47章 湯煙
ぴちゃん、と水が跳ねる音がした。
虚ろな気分の中で、繭愛はまだ泡の残る銀髪を、くしゃりと解いていた。
もうもうとした湯気が立ち込めるこの風呂場は、嘘のように広く解放的で、本物の旅館に来たような気分になる。
……が、今の繭愛にそれを味わうだけの余裕はなかった。
洗い場の一角、風呂椅子に座った繭愛は、いつにも増して幻想的な雰囲気を醸している。まるで、そこだけ世界がくり抜かれたように。
水滴が滴たる銀髪は、ぺったりと白い肌に貼りついていて、流れた水は、肢体に巻かれた大きめのタオルに染み渡る。
温まった頬はうっすらと薄い桃色に染まり、火照った身体はとくん、とくん、と血の巡りをはやらせる。
扇情的かつ、神秘的。美術館に飾られた絵画のような、触れてしまえば壊れてしまう、といったあやうさが、そこにはあった。
「わたし……また……」
他に誰もいない浴場で、繭愛はぽつりと呟いた。
さっきから胸にあるつっかえがどんどん大きくなっている。離そうとしても、離れない。積もった雪の大玉のように、転がる度に存在感を増していく。
ーーなにも、あんな態度をとるつもりはなかったのに。
繭愛の中で蠢く、途方もない嫌悪の元は、もうわかっているのに。
きっかけは、あの言葉。
ーー繭愛さんは、兄様を不幸に落とす女だからですわ
不幸。梶樹と繭愛の関係は不幸から始まったもの。それを癒し、生きていくための延命装置。けれど、もし。もし、それが思いこみだったとしたらーー?
あの日の約束は、一度たりとも忘れたことはない。不幸にしてしまうかもしれない、と見失いかけた自分を抱いてくれたおにぃ。だが、それが本当に梶樹にとって正しい選択なのか?
今の兄妹という関係が、咲のいった通り、都合のいい偶像であるとするなら……いちばん恐れていた、"不幸"に梶樹を知らず知らずのうちに落としているとするなら。
(い……や……!おにぃは、おにぃは……)
ぐちゃぐちゃに潰された男の姿が重なったのは、母だけではなく、現実のーー、梶樹にも重なっていた。
いずれは、ああなる。目の前で、血の雨が降って、肉の塊になって。
そう考えてしまったら、もう、どうすればいいのか、わからなくなってーー。
(……わたしは、おにぃに……側に、いてほしい。けど……)
あの惨劇と同じようなことが、梶樹にもーー。それが、繭愛の心を覆う、暗いベールの正体。
自分が側にいることで、傷つくのならーーそれは許せない。本当に、梶樹を、おにぃを想うのならーー。
……と、そのとき。聞き覚えのある声が、繭愛の聴覚を刺激した。
そして、次の瞬間。脇の下から生えた二本の手が、繭愛の胸部をタオル越しに、鷲掴みにした。
「ひゃうん!?」
少し前。
ぴた、ぴた、と。湿った浴場のタイルを歩く音。
魅緒はつい先程、脱衣を済ませて浴場に入ってきた。
あいにくと広い浴場だということは、先のチェックで織り込み済みだ。極力音を立てないように、慎重に湯殿の戸を開く。
(お、あみゅたん身体洗ってるね。よしよし)
抜足、差し足。気づかれないように息を殺して、忍び寄る。それでもタイルで足音は多少なりともするのだが、ぼうっとしているのか、全く気づかない。
そのままゆっくりと時間をかけて、魅緒は繭愛に接近していく。……が。最初、魅緒は後ろからちょっと脅かしてやるか、くらいの気持ちでいた。しかし、近づくにつれ、その考えは徐々に変わっていった。
滑らかな純白の肌、流れるような銀の髪。同性の魅緒から見ても、それはとても美しい景色だった。
その姿を見た途端、急に悪戯心が湧いてきて。
(あーでも、カゲっち、怒るかな……)
梶樹にああいったものの、多分許してはくれないだろうなと思い、心の中で謝罪してから、魅緒はちょっとしたスキンシップで和ませてやることにした。
鏡に映らないように気をつけて、繭愛の背後に迫る。
そして、滑り込むように両手を隙だらけの脇の下に突っ込んで、確かめるようにこねくり回す。
「とりゃあ!」
魅緒が掛け声を放ったのと、繭愛に触れたのはほぼ同時だった。手のひらに柔らかな感触が生まれ、繭愛の頬が深紅に染まる。
「ふぁ、ひゃ……!ちょ……お姉さん……!?」
白いタオルで覆われた、繭愛の胸部が、魅緒の手によって形を変える。可愛い嬌声をあげる繭愛の反応に、魅緒の勢いはますますヒートアップしていく。
「え……!あみゅたんもしかして、アタシより胸ある!?中学生っていってたけど、これ結構あるんじゃない?」
「ふぁあ……や、やめ……ひゃん!?」
ぞくっとする冷たいものが這い回るように蠢いて、陸に上がった魚のように、繭愛の身体は小刻みに震えた。足から力が抜けそうになり、気を抜いたら倒れてしまいそうになる。
「え、なにこの揉み心地、すごい幸せ感覚なんですけど!?可愛いし、初心だし、スタイルいいって……あみゅたんチートもんじゃないですかぁー♪」
そこまで力を入れていないにも関わらず、マシュマロのように形を変えるその感触に、魅緒は楽しくなっていった。
……が、途中で切らずに調子に乗ったのがよくなかった。
「あ〜だめ。あみゅたん可愛すぎ。このままお姉さんが、まだ見ぬ新世界へ連れてってあげようじゃないか」
と、それまで円を描くように動いていた魅緒の指が、中心へと向かって車洗浄機のようにわしゃわしゃ動きはじめる。
「あ……まっ、て……そこ……やっ……」
指は次第に範囲を狭めていき、ついにはーー。
繭愛はもう恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。自分の胸周りを虫のように蠢く魅緒の指が、身体の奥底から熱いものを昇らせていく。
それが溢れそうになる瞬間、繭愛の中にある緊急制御装置が、作動した。
「ゃめ……て、って……いっ……てるの、に……!」
調子に乗って揉みしだき続ける魅緒に、青白い火花が鉄槌を下す。
繭愛の髪から肩、背中に、青白い電流が流れる。
パリッ、と。微弱な電流は整体電気と連結し、魅緒の身体を突き抜けた。
「あばばばばばばばばばばば!」
静電気と同じ要領で、魅緒の身体を鋭い痛みが襲った。
バチ、バチッ!
感電しないように抑えてはいるものの、制裁としては充分な威力だった。
繭愛があげた甘い声が響く浴場は、一瞬にして、魅緒のうめき声を響かせることになったのである。




