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INNOCENT SOUL  作者: 千柳亭 春宵
4/5

~Existance of Even~

古代魔法は封印すべきか否か。

光と闇の狭間に立つ者、レクサール=セレンが下した決断。


この小説は「千柳亭書房」にも掲載しています。




 レクサールは、首筋に張り付いた下級妖魔の最後の一匹を引きはがし、短い呪文を唱えた。妖魔が潰されるような悲鳴を上げて燃え尽きると、その場に片膝をつく。

 石畳の計算し尽くされた並びに、朱が禍々しい文様を添えた。


 ─────さすがは攻撃魔法全般を得手とするクリス。呪詛を返すどころか、標的をすり替えるのが精一杯だった。


「…まったく、私には過ぎた弟子だよ」

 苦笑して、背後の扉にかけた隠形と封印の呪符を焼く。

「…もういい。出ておいで、パラーシャ」

 彼が言うまでもなかった。呪が解かれた扉を破るようにして飛び出したパラーシャは、朱の泥濘のなかへ頽れようとするレクサールを間一髪で支えた。

「レクサール…何ということを…!!」

「…毎度世話をかけるね、パラーシャ。ついでと言っては何だが、私を大回廊へ連れて降りてくれないか」

「傷の手当が先です!」

「それはもうやってるよ。傷の手当は自分でもできるが、さしむき歩けそうにないんだ。頼むよ、パラーシャ。時間がない」

 パラーシャが、感情を噛み殺すように一瞬だけ俯く。

「…Yes,Lexal…でもその肩の傷だけは治してからです。そんな腕では、肩を貸すこともできません」

「…もっともだな」

 パラーシャの掌が、骨を覗かせるほどに食いちぎられたレクサールの肩を包む。魔術者としてもバランスのとれたパラーシャは、メイガスクラスながら攻撃と治療回復の双方を等しくこなすことができた。

「…どうして…どうしてこんなことを…」

 痛みと失血に冷汗を浮かべながらも、レクサールはいつものように笑っていた。

「もう少しスマートにやれたはずだったんだがね。…気づくのが遅すぎた。まさか…彼がここまでやるとは…な」







      ACT.1


 白くにぶく光る石。良く磨き上げられた小さな石を柄に抱いた輝神剣は、ゆっくりとその刀身の色をかえていった。ただ触れたものをも傷つけずにおかない鋭さは、鈍色に包まれ刃を失ってゆく。

「…とりあえずはこれでいい」

 魔法司・レクサール=セレンは刃を失った「輝神剣」を鞘に収め、隠封を施した。

 さすがに疲労の色がみえる。とかく問題を起こしやすい契約剣の封印なら、それこそ数限り無くこなしたレクサールだが、今回ばかりはモノがモノだ。

「これで封印された状態とは…恐ろしい剣ですね」

「…これに恐怖を感じるか…魅力を感じるか…。それは紙一重でありながら、その間には深い断絶がある。君は正しいよ、パラーシャ。こんなものは地上に置いておくべきじゃないんだ。

