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異端兄妹は日常に戻りたい  作者: 幽猫
first chapter ゲームスタート

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16章 蒼天月下

 それからは、あっという間だった。辰造が呼んだ警察とレスキュー隊、救急隊員によって梶樹と繭愛は病院へ搬送された。


 肝心の卓は、辰造の一撃で頚椎を損傷ーー、運びこまれたときにはすでに息絶えていたという。これを受けて辰造は重要参考人として警察に身柄を拘束され、人質の一人だった雪音は首を切断されたことによる即死。


 死因は雪音の首にかけられた細い糸だった。辰造がやってみせたような糸ノコギリが、雪音の首にあらかじめ仕掛けられていたらしい。卓が最後に押したボタンは、この()()()を強制的に起動させるためのものだった。


 梶樹はというと、全身打撲と左肘の脱臼、それに肋骨の何本かにヒビが入っていることもあり全治二ヶ月と診断された。

 一方の繭愛は特に目立った外傷はなく、荒縄でしめつけられていた手首に僅かな擦過傷がある程度だったが……繭愛が心に負った傷は、誰よりも深く刻み込まれていた。


 「では、しばらくは入院してもらいますよ。少なくとも肘の包帯が解けるまではね」


 病室の一室で、病衣姿の梶樹に眼鏡の男性医師がそう告げた。


 「それ、だいぶ長くなりそうですね……」


 「だね。君の場合はまだ歩けるし、リハビリがなくても生活に支障がないほどには回復できるだろう。まぁ、無理せずにしっかり休めることだよ。では、お大事に」


 ふらりと去ろうとする医師を梶樹は待ってくれと止めた。


 「あの……俺と一緒に運ばれてきた女の子は……繭は無事ですか?」


医師は振り返り、腕を組んで唸った。


 「無事、かはぼくには断言できないかな。なにしろ母親を目の前で惨殺されたわけだし、心が壊れてもおかしくないよ。彼女に必要なのは医療ではなくて、精神的な問題……メンタルのケアが重要だと思うけどね」


 「……………………、そう、ですか」


 雪音が目の前で肉の塊と化したのを見たのは、梶樹も同じだ。繭愛のことを考えれば、これ以上の苦しみはないだろう。

 梶樹の脳裏に、卓のあの言葉が浮かんだ。


 ーー人間を絶望させるには、大事なもんをぶっ壊すのがいちだからなぁーー。


 卓は、繭愛を絶望に堕とすために梶樹をいたぶった。今考えれば、卓は最初からこうするつもりだったのだろう。梶樹がもし逃げるような動きをすれば、真っ先に雪音を殺したはずだ。


 悔しさと参るような苦味が、梶樹の中で広がってゆく。卓は結局、死んだ。それは確かだ。けれど、卓の当初の目的は、達成された。またしても、梶樹は卓に負けてしまったのだ。



 ギリッと歯を噛み締める梶樹に、医師はこう語りかけた。


 「心配なら、行ってみるかい?その子の病室。最も今は会える状況ではないかもしれないが……」


 「いいんですか!?」


 「ああ。ぼくがナースセンターにいっておくから、心配せずに会ってきなさい。……大事なんだろう、その子のことが」


 梶樹は無言で頷くと、寝台の下に置かれたスリッパを履いて病室を出た。脱臼した左肘は動かせないが、梶樹は右手で器用に扉を開けた


 「ありがとうございます、先生」


 ひとこといい残し、爽やかな微笑みを浮かべる医師はまるでくれがくすぐったいことのように頬を掻いた、


 「倉科だよ、倉科修(くらしなおさむ)。まだほんの駆け出しなんだ、先生という呼び名はぼくにはこそばゆいよ」


 倉科修と名乗った医師は、照れくさそうにしながらも繭愛のいる病室を教えてくれた。



 繭愛の病室は、隣の棟にあった。いわゆる個室病棟というやつだ。繭愛の性格を考えると、こちらのほうが精神ストレスが少ないだろうという配慮が見受けられた。

 しかし、今の繭愛は限界を超えたストレスと恐怖によって心が壊れかけている。梶樹は一刻も早く面会するため、急ぎつつも早足で白い整備された廊下を進んでいった。


 隣りの棟に移る連絡棟のあたりで、梶樹は妙なことに気づいた。何人もの人間見知らぬ人物が、看護師たちに行方を塞がれていたのた。中には大型のカメラを持った者も混じっている。


