベル公爵家は、未だリヒャルト王弟殿下に対しての立場を表明していません。その周辺の小貴族達も、公爵家の意向に従う他ないため、その立ち位置を表明していません。
大教会の東西にある2つの公爵家を取り込むことができれば、ボンダール大河以南を勢力下に治める事になり、ドミニオン国を完全に2分する巨大な勢力を作る事ができます。そうすれば、国王アルフォンスの意思に関係なく、戦乱を終わらせることができます。大河を防衛線にすることで、北部からの軍事的圧力を大きく緩和できるからです、
妊娠中で拠点セゼックから動くことができないミーナは、2つの公爵家に盛大なパーティーを行う旨の招待状を送ります。
都市セゼックの領主館は、単体でも要塞としての機能を持っています。名将ベッカーが改善を重ねた領主館の大広間は、本来兵士達が集合する殺風景な場所でしたが、魔石の照明と様々な色の布に飾り模様をつけて、天井から吊るしたり、壁を飾る事で、華やかな会場へと変えます。木製の食滞テーブルも、テーブルクロスで実用的な印象を打ち消します。
「お招きいただき、ありがとうございます。」
「良く来てくださいました。アーベル公爵。」
「はい。王弟殿下のお招き、断ることなどできません。それにしても、大きくなられましたな。」
「はい。王宮でお会いして以来ですから。」
「覚えておられましたか。小さい頃は、どちらかというと可愛らしい王子であられたが、今や立派な武人。背も私と変わりませんな。」
「はい。鍛えられましたので。」
紺色の礼服を身に纏っている16歳の領主は、煌びやかな装飾品で飾られている赤褐色の礼服の冴えない公爵と対峙しています。37歳のアーベル公爵は、リヒャルトの親と同世代の人間で、公爵家当主としての経験を積んではいますが、見た目や能力において、新進気鋭の若き領主に負けています。
「鍛えたというと、王弟妃殿下に剣を学ばれたのですかな。」
「はい。紹介します。妃のミーナです。」
「初めてお目にかかります。ミーナと申します。妊娠中にてドレスで着飾る事はしませんが、ご容赦ください。」
「ミーナ様、ご懐妊おめでとうございます。私達を、王弟殿下と共に迎えて頂いたこと、我がアーベル家の誉れでございます。我が妻ペネエと娘アンネマリーです。」
公爵夫人と公爵令嬢が立て続けに、王弟殿下、王弟妃殿下に淑女の礼で挨拶します。この瞬間、アーベル公爵家は、リヒャルト王弟殿下の勢力下に入る事になります。
18歳になるアンネマリーは、公爵夫妻の唯一の子供であり、彼女と結婚をして婿入りした男性が次期公爵になります。つまり、現時点において公爵家の後継者は公女アンネマリーです。
当主だけでなく、後継者と共に、リヒャルトの支配地に入るという事は、一族の命を預ける事を意味しています。そして、この挨拶の儀式が平穏無事に終わった事で、リヒャルトは、アーベル公爵家を、勢力内の唯一の公爵家とします。リヒャルトにとっては強力な味方を手に入れる事になり、アーベル公爵家にとってはいずれ誕生するであろうリヒャルト政権において、筆頭公爵家になるメリットがあります。
宴会場で両家の関係を、パーティーに参加している貴族達に見せつける事は、リヒャルトとアーベル公爵家が主従に近い関係になった事を示すためですが、王家から公爵家に非難の言葉が向けられた時、ただパーティーに参加しただけであると言い訳ができるようにするためでもあります。
「ミーナ様は、イシュア国のファロン家の出身と聞きます。イシュア国ではドミニオン国とは異なる農作物がたくさんあり、美味しい料理がたくさんあると聞いています。このパーティーで供される料理の材料は、イシュア国産のものですか。」
「公女は、料理に興味があるのですか。」
「食は人が生きるために必要なものです。毎日食べるものですから、美味しい物を食べたいのです。」
「なるほど。ここで使われている食材は、南部産の物で、イシュア国産ではありませんが、イシュア国の農業技術と持ち込んだ苗から取れた物が多いのです。お気に召す料理がありましたら、公爵領でも食べられるように、料理法などを教える事ができます。」
「感謝いたします。中東部地域は海に接する地ですから、海水塩や海産物が豊富に取れます。お礼として、これらをお送りしたいと思います。ぜひ、ご笑納ください。」
