3章 チュートリアル
送られてきたメールは二人とも同じ文面で登録されたアドレスも同一だった。
「DODって……何かの略称か?聞いたことないな……繭は何か分かることあるか?」
「ううん、わかんない。でもこれがチュートリアルで運営がいるってことは何かのゲームなのかな」
「確かにしっくりくる話だけどな……あんなバケモノが出てくるのがチュートリアルってどんなゲームだよ……」
チュートリアルというのは、取り扱い説明書やルール説明、実際のプレイの仕方などを実地方式で行うゲーム要素の代表的な一つ。本格的なプレイをする前の練習といった意味合いが強く、スキップしてしまう人も多いのではなかろうか。
質問コーナーが設けてあるなら今すぐ投げかけたい心境だったが仮に窓口があったとしても今の状態では何を投げかけたらよいのか、さっぱりだ。
「おにぃ、どうするの……?」
きゅっ、と身を縮める繭愛を梶樹は優しく、けれど真摯に抱きしめてやった。小刻みに震える少女の肩は恐怖に怯える小動物のように彼女の心を映し出している。
「……俺も正直いって怖いよ。でも、このメールが嘘じゃないならやってみる価値はあると思う」
自分でいいつつ、梶樹は内心信じることができなかった。こんな馬鹿げた話があり得るのかということにだ。ここは小説やアニメの世界じゃない。ましてや下手をすれば死ぬような危険なイベントがゲーム、つまりは遊戯だというのだ。
まだ誰かの悪戯という線もある。メールが正しいなんて確証はどこにもない。だが――。
(繭だけは、信じられる。繭は……俺にとっての最後の大切なものなんだから)
梶樹を奮い立たせたのは使命感か、はたまた別の何かか。それは立ち上がった自分自身にさえ明確な回答はなかった。
けれど、ここにいる繭愛は自分なんかよりもっと酷い世界を見てきたことは確かだ。腫れ物扱いする人間、哀れみを向ける人間、中身を見ずに外面だけで近づく人間。あの日から隣にいた梶樹が見てきたのは大抵このどれかで、その視線の先を一点に受けていた繭愛が心を壊したのも必然だった。
だから。少しでも彼女が安らぎを取り戻すことができるのならば――!
「……ついてきてくれるか?繭」
彼女は、なんのこともなげに頷いた。
「うん。ちょっと怖いけど……わたしはおにぃを信じるよ」
「いい返事だ。……行くぞ」
そうしてバケモノと縮まった距離を引き剥がして二人は住宅街を駆けていった。
移動中に二人が話しあった選択肢は二つ。ひとつは時間切れを狙い、逃げ切ること。ナメクジの進行速度から考えても走って逃げ切ることはわけはない。だが、そもそも時間切れどころか制限時間があるかどうかも分からない現状では解決策になるかどうかすら怪しい。
ふたつめは至ってシンプル、ナメクジをどうにかして倒すこと。送られてきたメールの内容が全て本当のことだというならあれの撃破が少なくとも何かのトリガーになっているのは間違いない。ではその方法とは――。
正攻法で塩じゃ駄目だろうな……多分
水分を奪って倒す。ナメクジの対処としては一般的なやりかただが、それを断念する要素があまりに多すぎた。まずは相手の体格。二メートルはある巨体を覆うほどの塩はいったいどれだけの量になるだろうか……前提として家庭にある量ではとても足りない。おまけに持ち運びも考えると二人だけではいくらなんでも限界がある。
次に挙げられるのは相手がただの ナメクジではないということだ。道路に敷かれたアスファルトを溶解するほど強力な液体――おそらくは何かの酸だろうがようするに向こうは武器を持っている。迂闊に近づけば逆にこっちが溶かされてゲームオーバーだ。