…さてと。すまないが、これをしまっておいてくれないか。ちょっと王都まで出てくるよ」

「…!」

 パラーシャが軽く眉をあげた。それに気づいてか、レクサールは笑う。そう、一体何年ぶりだろう。およそ北の神殿に隠棲して以来ではないだろうか。

「カーツのところへ行ってくるよ。うちのヴィーネ酒、まだ残ってたね?」

「あ…はい」







     ACT.2


 当然ながら、カーツのリアクションはパラーシャのそれよりはるかに派手だった。

「どーしたってんだ!? 天変地異の前触れじゃあるまいな?」

 右手に古びた杖、左手に小さな酒瓶をぶら下げ、希代の魔術者は憮然として色の淡い頭髪をかきまわした。

「…つくづく友達甲斐のあるやつだよな、お前」

「はは、悪かったな。しかし一体、どういう風の吹き回しだ? またご丁寧に手土産までさげて?」

「そこまで言うか…。豪邸を持て余してる友人のところに遊びにきちゃまずいのか?」

 事もなげに言うが、レクサールの王都嫌いが尋常でないことをカーツは知っている。何か用があっても、大抵のことはパラーシャを寄越して済ませるのが普通だ。

「…まあ入れ。だだっ広いだけで手入れしてないし、ろくな肴がなくて悪いが…」

 カーツは踵を返し、レクサールを招じ入れた。

 時代のかかった廊下を進みながら、レクサールが感心したように言った。

「なんとも贅沢な話だな。王都の一等地にこの大邸宅。おまけに一人住まいか。今をときめくユートラップ騎士団長殿よ、何でおまえさんいまだに独り身なんだ?」

「お前にいわれたかぁないよっ!」

 カーツが突き当たりの部屋の扉をふて腐れたように蹴り開けながら、声をはねあげる。

「好きで独り身託ってるわけじゃないわい! 来てくれる嫁がいないからに決まってんだろうが」

 レクサールの、厭味のない笑声が邸宅の小庭園に響いた。重厚な調度品が並んだ一間は、テラス窓を開け放てば庭園をわたる風を呼び込むことができる。

 運ばせた酒肴を卓の上に並べながら、カーツは嘆息混じりに言った。

「そろそろ身をかためろとは言われてるが、今はとても…」

「出兵続きでそれどころじゃない…か」

 こればかりは笑い事ではない。ユートラップは貧しい国だが、大陸街道沿いという地理的条件を狙われ、これまで何度となく大陸列強の侵攻に晒されてきた。それでもなんとか独立を保っているのは、カーツ率いるユートラップ騎士団の必死の防戦、そして隣のカデイラ公国の支援にほかならない。

 カデイラ公国とてなにも純粋な善意で支援してくれる訳ではない。ユートラップが制圧されれば次に危なくなるのはカデイラ公国なのだ。「明日は我が身」の危機感は、時として力強い味方をつくる。

「…しかし、いつまで保つか」

 カーツの表情は厳しい。いつも最前線にいるからこそ、ユートラップの瀕した危機がいちばんよく理解るのだ。

 ふと顔を上げて、カーツが話をかえた。

「そういえばレクサール、おまえまた大変なことをやったんだってな」

「おい待てよ。身に覚えはないぞ」

「そうじゃなくて、おまえこの前、蛇に咬まれた女の子の治療をしただろ」

「…そういえばそんなこともあったか。またえらく昔のことを…」

「とことん時間感覚のいい加減な奴だな。三月ばかり前だろう。あの女の子な、ある宮廷書記官の縁者だったらしくて…。最近になって宮廷でお前の話が出るようになった」

「…ふーん」

「…曰く、“北の荒野で、大陸をも統べることのできる力を得たらしい…”と」

 レクサールの手元で、時代のかかった酒杯が卓にぶつかって鋭角的な音をたてた。

「どうしてそうなる!?」

「いきなり大きな声、出すなよ。びっくりするだろうが。噂だ。…皆、不安なんだよ。そこへ、あの女の子の一件だ。誰しもがもうだめだと思うような瀕死の重体から回復させたんだ。俺たちの感覚からすれば奇跡に近い。その奇跡を行うことができる者がこの国にいたら?

 …その者にユートラップをも救う力があるんじゃないかと思いたくもなるだろう」

「…なんとも手前勝手な話だ…」

 その声は低く、僅かだが怒気すらはらんでいた。

 無理もない。レクサールが王都を離れたのは一つに彼自身の意志だが、魔術者として余りに突出した能力を宮廷魔術者集団から妬まれ、それがうとましくなったという理由もあった。その経緯をよく知っているカーツとしては、苦笑するしかない。