 「あの……何があったんですか?」


 梶樹は制止を促す看護師の一人に、それとなく聞いてみた。

気づいた看護師は病人がここにいることに違和感を覚えたようで一瞬、眉をひそめた。だがその顔に焦点があった途端にああっ、という顔になった。


 「確か、天聖さんと一緒に運ばれて来た子だよね?同じ現場にいたっていう……」


「天聖、は……繭は俺の妹みたいなもので……心配になって来てみたんです」


 「そっか、ありがとう。せっかく来てくれたところ悪いんだけど、今はこんな状態でね……事件を聞きつけた記者や警察関係の人たちが集まって来てるんだ。何しろ死亡した二人のうち一人は天聖さんのお母さんだからね……」


 やれやれ、といった風にその看護師はため息をついた。なるほど、この人達は繭愛に話を聞きにやってきたわけだ。けれどそれを今、看護師達が断っているーー、そんなところだろう。

 ならば、梶樹がやるべきことはひとつだった。群がる群衆の後ろに立ち、声を張り上げる。


 「話なら俺がします!俺も、現場にいましたから!」


 腹の奥から出るその声は、押した押さないの勢いで興奮冷めぬ群衆を動かすには充分だった。まるで冷や水を浴びせたように一斉に全員が沈黙し、視線が梶樹の一点に集中される。


 「君は……?」


 「水影梶樹っていいます。天聖さんの……繭の、おにぃちゃんみたいな関係です」


 いってて少し恥ずかしい気もしたが、事実なものなので仕方ないとばっさり諦める。今はこの騒動を抑えるのが先決だ。


 と、集団の中の一人が進み出て梶樹の前に立った。


 「君が水影くんか!わしゃ県警の鷲尾豪(わしおごう)っちゅうもんじゃ。……君の祖父、辰造さんのことで話がある。いいかね?」


 「警察の……。分かりました。ここから離れてもいいですか?繭を……いや、天聖さんに心配かけたくないので」


 「構わんよ。……おい!ひとまず、撤退じゃ。マスコミには報道を取りやめるようにいっとけ!」


 その場にいた何人かが、了解、とだけ返答するとばらばらと集団は散り散りになっていった。


 それを見届けると、看護師達からの感謝をもらいつつも、梶樹は鷲尾刑事についていった。



 ガゴン、という音を立てて自販機から缶コーヒーが落とされた。病院内の一室、休憩をするためのカフェテリアに梶樹の姿はあった。


 「本当にストレートティーでええんか?中学生にはきついやろうに」


 「いいんです。……今は、甘いものを口にする元気はないですし」


 梶樹は午後茶を手にするとキャップを外し、一口飲んだ。糖分の少ない澄むような茶の後味が口の中に残る。


 「そうか。まぁ君がいいなら止める理由もないか。……さて。そろそろいいかな?君の祖父、辰造さんは今、警察で身柄を預からせてもらっている。知ってたかい?」


 「……はい。事情聴取のためって、病院の先生から聞きました」


 「合っとるよ。で、そのことについてなんだが……君には辛い話になる。知らないほうが、幸せかもしれん。この話をするためにわしはここにきたんだが……聞くかい?」


 梶樹はこくりと頷いた。どんな話であれ、知っているのと知らないとでは天と地の差だ。それに今は少しでも情報が欲しかった。


 「分かった、心して聞いてくれ。身柄を預からせてもらった辰造さんだが……このままだと、殺人で起訴される可能性が極めて高い」


 梶樹の脳内神経が、一瞬にしてスパークを起こした。起訴。つまりは刑事事件の容疑者として裁判にあげられるということだ。起訴された人間が有罪になる確率は……ほぼ確定に近い。