「海魚というものを食べる機会がほとんどありませんので、食べてみたいと思っていました。楽しみにしております。ただ、新鮮な海魚を内陸部にあるセゼックでは食べる事ができません。加工品も美味しいと聞きますが、新鮮な物を食したいと思いますので、イシュア国から持ち込んだ魔石を使っての、新鮮さを保つ技術があります。それを提供いたしますので、新鮮な海魚を送っていただきたいと思います。」
「はい、新鮮な海魚をお届けいたします。ところで、海魚を取る漁師たちは、かすり傷を負う者が少なくありません。我が領内には良い傷薬がありません。どこかに良い傷薬はありませんでしょうか。」
「イシュア国には優れた傷薬があります。私もいくつかを持ってきましたが、度重なる戦いで全て使い果たしてしまいました。イシュア国でも生産に限りがあるため、そうそうこちらに送ってもらう事はできません。この地での栽培も研究していますが、気候が合わないのか、土地が合わないのか、栽培には成功していません。どこでも手に入るような傷薬はありますが。」
「そうですか。領民の怪我を治すための研究に投資する機会があれば、お声がけいただきたいと思います。多額の寄付をさせていただくつもりです。」
「少し時間はかかるかもしれませんが、そのような機会を作りたいと思います。」
公女アンネマリーは可愛らしい垂れ目の少女に見えますが、18歳の成人貴族であり、1人娘である事から、政治についてもしっかりと学んでいて、両親の前でミーナと政治交渉を堂々と行える程、しっかりとしています。
冴えない父、か弱く見える小さな母の間に生まれたにしては、見目も麗しい方で、その態度には公女としての貫禄が十分に備わっています。青髪青目の瞳には、野心ではありませんが、公爵家を盛り立てて行こうとする強い意思が宿っています。
ミーナとアンネマリーは、会場全体に聞こえるような声で、世間話や自領の自慢話の形を借りた貿易交渉を行います。王家に隙を与えないために、両家の人間が合う場所は、衆人環視のこの会場だけにするため、ここで話をしなければなりません。
貿易の実務についても、商人達に任せる形で、領主が無関係である事を装う必要があるため、貿易可能か不可能かを決めるためにも、主要な商品の世間話と自慢話をしていきます。
ミーナは貿易の利益で周辺の貴族達を取り込んでいるため、最終的には貿易しない商品を存在しないようにするつもりですが、信頼を醸成するまでは、軍事に関係する物品の取引だけはしばらく制限する方針です。そういった事も世間話の中で伝わり、ミーナとアンネマリーは貿易の基本方針と貿易可能な商品を確定させます。
5歳年下の公女の才知に感心したミーナは、武に偏り過ぎている若き夫よりも、政治に関しては詳しいであろう彼女を気に入ります。
臨時パーティー会場での、中南部のリヒャルト派貴族達と、アーベル公爵派貴族達の交流は、各都市間の貿易商談が主な内容になります。派閥の長同士が合意した範囲内であれば、王家からの圧力に対する防波堤が存在しているので、交流は盛り上がります。
立食式の会場ですが、壁際には応接セットが並べられていて、しっかりと商談をまとめる場ともなっています。
「姉さん、お疲れ様です。」
「ずっと座っているだけだから、疲れる事はないわ。」
「立っていても疲れる事はないのだろうけど。お腹の子を配慮して、妻を立たせたままにしないというリヒャルト殿下のためのパフォーマンスですよね。」
「リヒャルトは優しいのよ。」
「優しい上、できる方です。最初に会った時とは比べ物にならないくらい、強くなっています。うちで執事修行をしているから、周りにもきちんと配慮ができていましたから。」
「急に褒めたりして、何かあったの?」
向かい側のソファーに腰かけた金髪青目の高身長の美丈夫は、父親アランの血を強く引いていて、一族の中では上位の美貌を持っています。一族全員が美しいと言われる公爵家一族の中での上位であるため、貴族令嬢全員の心を奪い取る事ができると言われても、疑問を投げかける者は居ません。
「まあ、その。」
「貴族令嬢達と楽しい会話をしたんでしょ。」
「楽しいと言えば、楽しいのですが。こう、何と言うか、年齢的なものがあるのかもしれないけど。初対面なのに、明らかな好意と言うか。下心を向けられるのは初めてで。」