「そう言うな。…やつらに賛同する気はさらさらないが、そう思いたくなる気持ちは俺にも理解るからな」

 レクサールはしばらく何も答えなかった。ついぞ先刻の怒気も失せ、疲れたような表情でその視線を手元の杯に落として動かさない。ややあって、そのまま呟くように言った。

「…確かにあの場所には大きな力が眠っている。確かに大陸を統べることも可能かもしれない。だが、あれには人ひとり救う力もない…」

 何をするにも余裕の二文字をしょっているかのようなレクサールだが、昨今()()()()()言動が増えたような気がする。

 カーツが輝神剣を持ち込んでから特に…。

「…嫌な話を聞かせたな。済まん」

「なに、お前さんの所為じゃない。…誰かが悪いとするなら、それは私だからな」

 苦い笑みで、表情を隠す。

「どういうことだ…?」

 それへは答えず酒杯を置き、レクサールは庭園へ降りた。

「…いい庭だ。風の守り…火の守り…水の守り…誰が造ったか知らんが、よく考えてあるな。ただ惜しむらくは、これだけ緑を揃えてあるのに、配置が悪いから地の守りがない」

 レクサールは、手にしていた古びた杖を庭の一隅に刺した。そして、それに手を触れたまま瞑目して呪文を唱える。

 古びた木の杖が淡く発光した。

「な、何だ?」

 淡い光の中で、変化が起こりつつあった。杖の地に接する部分から根が生え、空に接する部分から若芽が伸びる。それだけではない。もはや杖でなく、生きた木となったその幹は少しずつ径と丈を増していた。

 丈がレクサールと並ぶ程になったとき、レクサールは口を閉ざした。

 カーツが吐息して言った。

「お前の手品はたくさん見せてもらったが、こういうこともできるんだな。とすると、荒野を肥沃な野にかえることもできる訳か?」

「手品ってね、おまえ…」

 レクサールは苦笑した。

「まあ不可能じゃないがね。その地に然るべき条件がそろっていなければ、結果は同じだ。魔術は、自然の摂理を曲げることはできない…なぁカーツ」

 若芽の一つを摘み、部屋に戻る。きょとんとしているカーツの手にそれを落として、言った。

「何年か前に、異界へ行ったときに拾った代物だ。葉だけでなく、花、実、樹皮すべてから芳香がする。それぞれ使い途はあるが、とりあえず葉を酒に浮かべるだけでも沈静…気持ちを安らげる効果がある。毒性はないしいろいろと役に立つから、まあ暇々に研究してみろ」

「あ、ああ」

「それとな…悪いことは言わない。おまえ、騎士団長なんぞやめてしまえ」

「…何?」

「おまえさんは確かに戦士としては一流だ。人望もある。…だが、だからこそ見なくてもいいものを見てしまうかもしれない。宮廷なんぞ、とどのつまり伏魔殿だ。お前にはふさわしいところじゃない」

 あまりに突然な言葉に、カーツはしばし声を失っていた。

「…それは、予知とか予言とかいう…ものなのか?」

 カーツの言葉に、ふっとレクサールは我に返ったように一旦口を噤んだ。そして再び口を開いたときにあったのは、いつもの韜晦するがごとき微笑。

「いや。…私は予言者じゃないさ。そんな気がするだけだ。それより、急な頼み事で悪かったな」

「ああ、先刻の話か。いいさ、どうせ俺の手には余る代物だ。使い途があるってのなら、それに越したことはないさ」

「…恩に着るよ。じゃあそろそろ、おいとまする…か!」

 言いかけて硬直したレクサールに、カーツもただならぬものを感じて立ち上がった。

「レクサール!」

「まさか、そんな…!」

「おい!どうしたってんだ!」

 レクサールは答えない。ただ遠方にある何かを牽制するような眼差しで虚空を突き刺したまま、その指先は遷移呪文に用いる魔法円を描いていた。

「…すまない、カーツ!」

「おいっ!!」

 呼び止めて止まるものではない。魔法司(ソーサラー)クラスの用いる遷移呪文は、魔術師(メイガス)クラスのそれより遥かに発効が早いのだ。

 ─────後に残るのは、先刻摘んだばかりの若芽が発する、かすかな芳香。

「……!」

 悪い予感に駆られ、カーツは家人を呼んで外出の支度をするよう命じた。







      ACT.3


「パラーシャ、いるかい!?」

 呼ばれるまでもない。パラーシャはソーサラークラスの遷移呪文…レクサールでしかあり得ない…の波動に驚いて神殿の庭先へ出て来ていた。

「どうされました!?」

 レクサールが遷移呪文を用いる事態がただごとであろうはずもない。パラーシャは既に剣を佩いていた。

「…来てくれ、パラーシャ」

 レクサールの言葉が発せられるには、一瞬の空隙があった。パラーシャもそれに気づいていたが、その意味を悟られる前にレクサールは行動を起こしていた。

 神殿の一室。そこは、本来神官が道具に呪を施すために造られた場所で、構造的に頑丈なだけでなく一種の結界を構成していた。レクサールもここで輝神剣の封印を行い、そのままここに保管してある。

