55章 心の悪魔
繭愛の気持ちに答えたい自分と、今の関係を壊したくない自分。二つの境界線で、梶樹は揺れた。
重なっていたはずの心が、解けかけているような気がして、その事実に忌避感を覚えた。
ーーこのままじゃ、駄目だーー
なら、どうしたらいい?
胸に落ちる涙を拾い、慰めの言葉をかけたところで、何も変わらない。これは、繭愛ではなく梶樹の問題なのだから。
と、そのとき。
繭愛が手をつき、起きあがろうとした。ひとしきり泣いてある程度は落ち着いたらしく、声に淀みは見えない。
「今日は……もう、遅いから……おやすみ、おにぃ……」
掻き回したら消えてしまいそうな、悲嘆に満ちた言葉。それを証明するかのように、それまで感じていた繭愛の重みがぐんと軽くなった。
「まっ……!」
焼きつくような焦燥感に駆られた。今、繭愛を行かせてしまったら、もう……もう、妹とは呼べないような気がした。
近くにいるはずなのに、いつのまにかこんなに遠くなってしまったのはどうしてだろう。繋がっていると思っていた心が、離れていると感じるのはなんでだろう。
DODが……デッド・オア・ディアーが、そうさせたのか?
ーーいや、違う。
それだけはすぐにわかった。この状況が二人の関係にひびを入れたのではない。元から、変わろうとしていたのだ。
梶樹も、繭愛も。
時を共に過ごす仲で、お互いがお互いを求め合う依存関係。それが、変わってしまったのはーー。
(俺が、変化を恐れたからだ……)
自分だけの思い、欲望でなによりも大切な道標を、繭愛を汚してしまうのを、恐れたからだ。
だから、繭愛の気持ちに答えられない自分がいる。
受け入れてしまったら、このかけがえのない少女を、壊してしまうと。
ーーしかし、繭愛は違う。
純粋な、純真な想いで、それ以上を望んでいる。たとえ変化が起きたとしても、そんな程度では壊れない繋がりであると、信じているからーー。
(謝るのは……)
行かせては、駄目だ。
……少なくとも、今は。
「待て!繭っ!!」
梶樹は振り切るように我が手を封印から解放し、伸ばした。離れていく少女を、繋ぎとめるために。
だが、梶樹は大事なことを忘れていた。それも、二つも。
ひとつは、繭愛が今どんな姿をしているかを完全に忘れてしまっていたことだ。
一時の感情に流されて状況を見失ってしまうのは、未だに変わらない悪い癖だ。
ふたつは、繭愛が自分の上にいるということを考えていなかったことだ。離れようとしたため、伸ばせば梶樹の腕なら届く距離。それを、計算に入れていなかった。
つまり、簡単に触れることができる。
結果、梶樹はやらかした。
行灯のほのかな明かりに照らされ、暗い夜の闇にぼんやりと映る、白い肌。裾から出た我が身に跨がるようにして開いた脚が眩しい。
涙のあとを残す瞳と光を照り返す銀髪。その造形は夜を照らす月明かりのような優しいものがある。
しかし、なによりも。
淡く白い肢体を彩る、黒いレース。肩から胸部にかけてをがっちりと支える、横倒しのBのようなフォルム。もともとの色白さもあって、抜群に映えた。
ーーそう、勢いで閉じていた目を開いてしまったのである。
しかも、それだけには留まらない。ここでふたつ目のツケが回ってくる。
拒んでいたにもかかわらず、梶樹はその艶やかな姿に見惚れてしまっていた。そのため、気づくのに数拍の遅れがあった。
「あ…………」
それに気づいた繭愛が、瞳を大きくさせた。上げかけた腕が空中で停止し、時が止まったように一点だけを見つめる。
最初の驚きは梶樹と視線が合ったこと。そして次は、梶樹の視線が移った先だった。
「あ……!」
わずかに遅れて、梶樹が自分の手の行き先に気づいた。
両腕を上げた繭愛の頬が、みるみるうちに赤くなる。
指先に感じる、この感触はーー。
ーー伸ばした手が、左の胸を掴んでしまっていた。それも、包み込むように全体を。
「ひゃう……!?」
びくん、と繭愛の体が上下する。今の今まで感じていた申し訳なさに、恥ずかしさが入り混じっていく。状況の把握を求めた脳髄が、退く、という選択を無意識のうちに縛ってしまう。
一方の梶樹のほうも、それまでの焦燥感とは別のものが体を支配し、思考が完全に塗り替えられていく。
実をいうと、身体の触れ合いというのは二人とも初心だったりする。添い寝にはじまる触れ合いをしていたのは、繭愛がまだ中学に上がる前だった。
故に、このとき。梶樹はその成長具合を肌で実感することになった。側で見てきたはずなのに、繭愛は予想以上に成長していて。昔のあの頃とは全然違う、その感触に、しばし感動した。
押し返す弾力に敗北し、梶樹の中の天秤が大きく揺れ動く。
「おに、ぃ……だめ、それ……!」
つい先程魅緒に同じことをされたばかりな繭愛。けれど、魅緒にされたときとは違い、ぴりっとした、電気のようなものが五感を刺激する。
自分からみてといった手前、無理に電撃で引き離すのは理不尽なようにも思った。口では拒否しておきながら、嫌とは思えない自分がいることに、気づいた。
ーーこの、感情はーー。
(あったかい……恥ずかしいけど、すごい……あったかい。この気持ち……たぶん、これ、が……)
炙ったチーズのように、溶ける心。あたかたもなく、元に戻るのかどうかさえ怪しい。
だけど、今はーー。
「……はっ!?」
薄布越しの感触に、危うく別世界に転移しかけた梶樹。繭愛がくぐもらせる、喘いだ吐息によって覚醒した。
……そして、自分がなにをしているのかを瞬時に把握する。
復活した思考回路がオーバーヒート、するかと思った。それほど速く、激しく、強烈な劣等感がせり上がる。
それを受け止めた瞬間、堪えることができなくなった。
「……繭!」
「きゃっ……!?」
腹筋を総動員して上体を起こし、全体を使って繭愛を抱きしめた。
本当なら離れた方がいいかという考えもあったが、なにより繭愛に申し訳がない気持ちで満ちた梶樹では、それにたどり着いたとしても選べなかったろう。
ぎゅううう……
繭愛が潰れてしまわないように、力の加減には注意する。両手を背に回し、肩から顔を出すようにして相互した。
正直、まともに顔を見ることができない。完全なるやらかしだった。
「お、おにぃ……!?」
「ごめん……繭。ごめん……!」
あれだけきつく縛っていたのに、外部から……繭愛の気持ちを逆手にとって欲を解放してしまった自分が、なにより情けなかった。
結局のところ、自分がいちばん守りたかったものを、自分で台無しにしてしまったのだ。
「どうして……?どうして、謝るの……?わたしが、みていいよ、っていったのに……」
繭愛は目を丸くして、心配そうに尋ねた。どちらかといえば魅緒が指示したこととはいえ、あんなことをしてしまったこちらが謝るべきだと思う。
だから、こうして梶樹が謝ることが、不思議だった。
「……好きだよ、繭。俺もそれは変わってない。」




