7章 邂逅
あれは、猛暑厳しい夏のこと。水影梶樹は唐突に訪れた運命に身を投じることとなる。
「父さん、母さん、久しぶり」
色褪せた灰色の墓標の前で、梶樹は手を合わせながらとうにいない親に言葉を紡ぐ。……二年前、梶樹が小学校を卒業したまだ寒い日々が続く春のこと。卒業式の帰り道のことだった。
普段から利用している何気ない交差点。いつも通る道、そう。いつも通る道で起こった出来事だった。
急ぎで帰りたかった梶樹は両親より先に進んでいたが横断歩道を見てはっとした。
ーー猫。
騒音けたたましい道路のど真ん中に小さな猫が体を丸めて、そこにいた。黒、茶、白の典型的な三毛猫である程度距離があるこの歩道からでもそれがまだ生まれたばかりの子猫だということが分かった。
助けなきゃーー!
梶樹の身体は考えるより先に横断歩道の中へと踊り出ていた。幸いに青信号、戻るか向こう側へ走れば小学生の梶樹でも十分に間に合う距離だ、すぐに動けば助けられる。
だが、そうはならなかった。
「ーーー!?」
目の前迫り来る、一台の車。
避けられない。梶樹が気づいたときにはすでに手を伸ばせば届くほど近くまで迫っていた。
あまりの迫力に目を瞑った梶樹。とてつもなく大きな衝撃がやってくるだろうと本能的に身体を縮めた、その瞬間。
…………え?
かくして衝撃は到来した。ただし、それは梶樹が思っていたものとは違う形で、だ。
胃がひっくり返るような嫌悪感。ものすごい力で梶樹の身体は突き飛ばされた。三毛猫を両手で抱えながら、梶樹は突き飛ばした当人の顔を、見た。
(父さん、母さん……!)
横断歩道に侵入し梶樹を突き飛ばしたのは、最愛の両親だった。なんで、どうして、と梶樹が言葉を発するより早く、車が二人を跳ね飛ばした。
言葉にならない、叫び。けれど突き飛ばされた梶樹は歩行者を守るガードレールに激突してしまう。
お願い、死なないでーー!
子供ながらに親の安否を祈ったが、激突の衝撃で梶樹は意識を失ってしまった。
その後二人は亡くなった、と聞かされた。最初に目覚めたのは一面が真っ白なベッド。周りを知らない大人達に囲まれていて、理解不能の状況に混乱していた梶樹を救ったのは隣県に住む祖父だった。有無を言わさぬ形相で他の大人を撤退させると、記者やらのヤジ馬だから気にしなくていいといった。
祖父から事の一部始終を聞かされたときには、梶樹はもう声を出すことができなかった。
横断歩道に侵入してきた車は、近くの銀行で起きた強盗事件の犯人のもので、ぶつかって速度が落ちたためにその場で取り押さえられたということだった。両親のほうは余程のスピードで衝突したのだろう、即死だったという。
先程いた大人達は事件をニュースのタネにする記者の他にも当事者である梶樹に事情聴取するために来ていた警察官も含まれていたようで、梶樹が一部始終を聴き終わったときには祖父が何人もの集団に迫られているのが見えた。
幸いにも梶樹は意識を失ったものの軽傷、三毛猫のほうも祖母が連れてきてくれたが健康に問題はなく良好。梶樹の怪我が治り次第、いつでも退院できることとなった。
「おめぇは悪くねぇ。命ってのは誰もかれもひとつしかねぇもんだ。それを守ることをおてんとさんがどうして責めようか」
祖父も祖母も何度も梶樹を慰めてくれた。梶樹が喜ぶようにと、差し入れに菓子や玩具も持ってきてくれた。
……けれど、二人が、両親が戻ってくることは、ない。病院にいる間で梶樹は泣き続けていた。喪失、絶望、嫌悪、停滞。まるで色彩を失ったようなモノクロの世界の中で、梶樹は自分を攻め続けた。
僕が、悪いんだ。あんなことしなければーーー父さんと母さんが死ぬ必要なんてなかったのに。
どうしようもない後悔と懺悔。ときには看護師さんが隣のナースコールを受けて飛んでくるほど、嗚咽と啜る声が大きい日もあった。
退院するときの梶樹の表情は泣きつかれた亡者そのものだったという。
その後、梶樹は祖父母の家で養われることになり両親が残した遺産は全て梶樹の進学費用に当てられることになった。もともと一人息子だった梶樹、それもまだたった十二歳という若さで家族を失った梶樹に世間は同情の念を向けた。
贈り物がいくつも届けられたが、梶樹の心は壊れたままでそれを受け取ろうとは思わなかった。
それから数週間経った日、梶樹の実家近くの葬儀場で二人の葬儀が行われようとしていた。
「嫌だ!葬式なんて……絶対に嫌だ!」