 「なんでっ……、?どうして、爺ちゃんが……」


 信じられない、といった表情で鷲尾刑事に食いつく梶樹。それを落ち着け、と梶樹が飲んだ午後茶を鷲尾刑事は差し出した。


 ぐっ、ごきゅ、んぐっ。


 一息にペットボトルを逆さにしてラッパ飲みする梶樹。ストレートティーの引き締まるような香りが、混乱する頭を少しずつ、冷やしていく。


 「……落ち着いたか?」


 「はあっ……はぁ……ん、はい。……続きをお願いします」


 口元を拭い、半分ほどに減ったペットボトルを脇に置いてから、梶樹は続きを促した。


 「死亡した七草卓という男だが……これがとんでもないワルでね。彼の指紋を鑑識に提出したところ、連日起きていた空き巣事件の現場にあった正体不明の指紋と一致したんだ。被害額はざっと五百万円。もちろん被害届も出てるし、警察も必死で犯人を探していてね」


 「待っ、待ってください。それと爺ちゃんは何の関係があるんですか!?確かに卓が死んだのは、爺ちゃんの格闘技が決まったからですが……それはあくまで正当防衛っていうのが正しいんじゃないですか?」


 その返答に、鷲尾刑事はヒュウ、と口笛を鳴らした。


 「すごいな。中学生というのに、よく知っている。……確かに、被疑者が死亡しているから正当防衛は難しくとも過剰防衛くらいには落ち着くだろうとわしも踏んでいたんだが……上司から特例が降りて来てな。水影辰造を殺人、空き巣の容疑で起訴しろと」


 「なんでっ……そんな……」


 「上はこの問題を大きく捉えとってな。犯人死亡で盗まれたもんは帰ってこん、おまけに新たに殺人まで見逃したんじゃあ警察の世間への信頼は地に落ちる。……警察側は、辰造さんを七草卓の共犯者として逮捕、送検し罪を着せることで世間の理解を得ようとしとるんじゃよ……」


 あまりの理不尽さに、梶樹は言葉を失った。祖父は、辰造はただ自分たちを助けに入っただけだ、それが、何故警察の信頼がどうとかで犯罪者に仕立てあげられなければならないのだろう。


 「辰造さんの所持品には、細いワイヤーがあった。上はそれを、天聖雪音殺害と同等の手口としてシナリオを作りあげたんじゃろ。……君の心は痛いほど分かる。じゃが、一介の刑事であるわしの力では辰造さんの無罪を勝ち取るには力が足りんのしゃ……。現場の君や、あの繭愛ちゃんも証言者としては若すぎる。所詮は子供の泣き落としと、裁判からは切られてしまうじゃろう……」


梶樹は、天上で卓が笑い転げているのを見た様な気がした。どうだ、これがこの世の摂理だ。不条理な世界の真実だ、と。結局、何一つ勝てなかった。梶樹は唇を噛み締め、悔しさとやるせなさが混じり合う想いを拳にのせて叩きつけた。



その後、あたりはすっかり暗くなり、宵闇の中で蒼く輝く月光が亡霊のような梶樹の姿を映し出した。


 「何かあったら、ここに連絡してくれ。わしにできることがあれば何でも協力する。……本当に、すまなかった」


 鷲尾刑事は電話番号の書かれたメモ書きを梶樹に渡すと、その場で平伏、頭を下げた。


 「こちらこそ、取り乱してしまってすみませんでした。……では、また」


 それだけいうと、梶樹は自分の病室に向かって歩き始めた。繭愛のことは気がかりだったが、今はもうそれどころの話ではなく力なくとぼとぼと歩く梶樹の姿は、左腕に巻かれた包帯も相まってか酷く荒んで見えた。