以上、その他様々あるがこれらの理由を持って塩での撃退は非効率かつリスクが高いと踏んだ。となると、残された手段は限りがある……が、その方法自体は二人ともすぐに立案できた。ここは自分たちが暮らしている地域であり庭レベルで知り尽くした知識がある。これが今ある一番のアドバンテージだ。
そして出来上がったプランはというと、小学生でも考えつきそうな至極単純なものだった。まぁ難しい作戦を立てておいてミスをするほうが緊急時の動きとして危険ではあるので簡単にできたほうがリスクも少ないだろうという考えだ。
それを実行するため、梶樹は仕掛けた地点に繭愛を残し、再びこの住宅街へと戻ってきた。駅近くに置いてあったレンタル自転車を使い、もときた道を走り抜ける。
これは外へ出て分かったことだが電気は生きているようで途中で立ち寄ったコンビニは店員こそいないもののレジやコピー機はしっかりと平常運転していた。この発見が作戦を決定づける糸口になってくれた。
「はぁっ……くそっ!あいつどこへ行きやがった!?」
既に団地をいくつも越えて自宅近くまで迫ってきている。いつナメクジと遭遇してもおかしくかった。
静寂に包まれた街を梶樹はひたすらに走った。あとはバケモノナメクジを誘導するだけなのだ。目的地までは10分とかからない。できれば早く見つかって欲しいが……今は溶けた道を頼りに追跡するしかない。
「……いた!」
自宅からしばらく離れたいきつけのスーパーに巨大なナメクジがのさばっていた。想像通り店内は酷い有様で、特に野菜類はひとつ残らず食い尽くされてあとも残っていない。
「おい!探してんのは俺だろうが!!ついてこいよ!」
そういってから梶樹は持ってきたふかし芋をナメクジめがけてぶん投げる。投擲は得意分野ではないが、孤を描くように飛び上がり巨大な体躯に見事に当たった。
奴自体はこちらに気づいたようで梶樹の方へと頭を向け、まるで親の仇でも見つけたかのように追いかけ始めた。
(よし……!このまま……)
思った通り、速度が遅い。ぬるぬる動くものだから仕方ないのだが普通に漕ぎ出すとすぐに追い抜いてしまう。
これならいける、梶樹が慢心の色を見せた瞬間を見計らったのかナメクジの動きが変わった。
「んなっ……そんなんありかよ!?」
追いかけていたナメクジの体から出る体液が急に溶解音をあげなくなった。それと同時、堰を切ったかのように大量の液体が溢れ出した。
そう――すべり代をすべる要領でナメクジが体液をローションのように利用し体躯を滑らせてこちらへ向かっている。恐ろしくはそのスピードで、自転車を走らせている梶樹となんの遜色もない。
「くっ……そ……ほんとにナメクジなのか?どう考えてもこんな動きしないだろ……!?」
脚から、肺から、腕から。肉体のあちらこちらから無言の悲鳴が嫌が応でも響いてくる。グリップを握った両手からは凄まじい手汗が吹き出して滑りそうになる。
だが、あと少し。長い道のりだが思っていたよりかは時間を食わなかった。
(――見えた!……あと一歩……!)
残された力を振り絞り、必死にペダルを漕ぎ続ける。繭愛がセットしてくれているであろう仕掛けはもう目と鼻の先だ。
「おにぃ!いっけーー!」
繭愛の声が聞こえる。既に策は成った。残すは最後のひと押し。渾身の力でもって走り抜ける。
「うおりゃあああー!」
迫りくるナメクジ。梶樹は自分が行く方向にある危険を呼びかける立ち入り禁止の看板へと突っ込むーー!