「ナイジェルは出掛けたままだったね?」

「はい、S-subsystemに。連絡しましょうか?」

「いや…丁度良かった」

「え…?」

 自然な動作で、抱き寄せる。一瞬何が起こったのか理解らず、パラーシャはひどく狼狽えた。…と、耳元でざくりという音。

「すまない、パラーシャ…」

 レクサールの右手の中に、パラーシャの黒髪の一房があった。

「…!」

 いつの間にか、パラーシャが佩いていた剣にレクサールの左手がかかっていた。半ば以上鞘から抜かれた刀身が、そっと彼女の横髪におしあてられたのだ。

 剣が、静かに鞘に戻される。

 そっと離れ、レクサールは輝神剣を覆う聖織布を取った。

「私がいいというまで、決してここから出てはいけない。いいね?」

「レクサール!?」

 パラーシャが我に返る暇も与えず、扉が閉じられる。

「…!」

 外から、隠形と封印の呪が施されたのがわかった。訳も分からず暗闇の中に取り残されたパラーシャの視界に、小さな白い石が滑り込む。それが何であるかに気が付いて、パラーシャは愕然とした。


 ─────それは、輝神剣の封印だった。







      ACT.4








 髪のひとすじを浮かべた杯。扉の前に立つレクサールに対峙するような格好で円形に並べられ、その数十二。

「これで精一杯だな」

 王都で感じた波動。…あれは、呪詛だ。それも、目的は呪殺。対象はパラーシャ。

 そして、仕掛けたのは─────…。

 レクサールは封印をはずした輝神剣を抜き、扉の前の床、その敷石の間に突き刺した。呪詛呪文に使役される程度の妖魔ならこれだけでも十分な護符にはなる。ただ、今回ばかりは仕掛け手が半端ではない…。

 先刻取って来たもう一振りの剣は、腰に吊るすこともなく鞘ごと握り締めたままだ。

 ──────来る!

 レクサールは短い呪文を呟いた。軽く手を挙げる、その一動作で杯に浮かべられた蝋燭に灯が点じられた。

 彼の聴覚は弓弦を擦り合わせるような不快な音を捉えている。やはり、尋常な数ではない。

 呪詛呪文はひとつ間違えば術者の生命をも食らう、異界の存在の中でも凶暴な質のものを使役する。それだけに、また呪殺を主目的とするその術の性質ゆえに外道の術とされている────。

『…そこまで追い込んでしまったか────』

 レクサールの表情はやりきれなさに塗りつぶされていた。だが、先鋒の妖魔が姿を見せた一瞬にそれを振り払う。

 神殿のように聖化された建造物は、壁や床を通過されることがないため迎撃には都合がよい。レクサールはこのさいその特性を十二分に利用した。

 初めて、剣を抜いた。拵えは簡素だが、その刀身は輝神剣に匹敵する凄みを備えている。指先で触れ、呪文を呟く。

『────火神閃。』

 狭い回廊に密集した妖魔に、最初の一撃を放つ。回廊を炎と風が吹き抜け、その中で力の弱い妖魔たちからちぎれてゆく。


 しかしその直後、最初の形代が砕けた。







      ACT.5


 ─────手応えがあった。


 だがその一瞬で、クリスは失敗を悟った。しかしもうどうしようもない。向かわせた妖魔はクリスの力のほとんどを…クリスが死なない程度の限界まで食らい尽くして行ったのだ。もし返されれば、クリスは間違いなく死に至る。