 と、そのとき。何人かの看護師が梶樹の横を通りすぎた。うつむきがちに歩いていたので顔はよく見えなかったが、何か焦っているような走りかただった。


 気になった梶樹は、向かう先からまたやってくる何人かの看護師を呼び止めた。


 「あの、どうしたんですか?……焦ってるみたいですけど」


 その看護師は、梶樹に一瞥をくれると早口でこういった。


 「特別室で治療を受けてた女の子が脱走したんだ!今、看護師総出で探してる。君も、早く自分の部屋に戻ったほうがいいよ!」


 それだけいうと、看護師達は走り去っていった。梶樹の思考回路がきゅるきゅると回転し、()()を予感から確信へと変える。


 特別室……あの、個別の部屋の……女の子。


 「まさか……繭が!?」


 梶樹はもと来た道を駆け出した。腕を振れないためにいつもより速度が出ないのがなんとももどかしい。焦燥が、不安が、どんどん大きくなっていく。


 「繭っ……繭……!なんで、どうして……!」


 どこに、いるんだろう。繭愛は幼いが、ときには三つ上の梶樹も出し抜くほど賢い子だ。そう簡単には見つからない場所にいるはず。


 連絡棟に差し掛かったあたりで、梶樹は気づいた。繭愛が、嬉しげに笑っていたあの日のことを。


 ーーおにぃちゃん、すごい綺麗だね!ーー


 ーーあぁ。ほんとに、綺麗だ。夜なのにこんなに明るいなんてーー


 ーーわたし、お月様がいろんな形になるの、好きなの。でも、一番好きなのはーー


 きっと、()()()だ。梶樹はそう確信し連絡棟を走り切ると、上の階へと続く階段を登り初めた。

 


 この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けたることも、なしと思へば。


 かつて平安時代に栄華を極めた貴族、藤原氏。その最盛期にあたる藤原道長が詠んだ、この句。この世を我のためにあると思える、我の心は欠けたことのない満月のように満たされている。そんな自惚れを謳うこの句は小倉百人一首にも選定され、今や教科者を開けばどこにでも乗っているほどに有名な句でもある。


 この日は、満月だった。黒い夜空のシーツに絵の具を散らしたように、きらきらと輝く星々の中で満月はより大きく、蒼く彩りを与えている。


 月の光は太陽の光を跳ね返したもの。日中に地上をじりじりと焼く太陽のそれとは変わって、嘘のように優しい明かりだった。


 「繭っ……!繭ーー!」


梶樹は屋上へと続くドアを蹴破り、外へと身体を躍らせた。


 蒼く、美しく、壮大な満月の下に、彼女はいた。月明かりに照らされた銀の髪はよりいっそう輝きを放ち、紅い瞳は怪しげにきらりと鈍い光を発している。病衣姿の繭愛は、触れてしまえば溶け消えてしまうのではないかと思うほどに危うい、儚げな印象を梶樹にもたらした。


 「おにぃ、ちゃん……」


 梶樹の方へ向きあう繭愛。二人の視線が交錯し、ぶつかり合う。……だが、その瞳に色はない。本当に人形になってしまったようだった。


 「繭、満月が……見たかったんだよな。看護師さん達が心配してたぞ、急にいなくなったって……」


 繭愛はそれを聞くと、梶樹から目線を逸らし長い銀の髪を手櫛で流した。梶樹は一歩、進み出て近寄ろうとする。


 「なぁ、繭ーー


 「こないで!!」


 繭愛の声が大気を震わせ、進み出た梶樹の足を止めた。見えない力で抑えつけられているかのように、梶樹の身体が硬直する。


 ーー拒絶。あの、繭愛が。今まで出会ってから二年間、梶樹は一度たりとも拒絶されたことはなかった。それが、今、二人の間でひびが入った。初めてのことに、梶樹は言葉を詰まらせる。


 「なんで……繭……!」


 「わたしは、もう……おにぃちゃんの側には、いられない。わたしのせいで、おにぃ、ちゃんも、……おじぃちゃんも……ママも……みんなひどい目にあった。わたしが、生まれてきたせいでっ……!」


 梶樹はその想いにーー、あまりの悲壮な姿に、絶句した。この少女はーー、繭愛は、起きた全てをその小さな身体で背負いとこもうとしている。先程の拒絶は梶樹のことを嫌ったのではない。大事、大切に想うゆえのーーその裏返しだった。

 

 「繭……」


 「もう、……いやなの。わたしの、せいで……おにぃちゃんや、周りの人が傷つくのが……!わたしが側にいたから、みんな、不幸になって……おにぃちゃんも。わたしが側にいたからこんなに、酷い怪我をして……」