かと思いきや、梶樹はそのまま身を捻り横に思いきり体を投げたして自転車を乗り捨てた。
なまじ速度が出ているためにナメクジのほうは方向転換することが出来ず、看板を突き破りその先へと落ちていった
一拍ニ拍してからドーン、という水が打ち上がる音が激しく上がりやがて消えた。
「……どんなもんだ……この街で好き放題できると思うんじゃないぞ」
投げ出された梶樹だが、どういうわけか上手く体が動かない。次第に倦怠感が襲ってきて、意識が飛びそうになる。繭愛がこちらへ駆けてくるのが見えたのを最後に、梶樹の意識は底へと堕ちていった。
とあるモニタールーム。
「驚いたね……このチュートリアルの成功確率は二桁もないというのに、よくここまであっさりとクリアできるものだ」
それは近くにいた女の耳に何やら呟くと、再び体勢をモニターへと向けた。
女は慌てたように部屋を出てしまい、残されたのは大男一人だった。
「それで……どうしましょうか。いくら進化途中とはいえレベル9のウェットワームを一般人が撃退するのは私としては見過ごせませんが」
それを聞いたこの者は愉快だといわんばかりに高らかに笑い声をあげ、
「君は相変わらずせっかちだねぇ。もっと広くものを見ることも必要ではないのかい?……まぁ、放っておけないというのは私も同意見だが」
「それでは……」
「ああ。思っていたよりも楽しめそうだ……歓迎しよう、水影梶樹くん、天聖繭愛くん。ようこそ、DOD――デッド・オア・ディアーへ」
奴の笑い声が機械だらけの一室に木霊した。悲しいかな、それだけがこの部屋で唯一の生きる声であった――。
「おにい……大丈夫?」
心配そうな顔で覗いてくる繭愛。その瞳はどことなく潤っている。
作戦を決行してしばらく時間が経った夕方、梶樹は膝枕をされていた。咄嗟に受身をとったはいいが、全力で走っていたために身投げした衝撃が想定より強かったらしく、思うように動けない。
「なんとか……な。あのナメクジはどうなった?」
「思ってた通り。かちかちになってお湯の中だよ」
「そうか。オヤジさんには悪いことしちまったな……謝れる機会があるといいんだが」
そう、ここは二人が行きつけにしていた銭湯である。この地域には天然の露天風呂がいくつか存在し旅行シーズンには結構な賑わいを見せている。
この銭湯――薬楽堂は昔から番頭のオヤジさんによくいれてもらっていたもので、馴染み深い大切な場所でもあるのだ。
「ボイラー室に入ったとき、誰もいなかった。皆どこに行っちゃったんだろう……」
「さあな……どっちにしろこれで何か変わるはずだ。じゃなきゃどうしたらいいのか分からん」
一度ナメクジと離れたとき、二人が向かったのは薬楽堂のボイラー室だった。ナメクジの対処方として次に考えられるのは熱による殺処分だった。タニシを田から出して日干しにしてしまえば半日も経ずに干からびてしまうか、鴉の餌食になる。ナメクジはもともと水分の残りはタンパク質の塊でできているため熱変異しやすいタンパク質は急激に高い温度に触れると死滅する、つまりは熱湯の中に落とせば倒せるはずだった。
繭愛が残ったのは、ボイラー室から外に広がる露天風呂の温度を限界まで引き上げるためだった。
「おにぃ、無茶しすぎだよ……」
膝に乗せられた梶樹の頬に透明な宝石がぽとり、と落ちた。繭愛の眼から溢れ落ちたその輝石はなによりも綺麗で、そして悲壮に溢れていた。
「泣くなよ、繭。俺がなんのために走ったか分からなくなるじゃないか……大丈夫だよ、護身術、爺ちゃんに習ってるから歩けないほどじゃないって」
「でも……」
繭愛が涙を拭い取りながら答えようとすると突然、第三者の声が間に入った。
「いやぁ、素晴らしい。実に見事な兄妹愛だ。まさか進化する者を倒すほどとは思わなかったがね」
いつの間に現れたのか、二人の周りを黒服を着た怪しさ満載の集団が取り囲んでいた。黒のサングラスをかけてはいるが老若男女、性差万別で統一性はまるでない。声の主は黒服の一人が掲げたパソコンの声でイニシャルなのか、画面にはD、とだけ文字が表示されている。
