2章 静寂の住宅街
「おにぃ……」
後ろで見ていた繭愛が不安気な顔でこっちを見てくる。それと同時に梶樹は相当の焦りを感じていた。
巨大な、ナメクジ。言葉で表すならばたったそれだけ。しかし道路を整備するアスファルトを溶解するほどの強酸性粘液を持ったナメクジが――
じゅううう……
とうとう玄関前、家の周りを囲う柵に怪物の行進が到達する。あと一メートルもしないうちに、二人に肉薄する距離だ。
「おにぃ……大丈夫?」
ぎゅっと締め付けられる自分の腕の感覚。だがそれが梶樹を現実世界へと引き戻した。
繭愛の手を引き、梶樹は家の中へと戻る。そのまま玄関とは逆方向にある裏口に飛んでいった。
幸いにもこの裏口には予備の靴が置いてあるのでそのまま家の外へと逃げ出すことができた。
「繭、できるかぎり走ってくれ!」
先に外へと出た梶樹が自分のあとから繭愛が出てきたことを確認すると、手を取り合って駆け出した。
普段慣れしたスニーカーだからか、梶樹一人だと繭愛がついていけない。それでも必死に走り抜けるのはあれがどれほどの脅威か肌で感じたからだ。
「おにぃ、あれって……ナメクジなの?」
息が切れそうになりながら尋ねた繭愛の額にはじっとりと汗が滲んで朝日によって反射している。特に運動を苦手というわけではないが、やはり習慣的に運動をしていない分基礎体力に差がある。
「見かけはそうだが多分違う。現にあいつ追ってきてるし」
背後を見るとじりじりとさっきのナメクジがこちらに近づいているのが見えた。移動の遅さは同じでも体格が人間以上にある分、進むのが早い。
「塩でもあればなんとか止められるんだろうけど……あいにくと昨日、大雨が降ったばかりだからな」
ナメクジが水分の塊であることは世間的に知られている。軟体生物であるがゆえに身体を構成する成分のほぼ全てが水であるこの生き物は塩―――具体的には水分を吸収するものにあたると動けなくなり、その状態が続くと脱水症状で死に至る。
逆に水をかけると真綿が吸い上げるように吸収して復活する。理科の教育番組では塩で作った円に入れたナメクジがそれを避けるように進むという内容のものがあり、本能的に自分の弱点を理解しているらしい。
「ほっておいてもいいけど近所迷惑だ。おまけにすでに向かいの永井さん宅は崩壊済みだしな……」
そんなことを考えながらひたすら走っていると、とうとうナメクジの姿が見えなくなるまでに小さくなった。じきに追いつくだろうが体力が戻るまでは時間を作れる。
「はぁっ……はぁっ……なんでわたしたちの方へ向かってくるんだろ」
「そういえば……ナメクジって確か植物食べるんだよな、食べる気じゃないんならなんで……」
いいかけて、二人ははっとした。違う、何かが違う。走るのに夢中で気づかなかったがこの風景にはどこか違和感がある。そしてそれに気づいたのもほぼ同じタイミングだった。
「繭……これって……変だよな」
「うん。おにぃ、今気づいたけど、変」」
「だよな……だってさ……この時間にだ……」
それから二人は答え合わせをするようにひといきついてから同時に考えを打ち明けた。
「「誰ともすれ違ってない」」
そう。この時間、土曜日とはいえこの時間帯に誰一人としてすれ違わないのは不自然だ。毎日散歩に出かける近所の爺さんたちや、ゴミ出しをする奥さん方を誰一人として見かけない。
早朝でもランニングをする中学生と会うのに八時時点でそれらと会わずにここまで来たのは逆におかしかった。むしろ、よくあんな巨大な生き物が騒ぎになってないものだと疑問すら浮かび上がってくる。
「いったいどうなってるんだ……?」
突如として現れたバケモノナメクジも大概だが完全に人払いされた住宅地は異様な静けさを嫌でも伝えてくる。いつも見慣れた外観だけに、まるで自分たちだけが別の世界に来てしまったかのような錯覚感を覚えた。
降りかかってくる不安を呼吸を繰り返すことで腹の底に沈めてから梶樹は今、何をすべきかを考えた。
答えは以外にあっさりと出た。やはりここは常識的に考えて助けを呼ぶべきところだろう。そう思い、肩掛けの鞄からスマホを取り出し、電話帳を開く。
―が。またしても思いも寄らないことが起きた。
「なっ……!圏外だって!?」
梶樹の心に一度沈めた不安が込みあがり、焦りを呼ぶ。自宅からまだそこまで離れていない住宅街で携帯電話の回線が繋がっていないというのは確実に異常事態だ。
「おにぃ……わたしもだめみたい」
繭愛のスマホも右上に圏外と表示されている。スマホの調子が悪いとか、そういう話じゃない。誰がが自分たちを嵌めている。そうとしか考えられなかった。
ナメクジはだんだんと近くに迫っている。通った道は完全に溶解され、見る影もない。
ひとまず距離をとろうとその場から動こうとしたとき、ピロン、と二人のスマホが同時に鳴った。
「なんだ?こんなときに……」
画面をタップし、通知を見るとそれはメールの送信通知だった。それを見る限り知らないアドレスで怪しいことこのうえないが。
それを開くと、中身はこんな文が綴られていた。
これはチュートリアルです。クリアするか、死すれば本編へ移行します。クリアボーナス目指して頑張ろう!〜DOD運営チームより〜
二人は顔を見合わせ、さらに困惑した。