 梶樹が胸に何かが染み込んだような痛みを覚えた。


 優しすぎる。この少女は自分のことよりも、周りの大切な人たちが傷つくのを、恐れている。


 だからこそ、梶樹を突き放した。これ以上、自分のせいで傷つかないように。けれど、その想いこそが繭愛を苦しませることになろうとは……。


 繭愛は月の方向ーー、梶樹とは反対を向いて星々輝く夜空に手を伸ばした。


 「もう、決めたの。わたしがいるからーー、おにぃちゃんが傷つくならーー、わたしは、わたしを許せない。そんなわたしに、生きる資格なんて……ないよ」


 くるりと振り返った繭愛は、紅く燃えるような瞳をさらに赤くしながら、無理やり笑みを作った。はたから見れば、満月をバックした美少女がとても絵になることだろう。だが、それはあまりにーー、美しすぎた。


 「おにぃちゃん、ありがとう。今日まで、わたしの側にいてくれて。わたしも、おにぃちゃんのこと、大好きだよ。……だから……、ごめんなさい」


 ぼろり、と繭愛の涙が色白で、ほのかに赤い頬を伝った。それを拭うと繭愛は、屋上の端を目掛けて走り出した。


 「さよなら……おにぃちゃん。どうか、幸せにーー


 それはあまりに尊く、綺麗で、それでいて……悲壮に溢れた言葉だった。流れる髪が天の原を描くように、ひらりと宙を舞いあがる。


 「繭っ……繭!!繭愛ぁぁああーー!」


 駆け出した繭愛とほぼ同時に、梶樹の身体はそれより早く動いた。もう何がなんだか分からない。けれど、行かせてしまったら、もう繭愛は戻らない。それが脳神経に届いた瞬間、見えない足枷は千切れ飛んだ。


 歩幅の差もあって、梶樹は繭愛に肉薄し抱き止めた。勢いついた二人は転々と転がって、危うく屋上から落ちてしまいそうになる。それでもなんとか手前で引き止めることができた。


 「ぐっ……!」


 関節の外れた左腕がひどく痛んだ。けれど、梶樹は渾身の力を込めて繭愛の身体を抱き締める。


 「おにぃ、ちゃん……なんで……どうして、邪魔するの……」


 なおも振り解こうとする繭愛。梶樹はそれを押し倒し、拒むように覆い被さった。二人の瞳が、再び邂逅する。


 「繭、俺が怪我をしたのは繭のせいなんかじゃない。爺ちゃんが捕まったのも、繭が悪いんじゃない。雪音さんも……きっとそう思ってるはずだ」


 しかし、繭愛はふるふると首を横に振り、


 「違う……わたしが、あのおじさんを怒らせたから……わたしがいたから、不幸になったって……いってた。わたしが側にいたら、おにぃちゃんも……ママと同じように、なっちゃうかもしれない……わたしは……生きてちゃいけないの……!」


 「……っ……!」


 「わたしは、おにぃちゃんを幸せになんか、できない!不幸にしか……おにぃちゃんがわたしのせいで不幸になっちゃうなら……だったら、わたしがーー


 そのとき、梶樹は自分が何をしているのか分からなかった。絶望に堕ちて、自らを犠牲にしようとする繭愛に、かける言葉が思い浮かばなかったからだ。

 だから、涙ながらに言葉を紡ぎ続ける繭愛の口を塞ぐことしか考えられなかった。


 梶樹は繭愛の上体をそっと起こすと、未だ悲観の声を上げる繭愛の唇を自分の唇で閉じてやった。涙に濡れた、繭愛の唇。哀愁と慈しみを込めた、梶樹の唇。静かな慟哭の中で、二人が奏でる音だけが、満天の星空に届く。


 ーー接吻。甘く切ない恋人同士のこの行為を、世間ではキスなどと呼ぶらしい。けれど、梶樹はこのとき、繭愛を絶望の淵から救うには、こうするしかないと思った。理由なんてない。ただの直感。それでも、たったそれだけの行動原理でも今の梶樹を動かすには充分だった。


