43章 堕落
咲にとって、かの少年は救い。周りが疎んでも、彼だけは自分を求めてくれた。だから、救い。
"生きる"という行為は、凄まじくエネルギーがいる行動だ。例えば、仕事。何かを割り振られて、それをこなす。一見すると地味な動きに見えるが、その動作をするために、明日に楽しみを待つ人もいるだろう。
元来、全ての生物にとっての生きる意味とは、種の保存である。後世にも自分たちの繁栄を続ける度に、子を残す。それは生存本能という形で、自然と染み付いている伝承なのだ。
人間は最も進化し、発達した"生き物"。しかし、それが生存本能を低迷させる原因ともなった。増え続ける人口の中で、仮に子孫を残すことが生きるための最大目標だとするのなら、男女援交を禁ずるなどという法の縛りはそれを否定することになる。
現代においての"生きる意味"とは、もはや生存本能の域をはるかに超えた先にあるものとなった。ある意味皮肉な話ではあるが、意味探しこそが生きる意味などという者も少なくはあるまい。
咲もまた、梶樹や繭愛と同じく依存した人間だった。しかし、その依存先はありもしない幻想の梶樹少年。偶像に心を寄らせるその行いは、触れられないテレビの中のアイドルに恋するオタクとなんの違いもない。
「あぁ、そうですの……」
咲は気づいた。気づいてしまった。自分が夢見た少年はーーあれほど夢の中で渇望した梶樹少年はもう存在しないのだと。時間という無慈悲な波が、知らぬ間に削り取ってしまい、もう同じ光景を見ることは叶わないのだと。
ーーだから。
「あのときの兄様は……もう、いらっしゃらない。もう、いない……いぁあぁああぁあ!」」
刹那。
ズカン!!と。それまでかろうじて均衡を保っていた鉄橋が支柱から大きく音を立てて崩壊した。支えていたワイヤーが軋み、耐えられなくなった途端に次々と落下する。
「あ……!」
「……繭、手を!」
崩れる足場を踏み切ると、梶樹は繭愛の手をとって《迅雷鳴動》を発動させた。二人の身体は一秒とかからずに別の場所、鉄橋の入り口にあたる崖のあたりまで瞬間移動する。
「なら……!ならっ!!もう何もいりませんわ……!全て……全て消えてくださいまし!!!」
本来は地面へと向かって働くはずの重力を反転ーー反重力とした咲の身体は、まるでそれが当たり前かのように、空中へと跳躍ーー歩行を可能にした。
疑似的な飛行状態の咲は、崩れる鉄橋の残骸……柱やコンクリートの塊を浮かびあがらせ、手当たり次第に投げつけた。
「くっ……!」
鉄の雨が、降り注ぐ。重力の向きを変えられるということはそれすなわち、落とす方向を決められることに等しい。夏の風物詩のひとつ、風鈴につけられた紙は受ける風の方向によって揺れ方が大きく変化する。
原理的にはあれと同じく、下向きから横向きに重力を変えることにより、咲は念動じみたスーパーマンと化した。手に触れずものを動かすのはサイコキネシスにもいえることではあるが、こちらはれっきとした物理現象である。
「……くぅ……ぁ……!」
《迅雷鳴動》で迫る瓦礫や鉄塊を移動させる梶樹だったが、なにしろ数が多すぎる。当たる範囲のみを移動させるにしても相当な物量を動かしているため、身体への負担が凄まじい。
おまけに、軌道を外した残骸は咲が再び弾として回収してしまうのでキリがない。集中力を切らした瞬間、潰されるか貫かれるか。どちらにしろ勝ち目はない。
「もうっ……たくさんですわ。私は兄様だけは……兄様だけはと信じていたのにっ!!」
お家のため、権威のため、組織のため……。咲の周りには、誰も咲を咲として見てくれる人間など、いなかった。
"お嬢様"と呼ばれる度、"皇様"と呼ばれる度、咲はひどく絶望した。所詮、自分は形だけのものでしかないのだと。
咲に気を許せる友人など……いや、親でさえも"さん"付けで扱われる、現代のお姫様。そんなお姫様が、白馬の王子に憧れを持つのは、必然だったのだろう。
まだうら若き少女は夢見た。周りが自分を見ない偶像でも、あの少年だけはーーと。ミカゲカジキが占める咲の心の重量は年々と大きくなり続けた。笑って、撫でて、呼んでくれる。たった、それだけを望み続けた。
ーーなのに。
(どうして……!)
ーーなのに。
(どうしてっ……!)
ーーその淡い願いは、聞き届けられなかった。
(どうして……叶わないんですのっ……!)
絡みつく悪霊を振り払うように、少女はまた、夢見た少年に牙を剥いた。
叶わない夢ならーーもう、要らない、と。
「はぁ……はぁ……」
息が、荒い。呼吸の乱れが止められない。《迅雷鳴動》を連続、しかも今までにない物量を移動し続けた梶樹の身体は、限界に近づいていた。
(でも……俺がなんとかしないと、繭が……)
まだ条件が揃っていないためか、このステージに来る前に実験した事象はまだ発生していない。しかし、鉄塊を再利用して攻撃してくる現状では、いつそれが起きてもおかしくない。
(移動先からやられたら……一発アウトだ)
先の対戦で覚羅を移動できなかった理由ーーそれは、能力のクールタイムにあった。まだ気づいた程度だが、《迅雷鳴動》で移動する際に、同じものを移動させるには時間を置かなければ動かない、というものだ。
実際、牛乳瓶は本来は瞬間移動で動かすつもりがタイミングにズレが生じていた。もし鉄塊を移動させたそばから方向転換して投げつけられたら、移動できずに串刺しになる可能性が非常に高い。
だが、それでも。
(繭は……俺が……!)
何度目か、迫る鉄塊を移動するように意識を集中した、そのとき。
青白い閃光がーー分たれた枝のように分岐したそれが、飛来して接触ーー爆発した。信じられないほどの熱量と光が目の前でフラッシュし、鉄塊が一瞬にして砕かれた。破片があちらこちらに飛散する。
「繭……!?」
繭愛が放った、雷撃。稲妻だった。その証拠に、繭愛の髪から右腕にかけてをぴり、ぴりとした静電気が帯電しているのがわかった。
「おにぃ……わたしね、おにぃを助けたいの。この能力は……わたしだけの能力じゃないし」
「それは……そう、だけど。俺は、繭に辛い思いをしてほしくないから、あのとき……」
すると、繭愛は帯電していない左手で梶樹に触れて、
「……わたしも。わたしも、同じ。おにぃを守りたい。守ってもらうだけじゃなくて、わたしも……だから」
「……繭…………」
「だから、ね?怖いけど……やってみたいの。そのために、おにぃがわたしに、くれたんでしょ?」
それは、過去一番といってもいいくらいの、強烈な上目遣いだった。でもそれ以上に、梶樹は嬉しさを感じた。繭愛が自分から、やりたいといったのは、もう……遠い昔のことだったから。
その言葉に、梶樹の中から熱いものが込み上げてーー。
「お、おにぃ……!?どうして、泣いてるの……?」
「うっ……く…………いや、なんでもない。そうだな、そうだよな。俺ひとりで背負ってちゃ、駄目……だよな」
「……うん。おにぃが持ってるの、わたしにも持たせて。だって……わたしたち、家族でしょ?」
「……ごめん、繭。でも…….ありがとう」
目尻を拭いとり、梶樹はそっと口を繭愛の耳に近づけ、
「じゃあ……繭。俺からの頼み、聞いてくれるか?」