 現実に、今のクリスは指一本まともに動かせない。長椅子に身を凭せかけたまま、揺らぐ灯火を見つめることさえ大儀なほどだった。

 締め切った室内で、小さな炎をいくつも灯しているからひどく空気が悪い。それがさらにクリスの意識を曖昧なものにしていた。

 だが、その曖昧な意識の片隅で、クリスは遷移呪文の波動を捉えていた。







      ACT.6


 カーツは神殿内に一歩立ち入るなり、胸が悪くなるような煙に思わず口を押さえた。

「何だっていうんだ、一体!!」

 煙…油を燃やした煙だ。それもただの油ではない。対妖魔戦の際に僧侶が用いる香油。それと、妖魔の骸が燃える匂い…。

 匂いのもとを辿って、カーツは走った。

 妖魔の襲撃を受けたのは明らかだ。では、それを直前とはいえ事前に感知していたレクサールはどうするか。迎撃のために一番有利な場所で、罠をはったに違いない。

 近接魔術戦で、迎撃に有利な場所。それは、常に苦しい条件下で防戦に徹せねばならないカーツの選択と同じであった筈だ。つまり、狭隘な通路。かつ、レクサール自身が罠をはるためのスペースをもつ場所。


 ──────小回廊。


 案の定、小回廊の入り口からは凄まじい悪臭が漏れていた。

 蹴りつけるようにして扉を開けたが、中には妖魔たちの死屍が累々と横たわるばかりだった。

 カーツは奥へ進んだ。それにしても尋常な数ではない。妖魔は通常、異界の存在であってただ人を襲うためにやって来たりはしないものだと聞いた。では、何か。

 捜し出した答えを、カーツは無理やり押し込めた。そんなことがあっていいわけがない。

 魔法陣の残骸に気が付いて、カーツは足を止めた。

 砕け散った十二個の杯。いずれも無残に焼け焦げている。…間違いない、レクサールが対妖魔の罠として使ったものだ。その術者の位置に残されたものに気づいて、カーツは硬直した。

『…来たか、カーツ』

 カーツは慌てて振り向いた。だが、だれもいない。

「――――どこにいる?」

 努めて冷静に、カーツは訊いた。聴覚で捉えた声ではなかったことに気づいたのだ。

『地下の大回廊だ。…めったに見られないものを見せてやるから、降りて来い。ついでと言っては何だが、そこに落ちているモノを持って来てくれないか』

 術者が立つ位置に残る血だまり。その只中に、一振りの剣が抜き身のまま突き立てられていた。







      ACT.7


「…レクサール…」

 大回廊は地下にあり、地下の《遺跡》との接点になっているのだと聞いた…。

 大回廊の名に相応しい高さと奥行きを持った空間の最奥には、巨大な白い階段が聳えている。

 その階段の上には、一つの扉がある。《遺跡》へ続く扉。その扉の前に、レクサールは座っていた。季節外れの外套を羽織り、座っているにもかかわらず傍らのパラーシャに支えられていた。

 外套の裾は緋に染まっている。裾から染み出してわだかまる緋色は、階段の上がり口からずっと白い敷石の上を引き摺った跡として残っていた。

「つかいだてして悪かったな。…情けなくもこのザマだ」

「…階上(うえ)で、妖魔どもの骸の山を見た。あれは何だ。まるで呪…」

「打ち返すつもりだったが、標的をすり替えるのが精一杯だった。形代は食い尽くされたうえに、私はこの有り様だ。おまけに大事な剣を汚してしまうし…ったく、歳はとりたくないね」

 嘘だ。カーツは直感した。最初から打ち返すつもりなどなかったのだ。あれほどの数の妖魔、返せば使役した術者は必ず死ぬ。それが分かっていたから……


 しかしカーツは敢えて、重ねて追及することはしなかった。


「これか、剣というのは」

 妖魔の体液と、レクサールの血で禍々しく彩色された剣を差し出す。

「…そうだ」

 カーツは段を上がった。

「座ったままで失礼するよ」

 外套の隙間からレクサールが差し出した傷だらけの腕は、騎士として…軍人として傷を見慣れたカーツでさえ、正視に耐えないものだった。

 剣を受け取り、外套で刀身を拭う。

「この刀身に、見覚えはないか?」

 カーツは、回答までに数瞬を置いた。

「…俺の目に狂いがなければ、輝神剣ルクシード…あれに、酷似している」

「流石は…Knight of Light。カーツ、おまえに黙っていて悪かった。これは、私が長いこと失敗しては作り直していた輝神剣のレプリカ…その完成品だ」

「な…!」

「…魔法を修めるものならば一度は興味を持つ。私はなまじ剣を鍛えるから、余計にそうだったかも知れない…。お前に輝神剣を見せられてようやく完成した。

 砕星剣…アスタルテ。魔術的な力はともかく、刀剣としての威力はオリジナルとほぼ同じと考えてもらっていい。あれだけの数の妖魔を叩き切って、刀身は無傷だ。たいしたものだろう?…私が造った最後の剣…そして最強と自負できる代物だ。

