41章 覚醒
金等級能力、《万有引力》。それが咲の能力名だった。その権能は名前通りの重力操作であり、自身が設定した通りの重圧を加算、または除外することができる。
これにより、咲の思うがままに重力は増減され、文字通り人間を圧殺することなど、林檎の皮を剥くよりも容易いことである。
ぐちゃぐちゃの肉の塊と化した豚男の姿に、梶樹は自然と目を逸らした。血は……慣れているわけではないが、常人よりはよっぽど耐性はあると思う。
人間というのは、おぞましい、気持ち悪い、そう思ったものを遠ざけて拒絶するように作られている。その起源は、四百年以上も昔、天下を制した豊臣氏の刀狩りに由来する。
武器を奪われ、農具を手にした民衆は、次第に殺生というものが恐ろしく、忌み嫌うべきものという認識へと変化していった。
「…………っ……!」
繭愛も、そう。あの日の悲劇を、何度も夢見てきた。眠れぬ夜をいくたびも過ごし、何度も、何度も泣いてきた。その度に梶樹は、繭愛は、二人で寄り添い、悪夢をやり過ごしてきた。
悪夢を乗り越えられたとは、まだいえない。あれは今も、心の奥に消えない模様として、刻みつけられている。いつになれば解放されるのか……彫られた穴が埋まるのかどうかさえ分からない。
けれど、あの蒼い月の下で誓いあった"約束"が、二人を結ぶ強固な絆の源流となっているのは確か。"約束"があるから、赤い血の恐怖から耐えることができた。それがたとえ、行く先々の未来に不幸を呼び起こす"呪い"だとしても、今はーー。
「咲っ……!お前、なんてこと……」
「人ごとではありませんわよ。私の力は指定した対象にかかる能力。兄様もお気をつけて」
ひとこと忠告を入れると、咲はにっこりと笑って、梶樹の前に膝をついた。
「さて、社会の生ゴミを処分いたしただけですが……いかがしましたか、兄様?」
「いくら意地汚くても、命だろ!?そんな能力使ったら、取り返しつかなくなる。それくらい、お前もわかってるんじゃないのか!?」
「私にとって、全ての人は道具なのです。使えない道具ほど不必要なものはありませんもの、処分して当然」
それから咲は、重圧で倒れ伏す梶樹の頬から顎にかけてを、優しく沿うように撫でた。
「ですが、兄様だけは違う。私を、本当の目で見てくれた。曇った眼しかもたない有象無象など、塵芥と同じですわ!」
「おれ、が……?」
わからない。理解できない。いったい、あの夏休みで何があったのだろう。お転婆なわんぱく少女を、ここまで狂った女王へと変貌させてしまうほどの、何かがーー。
「……さて、お待たせしました。覚悟はよろしいですね、繭愛さん」
咲の周囲の空気が重圧によって膨張する。手を振りかざし、繭愛に再三、向けた。
「……繭!おれはいい、繭だけでも……ここを離れろ……!」
一瞬、繭愛は躊躇うように瞳が動いた。……だが、そのゆらぎはすぐに掻き消えた。
「やだ……おにぃと、離れたくない……。おにぃと……ずっと……ずっと一緒にいたいの……!」
それが、命取りだった。
「貴女にそれは叶いません。……永遠に、ご機嫌よう」
「よせっ……咲!やめろ……やめろおぉぉおおぉ!」
咲が放った極大の重圧が、今度こそ繭愛をとらえた。動きを封ぜられた梶樹には、どうすることもできない。瞬間移動を使ったとしても、対象を指定する重力波から逃れることは叶わない。
「……あ、……ぐっ……うぅ……!」
ーー監視塔、モニタールーム。
「……あー、こりゃもう駄目っすかね。このまま潰されて終いだ。心配する必要なんか、なかったすね」
「プリズムといっても、使い手があれでは仕方ないか」
「あの娘子は優しすぎる。殺しを厭わぬあの娘とは、心の構えから勝負にはならん」
重圧に呑まれる繭愛を見た何人かは、もはやお通夜の如く諦めのムードだった。そんな中でひとりだけ、とある女だけは、スクリーンに映る繭愛の姿を見て、訝しげな表情をしていた。
(本当に、あれだけ……?重力操作は確かに強力だけど、ランクでニ段階も劣る相手に手も足もでないなんて……)
能力のランクというのは、一段の違いだとしても明確な力量差が発生する。例えば最低ランクの鉄に属する、武者面男が使った《火起こし》と、銀等級の同系統である《発火能力》は、蝋燭の火とキャンプファイヤーほどの火力の決定的差がある。
繭愛の力が電子操作ーー、発電系能力だとするならば、圧縮した電圧から雷撃を飛ばすだけでも相当強力な能力のはずなのだがーー。
(もし、もし彼女が単に使えていないだけなら……プリズムレアの権能は発電だけに留まらない……?)
