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ミーナ・ファロン物語  作者: オサ
23歳の話
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97 罠

97 罠


ドミニオン国の中央部を西側から東側に向かって流れるボンダール大河は、国を南北に二分する境界線です。北部が王権、南部が神権によって支配されていると言われているのは、この境界線が国王のいる王都と大教会のある聖地を南北に分けているからです。

モーズリー高原から燃え広がったイシュア国の息吹は、最南部の地域に定着して、今は南部の諸都市へと広がっていきます。燃え広がる炎を押しとどめる力が、南部地域には存在していません。

大教会には教皇と教皇代理が健在ですが、権威を支えていた5精霊の化身である5人の大司祭のうち、4名が戦場で討ち取られた事で、大教会の軍事力が一気に減少します。武力を失ったことで、民衆が持っていた教会勢力への不満を抑止する事ができなくなり、南部の貴族達は、望むかどうかに関係なく、民衆の支持を手に入れるために、アザラン虐殺を大きな声で非難します。

各地で信仰心の強い住民達が、大きな反発を示す事を領主たちは警戒していましたが、実際に彼らが領主たちに牙を向ける事はありません。彼らは強い信仰心の向く先を、聖女に向ける事にしたからです。

教会勢力が崩壊しつつある中、イシュア遠征軍総司令官であるミーナは手堅い手を打ちます。

まず、ベッカー伯爵に書簡を送り、ケールセット領主であるリヒャルト王弟殿下が本物である事を認めて、その傘下に入る事を表明するように要求します。実質的には、受け入れるはずのない降伏勧告であり、伯爵の拒絶を想定しています。それでも勧告を出したのは、ミーナが留守の時に攻め込んで来たベッカー伯爵軍を、リヒャルトが追い返した事実を、全土に広く知らせるためです。

次に、国王陛下アルフォンスに書簡を送ります。その中身は、リヒャルトが臣籍に入り、ケールセット伯爵家を立ち上げる事を認めて欲しいとの要望書です。ドミニオン国からの分離独立や、イシュア国への併合ではない事を表明します。

この一手で王家が手打ちを望めば、イシュア国宰相としてのミーナは、両国の停戦条約を結び、後に貿易条約を結ぶ考えでしたが、伯爵家からも王家からも返事は来ません。

半年後のイシュア歴395年2月、休養を終えたミーナ軍は、ベッカー伯爵領に向かっての進軍を開始します。


16歳のリヒャルトは、金属製の胸当てと小手以外は皮装備の軽装兵スタイルで騎馬に跨っています。赤い短髪を隠す兜は身につけずに、敵兵に自身の顔がはっきり見えるようにしています。

「我が名はリヒャルト・アイヒベルガー。ベッカー伯爵に話したい事がある。」

 6000の敵兵に単騎で向かい合っているリヒャルトは、腹の底から発する声で呼びかけます。後方にいる2000の味方から離れた位置で、王弟殿下は追い詰められている名将を呼び出そうとします。彼さえ呼び出して討ち取れば完勝できる状況で、リヒャルトは勇気を見せています。

「私たち2人で話をすれば、兵の犠牲はなくなる。伯爵も大切な部下を失いたくは無かろう。」

 2000対6000の平地戦が行われる前に、少数の方の指揮官であるリヒャルトが挑発的な行動を取っているのは、兵数とは異なる所で王弟殿下の方が有利になっているからです。

 伯爵への降伏勧告が無視される事は想定済みで、ミーナは彼を追い詰めるために、傘下に入った後の彼の待遇を大々的に民衆に伝えます。現在の領地を維持した上、教会勢力が各地に所有している土地を管理する役目を与える予定である事を公表します。要するに、敗残者として傘下に入れるのではなく、重鎮として傘下に入る事を要求していると民衆に知らせます。しかも、王家との橋渡し役を受け入れれば、侯爵推挙を行う事も宣言します。

 これまでの対決を考えれば、伯爵を騙すか、油断させるための虚偽であると判断するのが普通ですが、これらの情報を信じたい人間がいます。それは、ベッカー伯爵領内の商人達です。

対立の最中であっても、商人達がケールセットを訪問すれば、貿易相手として歓迎されて、大きな利益の出る取引をいくつも成立させてもらっています。もし、重鎮として傘下に入る事になれば、さらなる利益が確実なると考えた商人達は、ベッカー伯爵の説得を試みます。