「王都以外で、貴族達が多数集まるようなパーティーが開かれるのは少ないから。このパーティーに参加している未婚の令息と令嬢は、婚約者探しに必死なのよ。リヒャルト派に入るという事は、当分王都に行く事ができないから。こういった機会に交流を深める必要があるのよ。」
「もしかしなくても、定期的に開催するんですか。」
「そうなると思うわ。」
「その辺は、任せておいてください。」
「その辺は任せるのだけど。テリーには、こういう機会を利用して、相手を探して欲しいのよ。まあ、向こうから寄ってくると思うけど。」
「イシュア国では、アプローチをかけられることがほとんどなかったのに。」
「年齢もあるけど、イシュア国では、オズボーン公爵家の次男坊の妻は、武門の家に入る覚悟が必要だから。人気があっても、いざ結婚となると、積極的にはならないのよ。」
「ドミニオン国では、オズボーンの名は知られているけど、その中身が良く分からずに、遠慮なくアプローチができるという事ですか。」
「そういう事。テリーは、ここまでの戦いで、武力を証明している上に、内政の手腕も確かで、イシュア国オズボーン公爵家の次男坊だから、ドミニオン国に領地をもらって、新たな爵位を得るかもしれないと皆は期待しているし、家の都合によっては婿に入ってもらえる可能性もあると皆が考えているわ。適切なく後継者がいない家は特に、テリーとの結婚は魅力的でしょう。」
「確かにそうですね。向こう側の立場で考えると、私を結婚で取り込むことができれば、相当の利益を手にする事が可能ですね。リヒャルト殿下とも親戚筋になる訳ですからね。」
オズボーン公爵家の次男であるテリーは、自分自身の政治的な価値を正確に理解しています。一番大切なのは、公爵家の血筋を後世に残す事で、多くの戦士を生み出す新たな貴族家を作る事が第一目標です。これは、覚悟を持った妻を手に入れる事ができれば実現する事ができるため、どこにいても達成可能です。そして、イシュア国にいたままでは、これ以外の政治的な意味を持つ事はありません。
しかし今、ドミニオン国遠征軍に参加しているテリーの政治的価値は数多くあります。王弟妃ミーナの腹心であり、親族である事から、ドミニオン国の貴族との結婚によって、リヒャルト王弟殿下に一族とも言える味方を作り出す事ができます。しかも、異国とは言え、公爵家の人間であるため、ドミニオン国の全ての貴族を取り込むことが可能な強力なカードとなっています。
「テリーは、ドミニオン国で結婚相手を見つけるつもりなんでしょ。」
「はい。前に話した通りです。」
「そうであるなら、見つけて欲しいと思っているわ。従姉として、王弟妃としてもね。」
「・・・・・・アンネマリー嬢を気に入りました?」
「気に入ったわ。」
「分かりました。この花瓶の花と、テーブルクロスの一部をもらってもいいですか?」
「いいわよ。」
食事用ナイフでテーブルクロスの一部を切り取ると、花瓶の花を包み込んで、それらしい花束を作り上げます。
「薄い青の礼服にして良かったわね。」
「はい。運命なのだと思います。」
「行ってらっしゃい。」
「はい。」
席を立ったテリーが花束を持って、青髪青目の公爵令嬢の前へと向かいます。会場の注目を集めながら、美丈夫な紳士は一目惚れである事を告げてから、跪いて花束を捧げながら、婚約を申し出ます。
リヒャルト派に入った唯一の公爵家の1人娘アンネマリーの婚約者として、テリー公子は適任です。国は違えども、同じ公爵家であり、家格の差は存在しません。ミーナとテリーが従姉の関係にあるため、アーベル公爵家とリヒャルトも親族としてのつながりを持つ事ができます。両者は共に内政についての能力も持ち、それぞれの支配地域で実質的な内政を司っています。婚約が成立した瞬間から、新たに登場した公爵家を中南部の経済圏に取り組み、強力な連携を取る事ができます。
両者のメリットがある以上、この政略結婚を断る理由は、双方にはないため、アンネマリー令嬢は、その場で申し出を受けます。明確な政略結婚であるにもかかわらず、恋愛結婚のような演出する第2公子の気遣いに、公女も一目惚れである事を表明します。
最初の挨拶で惚れたという事はありませんが、この求婚の儀式で、アンネマリーが公子テリーに惚れたのは間違いありません。




