57章 堕つる泡
意識がまどろみの中で、上下前後左右、縦横無尽に揺れている。泡沫がいくつも浮かぶ海のような、青い世界。その世界で梶樹は、ありもしないであろう煌びやかに光る一筋の閃光に手を伸ばした。
(なんだ……あれ)
分かる。あそこから透き通るような力が湧き出している。まるで、もうひとつ太陽が昇ったかのように明るかった。
梶樹の身体は宇宙空間にいるみたいに、ぷかぷかと浮遊状態にある。手足を動かして思い通りに動くのかどうかさえ怪しいものだ。
しかし、その明かりがだんだんと遠ざかっていくのが見えた。
青い世界が底から少しずつ蒼く、藍く、黒く染まっていく。光を失った深海の世界は、きっと暗いのだろう。だが、それは自然現象の一部。光が届かない世界ーー。では、道標を失った世界で、果たして何が見えるのか。
(待ってくれ……行くな……行くな……!)
縋るように手を伸ばし、全身の力でもって泳いでみせる。思った以上に軽く、体は動いてくれた。
だが光に追いつくには及ばない。時が経つにつれ、その距離は絶望的なまでに突き離される。底から這い上がる闇が、梶樹を喰らおうと追いかけてくる。
やがて、それが我が身にまとわりつくと、引き込むように飲み込みはじめた。それまで動いていた体に、力という力が入らなくなり、気力さえも抜けていく。
(やめろ……!俺は……お前を求めたわけじゃない!俺が……俺が求めたのは……!)
黒い闇の塊が、梶樹の身体を喰らい尽くした。
それがまるで至福の馳走だったように、闇は歓喜の声をあげたように見えた。
「繭っ……!繭……!」
「おにぃ、どうしちゃったの……!?」
怯えるように繭愛を抱く梶樹の体からは、すさまじい汗が吹き出していた。吐く息も荒く、とても只事とは思えない有様だった。
つい先程、普段通り繭愛が先に目覚めたのはよかったのが、起きて離れた途端に梶樹の様子が急変したのだ。
まるで何かに憑かれたように苦しむ梶樹。うわごとで何度も何度も、繭愛を呼び求めている。
「おにぃ……」
密着しながらも、額についた汗をタオルで拭き取る繭愛は、不安気な表情を浮かべていた。
せめて気休めになるようにと背を撫でるが、苦悶に満ちた梶樹の様は変わらない。
と、瞬間。
爆ぜるようにして梶樹の眼が開いた。
「はぁっ……!はぁ……!はぁ……」
「おにぃ!」
どこか遠くを見つめるような目線に、繭愛は呼び戻したい一心で声をかけた。
次第にぼやけた視界がクリアになり、瞳孔のピントが合ってくると、梶樹は目の前に、自分を呼びかける少女がいることに気づいた。
「大丈夫……?」
泣きそうな顔をする繭愛に、申し訳なさがたった。しかし、それをかける余力は、残っていなかった。
「悪夢……見てたらしい。光が、遠ざかってく夢だ……」
「だいぶうなされてたよ、おにぃ……」
「……心配かけてごめんな。もう、平気だから」
あそこから戻れたことになにより安堵した。引きずり込まれていたらーーどうなっていたのか。
危険だと理解しつつも、興味を抱かずにはいられなかった。
「おはよー、カゲっち」
「おはようです。早いですね、魅緒さん」
「まーね。……昨晩は随分と楽しんだみたいで、なによりなにより」
「なっ……!?」
まさか、昨日の件を知っているのか。部屋には繭愛と二人きりで、隣の部屋も壁は薄いほうではないのに。
「あ……お姉さん……」
「あみゅたんもかー。朝から仲いいねー、お二人さん」
「……寝覚めはだいぶ悪かったですけど」
「えー?あんなにアツイ夜だったのに?それはナシでしょ」
「……お姉さん?」
「ふふふ。お姉さんに隠しごとはできないのだー」
訝しげに睨む梶樹を一蹴し、魅緒はさっさと冷蔵庫から麦茶のポッドを取り出した。
これが、魅緒が仕掛けた策である。
「はい、二人とも」
氷がたっぷり浮かんだガラスコップを差し出す、怪しいほどのにこにこ顔に、繭愛はそれとなく疑念を持った。
ダイニングテーブルに向かいあうように座る三人。窓らしい窓もないが、空気だけは朝特有の澄んだものになっているのが不思議だった。
それに、どこかしらか小鳥の鳴き声も聞こえるような気がする。
と、繭愛の応えるかのように、魅緒の声が頭に響いた。《以心伝心》を使ったのだろう、電磁波を放出していない繭愛のタイミングを見計らったらしい。
『あみゅたんが悪いんだよー?アタシに最後まで見せてくれなかったから』
『お姉さん……もしかして、あのあともみてた……?』
『もち。あみゅたんのキョトン顔、すっごいきゅんきゅんきちゃった。アタシが触ったときよりいい反応しちゃうんだもん、妬いちゃう』
衝撃の発覚に、繭愛の羞恥メーターがぐんと引き上がった。本当に、全部見ていたようだ。でなければ、あのようなことが起きていたなど、知っていようはずがない。
『ど、どうして……?わ、わわ、わたし、途中からお姉さんとの繋がり、切ったのに……!?』
『うんうん。だからさ、カゲっちの視点から見てたんだ。あみゅたんが頑張ってぎゅーってやるとこ』
そう。電磁波で通信が拒否される繭愛ではなく、梶樹の方に回路を繋ぎ、見ていたのだ。電波塔自体は魅緒が中継するため喋らなければ、気づかれない。
恥ずかしさで茹でタコのように真っ赤に染まった繭愛は、隠すように梶樹の腕にしがみついた。
「……?繭、どうした?」
「い、いま……あんまり、みないで」
「ごめんって。次はもうしないからさ」
「魅緒さん、やっぱり何か……」
「カゲっち」
言いかけた言葉が、魅緒の呼び止めによって遮られた。いつになく、真剣な様子に、思わず気圧される。
「浮気しちゃダメだぞ?」
「……はい?」
いっている意味が理解できなかった。いや、そもそもなんの脈絡もない会話をするほど、言語力が乏しいわけでもないであろう魅緒が口走るのに困惑した。
(浮気、とは……)
脳天にクエスチョンマークを浮かべる梶樹と、いやいやぶんぶん振り払うように身を捩る繭愛をよそに、魅緒は話題を持ちかけた。
「ところでさ、気づいた?なんかゲームのルールが変わるらしいんだよね」




