006
キスの数秒後、僕はドキドキしていた。だから、口を利けなかった。
彼女は、軽く下を見ているようだった。彼女もまた口を利けない様子だった。
セミロングの前髪が目に掛っていて、彼女の表情はよく見えない。
僕はすっと立ち上がった。
「帰ろう」
そうやって彼女にさっと右手を出す。
彼女は何も言わず右手を握り返して、手を握ってはいるものの手に力を加えず、自分の力だけでほとんど音もなく立ち上がった。
まだ少し下を向いていて、彼女の表情は見えない。
彼女の手が物凄く温かい。きっと恥ずかしいのだろう。何しろ二人にとって初めてのキスだったから。
下を向き続ける彼女を手で導きながら、公園を出て、北口の階段を上がっていく。
そして、そのまま駅の改札口まで辿り着いた。
改札口に辿り着くまで、彼女はずっと無言だった。
恥ずかしがりすぎだろ。いや、もしかしたらキスが嫌だったのか。いや、でもあの場面はキスまでいってよかっただろ、などと僕が逡巡し、もう改札前だからと、何気なく彼女の手を離して、彼女の方をちらりと見ると、眼に掛っていたわずかに左右に揺れた。
彼女は完全に《《無表情》》だった。
僕は彼女が恥ずかしさのために顔を赤らめているだろう、とかちょっと呆けているだろうなどの希望的観測を持っていた。または、怒りで口を尖らせ、斜め下を向いている、といった少々覚悟のいる状況になっているのではないか、とも思ったが。
彼女は完全に無表情だった。
彼女の十メートル程の背後には、駅の待合室の透明な強化ガラスのドアが存在し、その中に数人、恐らくは久美が向かう熊本駅行きの電車を待っているであろう人々、が座っている。
そんな風に、久美の後ろに存在する風景をしっかりと確認できた。久美は僕の目の前にいるのに、彼女の背後の風景に溶け込んで見えるくらいの、彼女の顔は完全な無表情だった。
彼女は僕を見ていない。というより、彼女の眼球はピクリとも動いていない。
そして、その無表情と共に僕が今まで気にしてこなかったことが──今まではそれが普通だと思っていた違和感を、僕は意識的に感じ始めた。
彼女の手が《《熱すぎる。》》
最初は恥ずかしいから体温が上がり、ああ、人間の掌はこんなにも温かいものなんだな、なんて暢気に考えていたのだが。
階段を上るにつれて、温かいから熱いへ。
彼女の掌の一点を握り続け、尚且つ漸近的な温度変化であったため火傷で皮膚が爛れる、なんてことにはならなかったが。
心が高揚した、と言って説明できるくらいの人間の体温では無かった。
僕は彼女の手を、彼女の別の部位を触らない様に、ぱっと離した。
彼女は無表情。彼女の右手は一瞬、空中に止まったまま。
そして、ぽすんっと右手を下した。
右足を踏み出す。
僕に近付いて来る。
左足を踏み出す。
そのまま無言で僕の横を通り過ぎていく。
僕は首の回転だけで、彼女を目で追った。
彼女は改札に入る。そのまま通っていく。改札を抜け、ホームへの階段を目指して歩いていく。
僕は、そのとき、ようやく彼女に全身を向けて彼女を見ることができた。
両足を重そうに、あまり上げずに引きずるように歩く彼女。
ようやく、僕は彼女が心配になってきた。彼女を心配できる余裕を持つことができた、と言えるかもしれない。だからといって彼女が改札を通ってしまった今、何かが出来るわけでもなかった。
彼女は左へと方向転換し、ホームへの階段に差し掛かろうとしている。
階段に入ってしまえば、もう改札口からは彼女の姿は見えなくなる。
僕は右手を上げた。右手を振りながら「バイバイ!」と言った。僕には声を上げることぐらいしかできなかった。だから精一杯に声を上げた。
彼女に聞こえるくらいの大きな声で。
でも、彼女は無言で階段へと入って行った。