それにベッカー伯爵は応じる事はありませんが、この時点で、籠城する事が不可能であると判断します。内通者が現れて、城門の1つでも開ければ敗北するのだから、そのような危険を冒す事はできません。

情報戦の段階で、伯爵軍は籠城の選択肢を潰されています。また、厭戦気分は伯爵領内に流れていて、臨時徴兵を行っても、十分な兵士が集まらないだけでなく、住民達の反発を招く可能性が高くなります。常備兵6000が、現時点の伯爵が自由に動かす事ができる兵力です。その全軍を持って、都市に向かってくるミーナ軍を迎撃する以外の選択肢がなくなっているベッカー伯爵は、得意の戦術を駆使する場面を失います。

そして、2000の敵兵を前に、正面からの対決を避ければ、辛うじて残っている兵士達の士気を完全に失い事になります。敵側が定めた戦場に引きずり出されて、さらに、突撃を繰り出すタイミングさえも決められた以上、ベッカー伯爵の勝率は限りなく0に近いと、伯爵自身が理解しています。

それでも、単騎で出てきたリヒャルトを狙っての全軍突撃が最も成功率の高い戦術である事に違いはありません。

「全軍突撃せよ。」

「全軍前進!!」

 伯爵軍の突撃に対して、リヒャルトは逃げ出さずに、味方が自分の所に来るまで、1人で迎撃する事を選択します。ベッカー伯爵軍との最終決戦は、リヒャルトにとっては北部の教会勢力と王家を圧迫するための戦いでもあり、ただ勝てば良いだけの消化試合ではありません。


 オズボーン公爵家で約2年半、ドミニオン国の戦場で約2年、少年の成長期に過大な試練に押しつぶされながら生きてきた若き王弟殿下は、ミーナに捕らえられる前までの無気力な人間ではありません。

 偉大な人々に囲まれる中で知性を磨き、強靭で戦士達に揉まれる事で武力を磨き、義理の妹になる予定の少女からは、困難を突破するための蛮勇を体に教え込まれ、婚約者からは人に愛される喜びを教えられ、少年は誰よりも大きく成長しています。

 雄叫びと共に迫りくる6000の集団で輝く12000の瞳には殺意が宿っているはずなのに、リヒャルトは恐怖を全く感じていません。身を切られる痛みに耐えて、表情も心も声も歪めて呻いている自分に、殺意と侮蔑の視線を向けてきた義理の妹に比べれば、微風のごとき圧力しか感じていません。

「ここで・・・。」

 ここで武勲を上げなければ、ドミニオン国で精霊教教祖の座を手にしたエリカティーナ嬢に何を言われるのか、何をされるのか分からない不安感と一抹の恐怖感の方が、赤髪の青年とっては重要です。

 跨いでいる馬が逃げ出したい事を嘶きで表現しようとしますが、手綱をぐっと引いて、相棒にも我慢をさせます。

「・・・・・・盾を展開。敵を侵入させるな!!!」

 リヒャルトの場所に先に到着したミーナ軍が、木製の長盾を前面に向けて整列し始めます。薄い一枚の壁が完成すると、その後方の戦士達が、盾の陰に隠れながら、手槍投擲の準備を済ませます。

「投擲準備!!」

ミーナ軍2000の殺気を受けても、伯爵軍はこの突撃でリヒャルトを捕まえるか、討伐するかしないと止まりません。3倍兵士達の破壊力を信じて、突撃を敢行する敵兵の威圧感が迫ります。

「放てぇ!!」

 敵兵の雄叫びに悲鳴が掻き消されていますが、敵兵の速さと勢いが明らかに落ちます。長盾を構えた兵士達が、肩を寄せ合うようにして、隙間のない壁を完成させて、第一の衝撃を受け止めます。

槍投擲を行った2列目の兵士達が、盾の隙間に入ってくる敵兵を排除する事で、崩れない防衛線を完成させます。

「我らの勝ちだ!」

 最大火力の突撃を受け止めた瞬間、ミーナ軍の勝利が確定します。士気の差があっても、3分の1の兵力で名将と対峙しているミーナ軍に勝利のための秘策があるのは当然です。その秘策が発動します。

