勉強
授業を苦痛に感じたことはない。
マックでハンバーガーを友人と囲む時間に、テストに苦しむ彼らを見ると、少しだけ救われる。
ずっとは息苦しい。解放されたい、という抑圧から来るものかもしれない。
俺だって勉強が楽しいと思うわけじゃない。ただ、それしかやることのない時間だから、つい筆を動かしてる。
勉強と授業はまた別なのだけど、要点はさほど変わらない。
俺はバカだから、一定の努力を必要とするんだけど、世の中にはその努力の仕方を知らない人もいる。
誰に習うものでもないから、個人差が出ることも当然なのだろう。
一概に、これが正しいといえる訳でもない。百通りの勉強方法の一つに過ぎない。
簡単に、身体で覚える。
頭に飲み込ませる作業というべきか。
頭と身体は繋がっているから、末端である手を使うことで頭に入れる。
見返さないノートにも教科書にも意味はない。
俺の場合、闇雲に見返すのが面倒だと思い始めたことがきっかけか。
付箋を貼るだとか、マーカーで線を引くだとか。
出来る限りに効率化させていく。
先生が言う、テストで頻出する場所に印を付けて、練習問題に考え方を補足する。
いちいち、練習問題の文章を眺めない。
特定の単語をいくつか見繕って、出題者が何を問いたいのかを出来るだけ短縮する。
問題形式と、疑問に思った文書に印を付ける。
後は読んで覚える。回答を予想する。気付けば練習問題の答えを覚えている。
それを繰り返す。
授業中に、どれだけ眠くても集中して起きてられるのは、そんな作業をするのに夢中で、睡魔と向き合う時間がないからだ。
自分の行動の空白の時間をつくってしまうと、ふと時が止まってしまう。
俺はきっと、言われたことをやるくらいにしか行動に熱意を見出せない。
考えて発展なんて出来ない。というか、授業って考えるものなのかな。ぼんやり手を動かしてたら時間なんてあっという間に溶ける。
先生が言っていることに何一つも理解をする必要はなくて、ただ書き写して色付けして目立たせる。
そんなふうに、自分が分かればそれでいい。はずなんだけど。
見て欲しい、という欲求を持ち合わせていた。ふと自分が振り返ったときのノートの数に小さく満足する。
決して多い訳ではないが、少ない数でもない。
それを人に全て見せるなんて無駄なことこの上ない。嬉しくはあるが、剥き出しで無骨過ぎる。
コミュニケーションの中で、出会った友人たちが分かりやすく理解できるように言葉を並べる。
理解されなかった記録と、理解された記録を状況分けして、少しずつ定石としていく。
やってることはこれだけだ。
それがどうも、真面目に見えると知ったのはつい最近の出来事である。