僕の不安
通学路にあるその大きな枝垂れ桜の木が好きだった。一般的な桜よりもさらに優美で、艶っぽいかんじがするからだと思う。
学校からの帰り道、その桜を見上げていくことが毎日の習慣だった。
ただ、その日だけはいつも通りでは無かった。
それは、あまりにも、そう、恐ろしくなるほどに美しい光景だった。
五月だと言うのに、空が思い出したかのように雪を降らしたのだ。降雪地帯として有名なその場所にとって、「五月の雪」そのものはさして珍しいことではない。
しかし、全体的に冬が早く終わり、すでに桜が満開になっているというのに雪が降るということは初めての経験だった。
燃えるように咲き誇る桜の木の周りをはらはらと、雪が舞っていく。
通常ならば、けして交わることのないものの融合に、その美しさに、自分は目も心も思考回路もすべて奪われていた。
身体が震えた。
怖かった。
その美しさは神々しくもあり、どこか狂気じみているようにも思えた。
あの時の感情を「畏れ」という言葉で表せることを知るのは、もっと後のことだ。
その触れることの許されないような神域に、一羽の鳥が飛んできた。
「雅人君―。まさと―」
不意に自分を呼ぶ声。
その声に連れられて家に戻ると、父と母の突然の死を知らされた。
「アップルパイは、歩きながら食べられる。そこが良い」
ロイが手に持っているアップルパイを見つめながら言う。
「アップルパイはデザートなのに意外に腹にたまる。そこが良い」
同じように手に持つアップルパイを見つめながら、自分の番をやり過ごす。
「ねぇ。さっきから何してるの?」
サラは少しむくれながらこっちを振り返った。今、サラの父親が残した武器がまだいくらか残っているというので、見せてもらいに離れの倉庫まで行こうとしている。
ちなみに、ロイと自分がやっているのはアップルパイの良い所を順番にあげていって、感謝を深めながらおいしく食べようという素晴らしいゲームだ。
「アップルパイの良い所を言っていって、おいしく食べようっていうことさ」
「もちろん、そんなことしなくてもおいしいですが、さらにおいしくできたら素敵じゃないですか」
本当にサラのアップルパイはおいしい。
最初は喜んで食べていた。
それでも一日に三回。4日も食べればいくらなんでも飽きる。
他の食べ物は、サラが食べる分以外は無いそうだ。
「ふうん。そのわりには二人ともさっきから全然食べてない気がするけど」
そう言いながらサラはバターロールを口に運ぶ。
「味わって食べているんですよ」
ロイはサラのバターロールをじっと見つめている。
案内された倉庫には、思った以上に武器がたくさんあった。
正直ほとんど盗賊に奪われたのでないかと思っていたのでかなり意外だった。
「盗賊達によく奪われずにこれほどの武器がよく残ってますね」
ロイが素直に疑問を口にする。
「これでもかなり少なくなったのよ。目ぼしいものはほとんど取られちゃった。でもお父さんの武器は扱いが難しいものが多かったから、そのせいもあるのかもしれない。残っているものもそこらへんのとは比べ物にならないくらいの上物よ。まぁ、つかえればの話だけど…でも金髪の悪魔さんと異世界人のマサトなら何かあるかもね。というかまだアップルパイもってるの?」
何か言い訳をしようと思いロイの顔を見たが、ロイはそのつもりはないようだった。
「『黒龍の片翼』はやはり取られてしまったのですか」
なんともいかにもな名前。ザ・ファンタジーの世界といった感じだ。
「『黒龍の片翼』って?」
自分が質問し、ロイが説明する。この役割分担を実はお互い意外に気に入っている。
「彼女の父親が残した名作中の名作。身の丈ほどの大きさ、石をも割る頑丈さと切れ味。そうであるにも関わらず、まるで羽のように軽い。先程も彼女が言っていましたが、扱いにくい武器を多くつくるなかで、この大剣だけは例え素人でも持つだけで、万力を手に入れると言われていました。まぁ大方、盗賊の頭が持っているのでしょう」
もし、本当にそんな代物ならそいつはとんでもない物なのではないだろうか。
それが腕利きの盗賊の手に渡ったとなれば尚更だ。
サラはひとつの武器の前にじっと立っている。サラに隠れてそれがどんな武器なのか見えないが、何か思い入れでもあるのだろうか、ただそこに立っているだけなのか。
ただ、無性にその見えない武器が気になった。
「勝てるの?」
サラがくるりとこちらを振り返って言った。
短い言葉。その中に秘められた多くの意味。全部汲み取るのは、少し難しい。
どう答えたものかと思いロイに目を向ける…
