外付けの自己判断
「明日学校来いよ」
家に来た親友に言われた、なにげない言葉。
クラスメイトに言われるだけなら嫌な顔になるものだが、関係性が違えば響きも変わる。
「しゃーなし、行きますか」
「家事しながらだと、やっぱきついか?」
憂太は一人暮らしで、朝起きたらまず洗濯から始める。
面倒な時は週末に済ますのだけど、油断していると着替えがなくなってしまう。
その辺りを理解した上での誘いだから、邪険にはしにくかった。
理解を得られたことに、多少は気持ちが軽くなる。
自己理解を他者に求めるなんて、間違っていたら否定するのかと自問する。
おそらく、自分は拓馬から見た自分に合わせるのかもしれない。
そこが分水嶺だと懸念する。
親友に心配させたくない、という、意地のような感情が出来上がれば、憂太はそもそも拓馬との交流を絶ってしまう。
そうすれば拓馬のためになる、俺なんかのために時間を使わせる気かよ。
なんて、バカバカしい面倒くささだ。
しかし侮れない。
意識して自分は、ダメな自分を曝け出す。
それで離れるなら、きっといいことなのだろう。
「ちゃんと面倒くさい! 世の中のお母さんすごい!」
「お前んとこの母ちゃんは別だったろ」
「ま、母さんではなかっただけでしょ」
お母さんを続けてる人はすごい。
けど、お母さんになれなかった人を責めるつもりもない。
自分のことでさえ面倒なのに、他人の子供の世話なんてやってられない。
「家政婦じゃないのよ私は、なんてね」
軽口のつもりで続けた真似だが、拓馬の反応は芳しくない。
失敗だったか。
振り切ったつもりを見せたが、そうすると心配されてしまうのだから、憂太はどう振る舞うべきか悩まされる。
「そんな顔するなよ、あれで良い人ではあったんだ」
「お前がフォローすることねぇって」
個人の幸せを優先して、母親になれなかったことを周囲から責められた女。
仕事が好きな人だった。自我が強い人だった。
二面性の強い女だった。父に逃げられた女だった。憂太にその分を当たる女だった。
共依存という言葉がよぎる。
嫌いにはなりきれない。文句は垂れるしすぐにヒスる。
けれど、立派な社会人だった。
……ちょっと言葉は強いくらいか。
「彼女も被害者だから。そのまま受け流した先が俺ってだけだよ」
そうでなくては、あんな罵詈雑言のレパートリーが豊富なものか。
自分が受けた傷は、そのまま彼女の傷だった。それだけで同情する余地はある。
肉体的な罰がないだけマシだったのだが。
気掛かりなのは、女に着いて行った義姉くらいか。彼女はそもそも選択肢がない。
それでも、義姉なりに適応している。
少なくとも、祖父母の家では愛されているのがよく分かる。
憂太はあの時間、あの場所が嫌いだった。
それは姉が愛されているが故に、父が逃げた故に。女が苦しむ故に。
壁は常にあった。
つくっていたのは憂太の方だろう。
相談するべきだったのかもしれないと少し思う。
それはない。俺はあの人たちを受け入れない。
そもそも、女が家を出た原因は彼らにある。その歪みの流れをつくった巣窟に、気を許して身を置くことは出来なかった。
拓馬が処置なしと目を背けた。
ここの複雑さを如何に語ろうとも、彼は共感できない。
幸せな家庭に身を置くことに、何が悪いことがあるものか。
不幸な体験を共有してくれとは思わない。
少なくとも、俺は幸せだ。
友人がいて、金に困らなくて、身体は自由に動く。
加点要素は高い。減点方式など知ったものか。
ただ、その後に告げられた言葉は刺さった。
「お前はどうやって受け流すんだよ」
「抱えるよ。誰かに渡してどうなるものでもない」
その辺りは復讐と同じ。
憎しみの連鎖は断ち切るに限る。
それに、悲しいだけが人生じゃない。
楽しいことに目を向ければ、案外気は晴れる。
「……流せてないから、学校に来ないんじゃねえの?」
「それを言われると痛い」
怠慢なだけだが、印象は大きく変わるようだ。
なんとなく面倒で、布団から立てなくなった。よくある話だが、父は精神の病を認めない。
あれは面倒がそのまま、病名として仕方のないものとしているだけ。
などと、よく言えたものだと思う。優秀に、厳しく躾けられた父の言葉。
反動から憂太のことを放任主義と称して育てているが、放置と何が違うのか。
間違えることを前提に試行錯誤する自分と、正しい歩き方を知っている男では、考え方のベースが違うのだ。
弱さを知らないことが、こんなにも羨ましい。
女が焦がれて、燃やされた。強い男の生き方は息子には酷く、汚らしく見えた。
狡い。
しかし世の中を回す強者の理論は、正論を持って弱者を突き刺す。
俺の考えが分からないと苦心する様子を見ることが、些細な仕返しだった。
「まあでも、明日は大丈夫だよ」
怪訝な顔をして拓馬が問い返す。
信用も信頼もないが、これだけは大丈夫だと確信を持てる。
「お前に会いに、学校に行くのさ」
目的のあるなしは違う。
行かなければどやされる。心配される。それは憂太の思うところではない。
それでも行けない日は?
足が止まって、怒られる未来に怯える日は?
憂太は世界に怯えてる。
女が世界で、女に怯えていた。
その傷は今、学校に向けられている。
人間関係の基本は家族関係にあるのではないかと愚行する。
なんて言い訳を考えるくらいには、憂太は人が嫌いになった。
余計なことをすれば怒られる。
気付けば、視線が向くのが、感情を向けられるのがストレスになった。
そう思うと、学校に行くのが酷く、酷く、ひどく。
面倒に思うようになった。
それが悪循環を生んでいて、中々に抜け出すことが難しい。
けれど、この親友にだけは怒られても良い。心配されてもいい。
矛盾しているが、信頼がある。
好きなのだ。変な意味ではないが、味方でい続けてくれる彼に怒られても、ちょっと笑える。
まあ、そんな彼だからこそ友達が多くて、一緒にいると視線を向けられてしまうのだけど、慣れるしかないのだろう。
せいぜい、俺を見捨てられないことを後悔するがいい。
小さな呪いが彼にかかる。
あるいは跳ね除けて、例えば彼女なんかが出来れば、彼は俺に使う時間が大きく減るのだろうけど。
憂太としても、それでいいと思う。
その時まではせいぜい、今の関係に甘えさせて欲しい。
すっかり緩くなったガラス製のティーポットに入った紅茶。
女が好きで、俺も好んだ時間の共有。女の残り香に懐かしさを感じながら、味の独特さに小さく笑う。
綺麗な女だったさ。ガラスを割ったような切れ味の、キレのある女だった。
「憂太がいねぇと、俺はテスト乗り切れねぇの」
「お前、なんか良い感じの女に頭いい奴いたろ?」
「うんまあ。でもあいつ、教えるの下手なんだよね」
「うーんカス野郎。他人に教えてもらっての言い草としては最悪なんだよな」
「人間が出来てねぇんだよ」
「それ、俺にいう?」