「……あんた、誰だ」
梶樹はパソコンに向かって吐き捨てるようにいった。……当然だが、なんとなくでも向こうの正体には検討がつく。
「これはこれは。水いらずのところ申し訳ない。……改めてお目にかかろう、私はこのゲーム、DODの総支配人。人は私をゲームマスターと呼ぶらしいね」
梶樹は大きく息をつき、そしてこういい放つ。
「やっぱりか。こういうのじゃ一段落したら誘ってきた側が現れるのはよくあるテンプレだしなぁ。……まさか当の人物がゲームマスターだとは思わなかったが」
精一杯眼に力を入れてパソコンの向こうを見る気持ちで睨みつけてやる。こうしてみても相手がいないというのはいささか難がある。
「妹に膝枕されながら睨まれても、凄みも何も感じないよ?」
「んなっ……!別にされたくてしてるわけじゃない!」
慌てて体を無理やり起き上がらせ、立ち上がろうとするが重心が狂ったようにふらふらする。力及ばずその場に座り込むしかできなかった。
「おにぃ……?」
何故か繭愛が悲しそうな眼をこちらに向けている。今さっき泣いていただけに梶樹は慌ててフォローを飛ばした。
「繭、違うんだ……別に繭のことが嫌いってわけじゃ、、、」
「本音をぶっちゃけると?」
パソコンから意地が悪い声が聞こえる。間違いない、この状況を楽しんでいる声だ。
「お前は黙ってろ……!」
危うくパソコンにふっかかりそうになるがぺとん、とつけられた繭愛の華奢な手がそれを阻止する。
「ほんとは……?」
うるうるした瞳でじいっと見つめてくる繭愛。上目遣いも合間ってか反則レベルで可愛いかった。というか、ほとんど凶器だ。
流石にこれには敵わず、梶樹は観念したという風に手を振って
「……繭の膝枕、よかった、です」
パソコンからあっはっはと大笑いする声が飛んでくる。本当にゲームマスターなのかと疑うところだが、繭愛が腕に抱きついてくるので梶樹にはどうにもできない。
くっそ、覚えてろ対面したとき必ず一発お見舞いしてやるからなと心に誓い、深呼吸して一度落ち着いてからパソコンの方へ向かいあった。
「で……?ゲームマスターさん、わざわざ出てきたってことは今日起こったこと説明してくれるんだろうな」
今度は間も空けずに応答してきた。
「もちろん。君たち二人はチュートリアルを見事にクリアしてみせた。…….実のところ、このチュートリアルというのはかなり難易度が高めでね、クリア成功率は十に一もないんだよ。それも過去最速、華麗に成功してみせた。観察していた私も久々に心が踊ったよ」
「……人間観察とはな。なんとも趣味が悪い」
「人間ほど面白い生き物は他にはいないんだよ、梶樹くん。人間観察、ひいてはこのDODこそが私の唯一ともいえる趣味であり生きがいなのさ。
……さて、前置きが長くなったが、いよいよ本題に入ろう。チュートリアルクリアのボーナスとして君達二人にはふたつの特典をプレゼントしよう。ひとつは、質問コーナーだ。本来ならばここの黒服達が応答するのだが……君達の戦いぶりと兄妹の絆に免じてこの私自らがアンサーとなろう」
「質問……なんでもいいの?」
繭愛がそれとなく尋ねた。
「もちろんだ。今後のゲーム内容など答えられないものもあるが、それ以外は全て答えよう。後のことを考えても確実な情報を得られる機会はそうそうない。いくらでも投げかけたまえ」
「それじゃあ、遠慮なく使わせてもらおうかな……なんで俺たちを選んだんだ」
それは最初から心にあった疑念だった。何故自分たちでなければいけないのか。そこに何か特別な事情があるのか、あるいは無作為に選んだ神がもたらした偶然か――。
その答えは存外早く帰ってきた。
「その理由は至ってシンプルだ。……君達二人の過去が関係している。より具体的には三年前のとある事件だが――」
「ちょっと待て」
話を続ける液晶を梶樹が遮った。心臓が早鐘を打ったように異常なほど早く鼓動を刻む。
それは明らかに人には知り得ない秘密だったからーー。
「何でお前がそれを知ってるんだ……?」