あなたの話し相手はどんな感情ですか?
「意識しないと話すことがままならないんです」
ぼんやりと口にした言葉。
人に気遣うことを辞めたのは一ヶ月ほど前。
私は誰かと話すことを常に怯えてる。
誰かと顔を合わせて、話した内容を後から反省して次の話の組み立て方を考える。
それも全員に向けて。
記憶できるだけの人をメモして、個別で対応策を考える。
複雑に見えるかもしれない。
けれど、やっていることは全員に共通して、『相手を理解してあげる』だけだ。
年齢、職業、休みの日、趣味、過去の話、友人関係や恋愛関係。
徐々にプライベートの話を引き出していく。
他人に話さないような内容を一つずつ興味を持って聞き出せば、勝手に相手は話してくれる。
興味を持つことは難しくない。
自分の考えるスピードを相手の歩調に合わせる。
脳のトルクを落として、ノートへと書き込むことで強い力で他人への興味を持続させる。
……えっと。
”相手の話をまとめて、結論を見失わないようにしてあげることが大切。”
ということになる。
普通に話していると、脱線することがほとんど。
雑談という言葉そのままに、話の筋が消えていく。
最初の話題の結論が出ないままに話が切り替わることが苦手だ。
結局、何を話したのかが記憶から抜けている。
おおまかにどんな話題が好きな人かは分かるけどね。
「それってすごく面倒じゃない?」
なんて、よく言われる。
けど、楽しくない訳ではない。
人が楽しそうに話をしている姿を見ると、やってよかったと思う気持ちもある。
大変だからこそ、そこまでやることで感謝されることもままある。
ただ、気がついたら自分のコミュニケーションというものは、自然体というものを見失っている。
体系化されて定型分となり、話すことは降って湧いてくるものではなく、常に一つの終着点を見据えている。
なにより、人と違うコミュニケーションを取っているという異質さに嫌気を催してしまう。
特別ではあるのかもしれない。
けれど、もう少し楽に話せという言葉が、私には重石になってしまうのだ。
「俺は人と話すことが好きだから」
随分と羨ましい言葉だ。
私だって嫌いじゃない。
けど、好きじゃない。
何も考えずに、いい加減に話せと言われれば、私はそもそも人と話したくない。
(……なんで?)
話す、というイメージにポジティブな感情が連想されない。
私にとって話すという言葉から、最初に枝葉が別れる単語は、怒りであった。
私の話し相手はずっと、常に怒っている。
「ここ変じゃない?」
「そこ直した方がいいんじゃないかな」
「あれはよくないよ」
「どう思ってるか分かる?」
「私が何について怒ってるか、分かる?」
それは古い記憶。
机を挟んで向かい合った義理の母親。
説教をしているのだけど、私には一体何について怒っているのかが理解できない。
その時に、決まって母親からの要求が、怒っている内容を当てることだった。
”謝る時には相手が何について怒っているのかを当てなくてはいけない。“
脳に染み付いた教育。
洗脳とでもいうべきか、相手が何に怒り、何に喜ぶのかを理解することを気付けば探るようになっていた。
それと同じくらいに、私は思う。
“私は人より劣っているのだから、相手の話をよく聞かなければいけない。”
「あんたは人と社会を舐めてる」
原初の言葉はこれだ。
(……舐めてちゃいけないのか?)
という思想が私の中央で常に渦巻いている。
人と社会を等身大に見ることは難しい。
なんというか、私も母も極端なのだ。
というより、母が典型的な“強迫観念”を常に持ち合わせていることを示唆していた。
思想の強要とは、古い時代の人間によく起きる。
多様化を目指す現代らしからぬ。
しかし令和だからこそ、SNSの普及によって目指すべき人間像が話し合われる昨今だとも考えられる。
ずっと、人間というのはこうあるべきだという考えは常にある。
それこそが宗教の本質だ。
一冊の本に書かれた、神様との約束を通した理想の人間を目指すこと。
平成とは、それが揺れ動く時代。
マスメディアの普及、とくにスマホを若い世代も持つことによって、おかしいと思う出来事の共有が生まれる。
暴力や、価値観の押し付けといった、肉体や精神あるいは両方の服従とでもいうべきか。
それを許さなくなる転換期こそが平成という時代であり、令和ではその考えが広まっている。
故に、多神教→一神教→多神教という歴史の流れが生まれつつある。
ポリコレなんかが特にその問題にうんたらかんたら。
……何の話だろう。脱線してしまった。
平成って時代にいた人間は、社会で共通となる“あるべき人間像”が定まっていない時代ともいえる。
成長中というべきか。
“良い大学に行って、安定した仕事に着く。”
“個性を大切にして、やりたいことを見つける。”
という、思想の変化。
もちろん、戦争という時代がある時代に多様性を受け入れてしまえば、それだけ伝達までの速度が下がるというのは納得している。
指揮官の言葉に一々反論をしていては、出来る命令も出来なくなってしまう。
一刻を争う戦争においてこれは致命的といえる。
政治の話をするつもりはない。
指示を待ってしまう人間が生まれる背景を遡ったすえに、“教育”があった。
すなわち、教育のモデルケースが変化した、という結論に落ち着かせたい。
母親もまた、古い家の人間だったのだ。
ただ、それに囚われている私はとても、乗り遅れた存在だと強く自己否定に苛まれている。
私の話し相手は多種多様に見えて、結局ところは母親であり、常日頃から怒られることに怯えているのだ。
あなたの話し相手は、どんな形をしていますか。