梶樹と繭愛が得た能力は、ゲームマスターが直接に与えたものであり、それは管理者たちでさえ詳細を見ることができない代物だった。だとするならば……
(GM、あなたには見えているの?彼女の……天聖繭愛の能力が……!)
「うあっ……あうぅ……!」
繭愛の身体に、理不尽なほどの重圧が襲いかかる。まともに立つことすらできない、強力な重力場。息を吸うために口を開くことさえも、無理矢理に身体を動かずには不可能だった。
「潰れなさいっ……!この、泥棒猫っ!!」
咲がさらに重力を上乗せする。あまりの重圧に、繭愛の身体は悲鳴をあげる。
(い、いたい……いたいよ……!)
文字通りの押し潰し。割れた陶器のようにぐちゃぐちゃの豚男の姿が、脳裏にちらりと映る。潰れたトマトのような、赤い血の海。あれは、まるでーー。
(い、や……!もう、なくしたく、ない……!わたしの、大事なものを……大事な……おにぃを、奪われたくない……!)
踏みおろされた巨人の足の下で、繭愛は強く、強く願った。繭愛の中で、ふつふつと感情が煮えたぎる。その感情は、このまま潰されて死ぬことの恐ろしさよりも、梶樹を……大事なものを奪われたくないという、切なる願い。
母親、雪音を目の前で失ったときのあのときの記憶が、こちらに呼びかける梶樹の姿と、ぴったり重なった。あの日、あのとき。手を伸ばせば届くはずだった、幸せ。それが一瞬で消えて、もう二度と戻らなかった、悪夢。
悪夢に負けそうになり、傷ついたおにぃを、これ以上見たくなくて。一度は自ら命を絶とうとまで走った、わたし。そんなわたしに、暗い夜の闇に、光をくれた。わたしに、生きて欲しいといってくれた、わたしの、大切な、おにぃちゃん。
ーーだから。
「……わ、……の、……わたしの……!大事なものを……とらないでっ!!」
少女の叫びは、青白い火花の帯を加速させた。早く、速く、もっと疾く。亜光速の域にまで達した電子は、バチバチと唸りをあげ、純白の光へと変化する。まるで、もうひとつ太陽が昇ったかのような光景だった。
余剰となった青白い電気の蛇は、お互いの尾っぽを喰らい続け、長く、太く、その姿を放物線のように変えて、繭愛の身体の上三メートルに漂う白い光を巡回する。
ーー刹那。
轟!!という何かが弾けとぶ爆音と共に、繭愛を抑えつけていた重圧ーー重力が蒸発する水滴のように吹き飛んだ。
それとほぼ同時、雲一つない晴れ晴れとした青空から、繭愛の背後に巨大な光の柱が振り落とされる。雷、神鳴り、晴天の霹靂。純白の光は、それに溶けるように吸い込まれ、繭愛を起点として穏やかに消えていった。
「私の、重力が……消えた……?」
それを見た咲は、呆気にとられ、ぽかんと口を開いた。繭愛は陥没した地面から立ち上がり、こう言い放つ。
「もう、二度と……あんな気持ち、なりたくない……!」




