9章 友情のものさし
ここで時間は少し巻き戻る。梶樹が墓参りをした盆休みから約二ヶ月前の梅雨の季節。雨の晴れ間の日のことだった。
その報せは実に唐突だった。
「午前、四時十分ーー、ご臨終です」
担当医の告げた宣告はナイフのように鋭く、残酷なものだった。
都内某所の病院の一室、そこで繭愛の父、天聖龍騎こと弓鳴龍騎は一生を終えた。間違いなく悔いはあったろう。何せまだ娘は十一歳、まだまだ見守りたいと願ったはずだ。
死因は咽頭性悪性腫瘍、つまりは咽頭癌だった。直接的な死因は呼吸困難による酸素不足から引きおこされる窒息死ではあるもののノドの癌が主だった原因なのは違いない。
梶樹が報せを耳にしたのはその日の夕方、帰宅してからだった。……体の具合が優れないとは聞いていたものの、まさか死至るような病とは一片も想像していなかった。
龍騎は親を失くした梶樹にとっては何かと忙しない祖父に代わって数え切れないほど世話になった人で、かくいう繭愛も母である天聖雪音以上に尊敬していたほどの人徳者だった。
酒や煙草といったものとは一切無縁の人だったから、病気は本当に運命の悪戯なのだろう。
けれども梶樹はそんな神様を、呪った。ご近所さんの間でも"良い人"で有名で何かと自分の気もかけてくれた優しいお父さん。そんな人が道半ばで亡くなってしまうなんて運命の神様はなんと意地が悪いのだろう。
繭愛はその日、梶樹に添い寝をねだった。いや、正確には一週間ほどそれが続いた。母親の雪音も、梶樹ならと許可したものだから断れない。
家族を失う体験を身をもって知っているからこそ、繭愛の変化は梶樹に容易に見てとれた。生気が消えた瞳はあの葬儀の日のような力はなく、冗談抜きで死んだ魚のようで銀色に輝く髪もどこか萎れて垂れ下がり、極め付けは寝返りでしがみつかれて龍騎の名を呼ばれたときには、自分も泣きそうになったくらいである。
「繭……」
ちょうど学校の昼休みの時間、梶樹は曇りひとつない晴天のもとで悶々としていた。昼食を終えた梶樹が向かったのは、屋上。大抵の校舎は立ち入り禁止にするのだろうが田舎ということもあってか分厚いフェンスに囲まれたこの場所は生徒に一般開放されていて、人気スポットでもあった。
そんな開放感溢れるこの場所で、梶樹は繭愛の父龍騎が残した遺書をポケットから取り出した。
亡くなった報告を聞いたとき、自分にも手紙を遺していると雪音から渡されたときは驚いたが……
その中身はこの通りだった。
梶樹くん。これを読んでいるということは、私はもう君とは会えないだろう。だから、ここでしかいえないことを君に託す。
あの葬儀の日、繭愛が君を慰めていたのに私はすごく驚いたんだよ?今まで言ってはなかったが、繭愛は……酷い虐めを受けていてね。あの日も僕が無理矢理連れ出したようなものだったんだ。
だから……本当に不思議だった。何故繭愛が君にあんなことをしたのか。もし聞ける機会があるあるなら、本人に聞いてみてくれ。
でも、これだけは分かる。繭愛が君を信頼していることを。あの子は君と出会って、今まで見たことないくらい幸せな顔をするようになった。……だから、もし、君が私たちに恩を返したいと思うなら、どうかあの子を、繭愛を支えてやって欲しい。不肖な父親だったかもしれないが、娘の枷にならないことを祈っている。身体を大事にね。
天聖龍騎
最後まで読み終えた梶樹は、手紙を綺麗に折りたたむとコンクリートの床に思いきり拳を叩きつけた。
「なんでっ……!どうして……っ!……なんで龍騎さんが死ななきゃならないんだよ……!あんなに娘を想ってた優しい人がっ……どうして……!!」
頬から溢れる雫が、血が滲んだ拳に垂れ落ちた。本来なら周りに数人いるところだが、今日はもう誰も屋上には残っていない。何度も叩きつけた手が悲鳴を上げている。けれど、そんなことはどうだってよかった。
この世界には、神も仏もない。
運命の神様は時に現実という壁にぶち当たらせてくることがあるが、あんまりだ。誰かれ分け隔てなく接した龍騎が、何故こんなに早く亡くならなければならないのか。
「くそっ……!くっそおおお!」
それからしばらく、梶樹は屋上で見えない誰かに拳を振るい続けた。けれど、それが誰に向かってなのかは梶樹にも分からなかった。
ーー同時刻。東北、仙台市。
「かったりいな……ったく、運にも見捨てられちまったか」
ぼさぼさ髪で不健康な肌の男が駅のプラットフォームで缶コーヒーを口にしながら、外れた馬券をくず籠に放りなげた。
この男ーー、七草卓は一ヶ月ほど前、勤め先の工場が大手メーカーに買収されたために強制解雇を食らっていた。ならばと一発逆転を夢見て競馬に手を出してみたはいいものの全く勝てず、むしろ散財の原因となっていた。
「神サマなんて、いるようなもんじゃねえな」
もともと卓は運に恵まれていなかった。というのも、高校時代に親が自己破産で蒸発してしまい、気づいたときには夜逃げのあと。