ロイは持っていたアップルパイを丸々口に詰め込んでリスのように頬を膨らませながら、ムシャムシャと口を動かしている最中だった。
唖然とそれを見つめている間に、ロイはゴクリと音を立ててそれを呑み込んだ。
「もう、報酬を先に頂いています」
指に付いたクリームを舐めながらロイが答えた。
短い言葉。その中に秘められている意味は…けして多くは無い。だが、わかりやすかった。
「そっか。そうだよね。前払いしたんだからしっかり働いてもらわないとね」
うんうん、と頷きながらサラは言う。
サラは微笑んでいた。まるで不安を噛み殺すように、呑み込むように。
いくら気丈に振舞ってはいても怖いのだろう。
当然だ。盗賊が怖くない少女なんているわけがない。
―――恐怖を認めることだ―――
不意に叔父さんの言葉を思い出す。
「恐怖。焦り。不安。そういうものに対応するために、するべきことは落ち着こうとすることじゃない。気持ちを静めるようとすればするほど、余計に深みにはまる。まず、するべきなのは認めることだ。自分がビビってるってな。自分がどうしようものなくパニクってるって自覚を持つんだよ。それに立ち向かうんじゃなくて、受け入れろ。そうすれば地に足がつく。不思議と克服できるぞ」
目の前にいる少女は恐怖に立ち向かっている。それをやめさせようとは思わなかった。
彼女がそれを乗り越える必要なんてない。自分たちが、盗賊を倒せばいい。
そう倒せば…
認めなければならないのだろう…
ここにきて、自分が脅えていることに。恐怖していることに。
人を殺すことに。
それはこの世界に来ていつしか覚悟をしていたはずのことだった。殺さなければ殺されるのは自分。だからやらなければならない。頭ではわかっている。
しかし、まだこの恐怖を、不安を、うまく受け入れることができていなかった。
「どうしたの?マサト。というかいつまでアップルパイ持ってるつもり?」
サラの言葉に思考を遮られる。この場合は遮ってもらって助かったのだろう。
手に持っていたアップルパイをロイと同じように口に詰め込んだ。
「なんでそう仇のように食べるかなぁ。まぁいいけど」
むくれているサラの機嫌をとろうかとも思ったが、ロイが我、関せずといったかんじで煙草をふかしながら武器鑑賞に浸っているので、自分もそうすることにした。
少し前から気になっていたサラの後ろに隠れている武器が見える所に行く。
引き寄せられたと言っても良いくらいにそれが気になっていたのだが、その理由はすぐにわかった。
この世界の武器は皆、基本的に大きい。ロイによると魔物と戦うためには小さい武器では致命傷を負わせるのが難しいかららしい。唯一の例外と言えば銃があるが、元の世界の鉛玉をぶっ放すものではなく、魔力を圧縮し発射するもののようで、威力は使う人間次第というかなり不安定なものだ。
ただ、この武器は明らかに他のものより小さい…というより元の世界の基準のものだ。
いや、問題は大きさなどでは無い。
それは…
それはまさしく「刀」だった。
しかも鍔も装飾もない。白鞘の反りの少ない直刀。
いわゆる任侠映画などによく出てくるもので、サラシを巻いた渋めのおっさんが持っている、あれ。こういうのは脇差っていうんだっけか…いやちょっと長い気がするから長脇差かな?
認めなければならないのだろう…
テンパっている。
えっと…自分が焦っていることをまず受け入れる云々等々…
おじさんの名言も台無しだ。
「これは…その、これもお父さんが造った物なの?」
少し硬くなった気がした首を動かしてサラの方を向いた。
あぁ、これね。といったかんじでサラが話す。
「これはお父さんの唯一の駄作と呼ばれてるものよ」
「駄作?」
「うん。まずちっちゃいのに、普通の武器の二倍くらい重いの。今は大きくて軽い物を作るのが主流だから。まるで真逆なんだよね。まぁその分『黒龍の片翼』より頑丈なんだってお父さんが言ってた」
「じゃぁ、その頑丈さが売りになるんじゃないのか?大きくて軽い物が主流なら脆い物も多いだろうし」
なにも唯一の『駄作』とまで呼ばれるほどでは、ないのではないだろうか。
「まぁ、そうなんだよね。お父さんの売りは武器の頑丈さだったから。でも…」
「でも?」
正直な話。この武器を使いたいと思っていた。
かつての勇者が極道に似ていると言った世界に入って、手に入れる武器が拳銃と長脇差なんて何かの縁があるとしか思えなかったからだ。
おそらく異世界人の自分なら重さも、さほど問題ではないはず。
「これ、剣が鞘から抜けないんだよね。」
認めなければならないのだろう…
自分がテンパっていることを。