 …そこでだ。これを彼女に渡す事について、輝神剣(オリジナル)の所有者たるお前の承認が欲しい」

 余計な詮索をする時間がないことは、カーツの目にも明らかだった。

「…言われるまでもない」

「ありがとう…と、そろそろ…来るか」

 レクサールは剣を鞘におさめ、座り直し、傍らの輝神剣をとった。

「…いろいろ面倒をかけたな、カーツ。礼といってはなんだが、先刻も言った《めったにみられないもの》を見せてやろう」

「何をする気だ、その傷で!」

「他ではみられん代物だぞ。…なんせ、死魔の退去呪法だ」

 カーツは息を飲んだ。

「…もうじき、死魔がやってくる。私は既にL-systemを封印したが、私はまだその訪いを受けるわけにはいかない」

「待てよ? お前たしか言ったよな、死魔の訪いはたとえ魔法司でもはね返すことはできないって!」

「完全に退けることはできない。…それはもう仕方がない。だが、一旦退去させて時間を稼ぐことはできる。それで十分だ」

「レクサール…」

「…それで十分だ」

 レクサールの声には、カーツを黙らせるだけのものがあった。

「ソーサラークラスの魔術でも死魔には歯がたたん。だが、輝神剣の輝神剣たる力を借りれば、死魔をも退かせることができる。見ておけ、カーツ」

 そして無言のうちに脇へさがるよう示す。刀剣としての輝神剣が役に立つのなら、カーツはレクサールの手からもぎ取ってでも輝神剣で死魔に立ち向かっただろう。だが、今は引き下がるしかなかった。







      ACT.8


 カーツは初めて、死魔の姿を見た。


 いや、見たような気がしただけだったのかも知れない。

 三対六枚の漆黒の翼をまとう、死の天使。それは古来より多くの絵のモティーフとされる死魔の姿である。それは決して醜怪なものではない。この世ならざる美しさは、畏怖を感じさせながらも強烈に魅きつける何かを持っていた──────


 レクサールが輝神剣を繰り出した一瞬、凄まじい閃光が大回廊に溢れた。


 あらかじめ防御陣を張っていた筈のパラーシャの身体が傾ぎ、ただ立っていただけのカーツに至っては壁に叩きつけられる。

 閃光のなかに浮かび上がる死の天使は、輝神剣の切っ先を喉元に突き付けられながらも微笑んでいた。…しかしそれは、哀れむような笑みであった。

 全身の痛みも忘れて、カーツはその微笑みに見とれた。…しかしそれは一瞬。閃光が収斂するとともにその姿は元どおり闇と静謐のなかへ消えて行く。

「…レクサール!」

 輝神剣が階段の白い敷石の上をはねる音に我にかえり、カーツは糸の切れた傀儡のように頽れるレクサールに駆け寄った。

「…死魔の長エズラフェル自らのお出迎えとは痛みいるね。お受けできないのが残念だ」

 いつもの軽口すら、青ざめた貌では強がりにしか聞こえない。パラーシャにもそれがわかるのか、感情を抑えようとする眉が苦しげに歪む。

「…カーツ、輝神剣は既にこの状態でもその威力を十分の一程度に抑えられている。そうして封じられた力を、私はこの扉の前の空間に展開し、固定した。再びこの空間に輝神剣を接触させない限り、何人たりともこの扉にふれることはできない。

 私がいなくなれば、あの噂が消えるか、ユートラップが侵略の危機から脱しない限り、この扉の向こうにあるものを利用しようとする奴は絶えないだろう。…だから、しばらくこの施設を封鎖する」