ついにはガラの悪い借金取りまでやってくる始末で成績は良いほうだったにも関わらず、大学を諦め、借りたアパートの近くにある部品工場に非正規入社するしかなかった。
その工場も先月の買収により自然解体。金属臭く、良い職場ではなかったが、それでも十年以上勤めあげれば情も湧く。
そんな彼もとうとう無職の身。借りたアパートはとっくに売り払い、全てをかけて挑んだ競馬もビギナーズラックすらなく惨敗。まさに運に見放された男だった。
缶コーヒーを飲み干した卓はくたびれた革の財布を取り出し、中身を確認する。手持ちの金はあと十万円程度。悲しいかな、これが卓に残された全財産だった。
「ちっ、我ながらシケてやがる。……あーあ、どっかタダで泊めてくれるとこねえかな」
悪態をつきながらスマホを取り出し、連絡とれる奴は、と画面をスクロールする。娯楽らしい娯楽もない寂しいホーム画面だったが、ふとLINEの通知が異様に溜まっていることに気づいた。
訝しげに開いてみると、溜まっていたのは一度だけ開いた高校の同窓会の折に作成した元クラスメイトとのグループチャットだった。ーーその通知数、九百以上。
「なんだ、なんだ。しばらく見なかったうちにこんな溜まってんのかよ」
もともと恋人など無縁の身。というかそもそもスマホを開くことなどテレビ代わりのニュースを見るときくらいなもので、ロクに使ってはいなかった。
ため息を吐きながら履歴をひとつひとつ見ていくと、思わぬことが分かった。それによると、同級生の一人が病気で亡くなってしまい、これから葬儀へ向かうとのことだった。
「龍騎……お前、ざまぁねぇな。俺からなんもかんも持ってったくせによぉ……」
ぷつっとスマホの電源を切ると卓はプラットフォームを出てすぐ横の券売機へと向かっていった。
「ま、同じ部活した仲だしな。死に顔くらい見納めてやっか」
悪態をたれながら、卓はLINEにあった県へ行くための新幹線をスマホで検索した。
一方、天聖家。唐突に亭主を失った天聖雪音は、龍騎の葬儀のために多忙に追われていた。机に盛られた請求書類の山に雪音は大きくため息をつく。
葬儀に参列するはずの親族は……来ない。というのもきちんとした理由がある。
モスクワの名家に生まれた雪音は日本と北欧のハーフで、幼少はそちらで過ごしたのだが、父方に似たためかあまり北欧らしさはなかった。
ならばと高校進学の際、父が通っていた有名都立校に通うことになり、彼女は海を超えた。
日本語を上手く話せない彼女に救いの手を差し伸べたのは、後に夫となるひとつ上の弓鳴龍騎だった。何人もの誘いや告白もあったが結局彼女が選んだのは、初めての相手である龍騎だった。
……だが、結婚は許されなかった。日本人である父はともかく母方、つまりはモスクワの家は由緒正しい貴族の末裔であり古い時代の習慣を守り続けているためか雪音の父のような大企業の御曹司ならともかく、特に秀でた家柄でもない龍騎はそもそも認められないとのことで婚約の話はとりつく島もなく断固拒否された。
これを受けて日本方の父は半ば強引に駆け落ちを勧め、雪音を家から名前を消すということで解決させた。
……その日本方の父も亡くなり、龍騎はもともと孤児だったために家族と呼べるのはもう娘である繭愛しか残っていなかった。
「龍騎さん……まだ早いわよ。繭愛の成長した姿、一緒に見守るって約束したじゃない……!」
と、こんな調子だったため繭愛はより強く梶樹を頼るようになった。この頃の繭愛は夜泣きが多く、一晩中梶樹がなだめたときも一回や二回ではない。
そして、各々が想いを抱えたままとうとう龍騎の葬儀が始まろうとしていた。
幸い日曜に式が決定したため、梶樹は祖父母と共に式に参列することとなった。肝心の雪音だが少しは心の数が癒えたようで同級生らしい何人かとおしゃべりに華を咲かせている。
それがつまらないのか、繭愛は早朝から梶樹といっしょにいた。全員が黒の喪服を着ている中で学校制服で参列する学生は少なくほとんどが龍騎、雪音の中高時代の同級生、その連れ子だった。
「繭、……行けるか?」
「……ん、…………わかってる。でも……」
長い沈黙。けれど、同じ思いをした梶樹はそれを静かに、見守った。繋がった二人の手が夏の暑さにやられてどんどん熱を帯びてくる。
けれど、梶樹は離そうとはしなかった。……離してまったら、繭愛がどこかへ行ってしまうような気がしたからだ。
そうしている間にチェックインが済み、控え室へ向かおうとしたときだった。
「ふぃ〜。くそあっついな!やれやれ、なんとか間に合ったか……」
その男は首にタオルを巻き、ぼろぼろのジャンパーを身に纏った異様な格好だった。まるで誰かと喧嘩でもしたかのように。
(誰だ?あの人……)
そんな梶樹の疑問に答えるように、男の存在に気づいた雪音がおしゃべりの輪を慌てて抜けて出てきた。
「卓、くん?卓くんなの……?
「よぉ、雪音。……久しぶりだな、おい」
卓、と呼ばれた男は雪音の顔を見るとにたぁ、と気味の悪い笑みを嘲るように浮かべた。