「カジキ、仕方ねぇんだ。国の取り決めで遺体は火葬して葬らなきゃいけなくってな」
「でもっ……父さんも母さんも何も悪くないのに、僕が……僕だけが生き残って……」
「カジキちゃん、気持ちは婆ちゃんも同じよ。こんなの、誰が納得できるって話じゃない。あんな勝手な人達に関係ない二人が巻き込まれてーー
祖母の言葉を遮るように、梶樹は声を荒げた。
「違う!僕が悪いんだ……周りを見てなかったから、猫を助けにいったから……!」
「カジキ、おめぇ……」
何か声をかけようとする祖父をも振り切って、梶樹はものすごい勢いでこう言い放つ。
「葬式なんか認めないっ……!父さんと母さんが戻って来ないなんて……信じるもんか!!」
想いを吐き出した梶樹はだあっと外へ駆け出した。祖母が止める声が聞こえた気がしたが、構わず振り切った。
その日は生憎の悪天候で、雲で敷き詰められた空はまるで梶樹の心を表しているかのようにどんよりと黒い。梶樹が向かったのは、三人で過ごした自宅だった。
どしゃ降りの雨は容赦なく梶樹の身体を叩きつけ、次第に着ていた制服も肌にひっつき嫌な感覚が全身を満たす。まだ春にもなっていない季節の変わり目であるこの時期の雨は否応なく体温を下げていった。
「父さん、母さん……」
着いた家の前で、梶樹は庭にあるいくつものプランターに目を向けた。マリーゴールド、アマリリス、グラジオラス、ラナンキュラス。色とりどりの花がそこだけ別世界のように綺麗に咲いている。
母は花の世話が好きだった。よくホームセンターに行って季節の花を買い上げて、庭のプランターに彩りをつけていたのを覚えている。その中でも特に気に入っていたのが、庭の端に鎮座している藤の花の植木鉢だった。
藤の花は英訳でウィステリアっていうのよ。花言葉は「優しさ」、「歓迎」、「溺れるような恋」、そして……「決して離れない」。梶樹、私はねあなたには藤の花のような子に育って欲しいの。
水やりをしていたとき、母はよくそんなことを口にしていた。だから、梶樹も自然とこの紫色の花が好きになった。
「………………………………………………、」
今度はプランターのすぐ脇、整備された芝生に転がる白いボールに梶樹は目線を移した。
父の仕事は詳しく知らなかったが職業柄なのか、よくゴルフのパター練習を休日は勤しんでいた。それは自宅の庭に芝生を作るほどの熱中っぷりだった。
いいか、梶樹。パターはただ振っただけじゃカップには入らない。球の位置、風の向き、力の入れ方と色々な要素が合わさって初めて綺麗なパターインができるんだ。お前はそれを気づいてくれる人になってくれると、父さんは嬉しいよ
練習している父の姿が、今も緑の芝生にうっすらと見えた気がする。失敗して、プランターにぶつかって、母さんに叱られて。
そんな日常も、もうここにはない。あの日々が帰ってくることは二度と、ない。
誰もいない自宅が、残酷なまでにそれを決定づける。親を失くす。これほどの不幸が果たして今の梶樹少年にあるのだろうか。
張り裂けそうな胸を押さえながら、梶樹はその場にうずくまった。何度流したか分からない涙は止む気配のない雨にかき消されてしまってもう分からない。
これから自分は何を持って生きていけばいいのだろう。もういっそ共々死んでしまった方が何も残らずにいいのではないかとも思った。
そのとき、ふと身体を打ち付ける雨が弱くなったような気がした。いや、違う。何かに遮られているのだろう、雨がぶつかって反射する音が耳に残る。
「おにいちゃん、大丈夫?」
可愛いらしい声。けれど 聞きなれない声だった。
「誰……?」
その声の主を確かめるように、梶樹は涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔を見上げた。
そこにいたのはーー。
傘を持った、可愛いらしい少女。年は梶樹より少し下だろうか、黒の制服に胸の上部につけられたリボン、近くの有名な小学校の制服だった。
日本人離れした、銀の髪。焔を閉じ込めたように紅い瞳。幼いのに整った顔立ちと白い肌。こんなときだったが思わず、梶樹はその少女に魅入ってしまった。
「君、、はーー」
なんとか声を絞り出すと少女は心配そうに、手に持った傘に自分と梶樹が入るように近づいた。
「わたし、繭愛っていうの。おにいちゃんはどうして泣いてるの?」
これが、梶樹と繭愛の最初の出逢いだった。