「…いなくなるって…おまえ!」

 レクサールは穏やかに首を横に振った。

「…私はまだ死ぬつもりはない。だが、見てのとおりもうこの身体は回復魔法も殆ど受け付けなくなっている。しかし、生き延びる方法が一つだけあるんだ」

「《昇華》…か…以前、お前が言っていた…」

「…それがどういうことなのか、正確には私にも理解っていない。異界の存在への遷位(シフト)…その時私が私でいられる保証は何ひとつない。…が、このまま輪廻の車に飲み込まれるか…もしくは消滅を待つくらいなら、私はそっちに賭ける」

 レクサールは輝神剣を拾い上げ、柄に白い石をはめ込んだ。ゆっくりと、輝神剣の刀身が隠されてゆく。

「…カーツ、この封印された輝神剣をお前に預ける。この石がはめ込んである限り、この剣には封印の鍵としての効力以上のものはないし、もうここは、あまり安全な保管場所ではなくなるだろう」

「…形見分けなぞ、御免だぞ」

「莫迦をいうな。私はこれで結構、命根性がきたないんだ。…死魔を追い返した以上、意地でも死ねんよ」

 この期に及んで、まだ微笑う。

 指先で小さな魔法陣を描き、呪文を呟く。レクサールの身体が、淡く発光を始める。

 レクサールは、脇に置いていた輝神剣のレプリカだというその剣をパラーシャに差し出した。

「さて、輝神剣のマスターに承認は頂いたことだし、アスタルテは君に預ける。

 だが、間違えないでほしい…私はこれで戦ってほしい訳じゃない。君自身を守るためだけに使ってくれ。今の私にはこんなことしかできない…私が君を守ることができれば良かったが…」

 初めて、苦しげな息を漏らす。何も言わず、パラーシャは既に首を擡げる力さえ残っていないレクサールの身体を抱き締めた。

「…………」

 パラーシャの耳元で、レクサールの唇が僅かに動いた。


 …何と、言ったのか…


 次の瞬間、レクサールを包む光が一瞬だけ膨れ上がった。魔法が発効したのだ。

「…レクサール!!」

 光に視覚を奪われ、カーツは立ち尽くした。ややあって、光が収斂する。

 あとには、パラーシャだけがいた。

 血で彩色された外套を抱き、肩を震わせて。


 ─────カーツは初めて、パラーシャが落涙するのを見た。






      ACT.9


「…あなたは…あなたというひとは…自分が一体何をしたか分かっているんですか…!」

 ナイジェルの声は震えていた。起きているのがやっとのクリスに対して、手を上げるようなことはしない。だが、なまじそんなことよりも痛みを感じさせるかのような双眸が、クリスを突き刺していた。

 結界を力ずくで破って遷移呪文をかけてきた威勢はすでにない。怒りと、悲しみと、そして戸惑いがナイジェルを動けなくしていた。

「…どうして…どうしてこんな…」

 クリスは、一切の弁解をしなかった。ただゆっくりと顔をあげ、たった一言。

「…殺すなら殺せ。私はそうされるだけのことをした」

「…………!」

 ナイジェルが、声にならない叫びを上げる。制御されない力は部屋の中で暴風となって渦巻き、四方の壁を吹き飛ばした。

 さすがに、家人が駆けつけた時…荒れ果てた室内に、一人無傷なクリスがいた。

「…い…いかがなされました!?」

「…大事ない。後片付けを頼む」

 クリスはようやくのことで立ち上がり、焼け焦げた壁に縋るようにして歩き始めた。

 羨ましい程に真っ直ぐな弟弟子…否、もはやそう呼ぶことは叶うまい…ナイジェルの、遷移呪文で姿を消す直前の表情が脳裏を掠めた。

 信じていたものに裏切られた憤怒。大切なものを喪った悲哀。それらが乾いていく涙痕と共に枯渇していく。

 いつか、クリス自身も鏡の中に見たもの。疾うに忘れ去ったはずのもの。…ナイジェル、お前はどう変わってゆくのか。誰も助けてはくれない。お前が変わらねば守っていけない。




 ──────変革の時代が、来る。

 強力な守護者を失った、巨大な力。自らの過失の行き着く先を、クリスは既に予見していた。









だいぶ重たくなってきました第4話。

あともう一息お付き合い頂ければ幸いです。

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