激突している場所から離れた林の中から、500の歩兵部隊が2つ出現すると、伯爵軍の左右に向かって駆け出します。

三方からの半包囲体制を意図する用兵そのものは見事ですが、2つの歩兵部隊は伏兵とは呼ぶには離れすぎている場所から登場したため、ベッカー伯爵に対応する時間を与えます。一部の兵力で左右に防壁を構築させると、中央部の兵士達にはただただリヒャルトを目指して突撃を行わせます。兵力差3倍の有利から、兵力差2倍の有利に変わっただけであり、最後の突撃を仕掛けた伯爵軍の士気は最高ではなくても、一定レベルを保っています。

 薄い壁が少しずつ歪み始めます。隙間を抜いて、第2列の戦士達と剣を交える者が増え始めます。ミーナ軍がぎりぎり崩壊しないのは、リヒャルトが絶叫しながら鼓舞しているからです。

「無理しなくてもいい。私の所に敵兵を来させても構わない。」

少年戦士が剣を抜き放って戦場でその雄姿を示します。敵兵の突撃の方向が一点に集中すると、崩壊しかけた左右の壁への圧力が弱まります。その結果、中央部への圧力がどんどん増していきますが、リヒャルトの周囲にいる兵士達は、選び抜かれた強者であり、防壁を崩す事がありません。

左右の歩兵達が到着して、攻撃を仕掛ける寸前、両側の指揮官が大声で名乗ります。

「我が名は、イシュア国副宰相リース・ファロン、妹がため参上。第2騎士団、突撃せよ。」

「宰相補佐バルド見参!!伯爵軍よ、聞け。我ら兄弟は、オズボーン公爵家の最強兄弟。降伏するか、逃げるか、好きな方を選ぶがいい!!」

 2人が名乗った直後は、伯爵軍の士気はそれほど減ってはいません。オズボーン公爵家の名は恐怖の対象ではありますが、ドミニオン国が恐れているのは、前公爵のギルバード・オズボーンです。甥だから強いとは思いますが、単騎で無双の武勲を上げた彼と同格であるとは思えません。

 しかし、2人の武力に、第2騎士団と第3騎士団が加わると、対歩兵戦の戦闘力は圧倒的なものになります。人間よりも速く強い魔獣と互角に戦える精鋭500が1つの弾丸になると、それを防ぐ壁を人間が作るのは不可能になります。

無言のまま人間の防壁を通り抜けるように突破した第2騎士団と第3騎士団は、突破後に雄叫びを放ちます。士気を刈り取られたベッカー伯爵軍は、全員が敗北を予感します。名将ベッカーは、一度地まで落ちた士気を回復する事は誰にもできない事だと理解しているため、全面撤退を命じます。

しかし、撤退する方向に、ミーナ自身が率いる第5騎士団がすでに待機しています。半包囲ではなく、全包囲されている事に気付いた伯爵軍は、作戦も何もなく、後方に向かって走り出したまま逃げすだけの群れになります。

 無言で突撃をするミーナと、その後に続いている第5騎士団の狙いは、敵将ベッカーの首だけです。

「敵将ベッカーを討ち取った!!」

 高音の声が響いた瞬間、戦場の全員がミーナによる征伐が完了した事を悟ります。

「武器を捨てて降伏しろ。今すぐ降伏すれば、負傷者の治療ができる。無駄に命を捨てるな。」

 リースの大声が響きます。

「怪我がない者は、武器を捨てて逃げても良い。早く決断せよ。死にかけている者がいるぞ。」

 バルドの言葉で武器を捨て始める人間が現れます。

「ジル・フォン・ベッカー伯爵の、葬儀は領都セゼックで行う。戦いは終わった。」

 ミーナが伯爵を正式名で呼び、葬儀に言及した事は、彼の伯爵家を潰さない事を宣言した事になり、当然、この戦いに参加した部下達にも寛大な処置が下される事を保証します。

 伯爵軍を下した事で、ミーナの勢力範囲は、ドミニオン国の南側の3分の1まで及びます。中でも、中南部の大都市であるセゼックをミーナが完全に手にした事は、彼女に与する事を決断した貴族達に安心感を与え、そうでない貴族達に動揺を与えます。


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