 お互いの舌が入り混じり、とろりとした唾液が二人の中で重なり合った。最初は目を丸くしていた繭愛も、次第に惚けた表情へと変化していく。


 たっぷり数秒、二人はその身を重ね合わせた。離れた口元から、月の明かりによって銀に煌めく一本の線が糸を引く。


 「ぷぁっ……お、おにぃ、ちゃん……!これ、ちゅ、……ちゅーって……!」


 繋がった糸がぷつりと切れて二人を引き離す。けれど、梶樹と繭愛はそれでも身を寄せ合った。真っ赤になった繭愛を梶樹は諭すように、彼女の瞳を見つめつつ優しく語りかけた。


 「繭。繭は俺を不幸になんかしてないよ。……覚えてるか?初めて会った、あの日。俺はさ……親を自分のせいで失くしたって、自分を責めてた。どうしようもなくて、死にたいとすら思った。……そんな俺を、繭は優しく抱いてくれただろ?」


 「…………っ、ん……」


「不幸なんか、とんでもない。繭が、俺を絶望から救ってくれたんだ。俺に、明日を生きる勇気と、希望と、笑顔をーー、繭が俺に与えてくれたんだ。……繭は不幸を呼ぶ疫病神でも、世界から疎まれる廃棄物なんかでもない。繭は……俺の一番大事な宝物なんだよ」


 「おにぃ、ちゃん……」


 「だから、繭。……もう、一人で背負い込むな。俺がいっしょに持ってやるから、さ」


 「……っ、ーーー!」


 その言葉に堪え切れなくなった繭愛は、梶樹の胸に倒れこんで、むせび泣いた。左腕を怪我しているのは分かっていたけれど、それでも、今はーー。


 「ほんとうに、いい、の?ん……っ、ぐ……わたし、もう家族も誰も、いないんだよ?」


 「関係ない。いないなら……俺が、繭の家族になるから」


 「誰もっ……わたしを信じてくれなくても……、ひどいことされるかもしれなくても、それでもいいの?」


 「いったろ、繭は俺の大事な人だって。ーー例え、世界中が繭のことを憎んだとしても……俺だけは、絶対に繭を信じる」


「わたし……わたしっ……!おにいちゃんを、失うのが……怖いの……。わたしが側にいるせいで、おにぃちゃんが、もし危ないことに巻き込まれたら……!」


 「……俺も、怖い。繭を失くすのが……怖くてたまらない。繭がいなくなった世界なんて、とても耐えられないよ」


 梶樹は繭愛の背に手を伸ばし、そっと撫でてやった。猫を撫でるように、柔らかく。優しく、そして……丁寧に。


 「……繭、藤の花の花言葉って、知ってるか?」


 首を横に振る繭愛。流れるわずかな沈黙。


 「俺の母さんが、藤みたいな人になってくれっていってたんだ。花言葉は……《優しさ》、《歓迎》、《溺れるような恋》、そして……《あなたから決して離れない》、だってさ。……だから繭、俺はこの母さんとの約束に誓うよ。絶対、俺は繭から離れないって」


 「……っ…………!!」


 それを聞いた繭愛は、抱き締める腕により力を込めた。ーー離れていってしまわないように。それから繭愛は、梶樹の胸に伏せた顔を見上げ、二人の瞳を交錯させた。


 「ひとつだけ……お願い、していい?」


 「……何だい、繭」


 「さっきの、じゃ……いや。はじめては、ちゃんと……して欲しいの」


 途切れ途切れになって、顔を真っ赤にして話す繭愛の頬はまるで、よく熟れた桃のようにほんのりと甘い匂いがした。

 

 繭愛必殺の上目遣い。こればっかりはやっぱり勝てないなと梶樹は苦笑してそのお願いを聞き入れた。静かに目を閉じる繭愛は、可愛いくて……切なくて。そして……たまらなく愛おしかった。


 「んっ……ちゅ……ちゅぷっ……ちゅ……」


 そうして、二人は二度目の口づけを交わした。雲ひとつないよく晴れた蒼い満月が昇る、満天の星空の下で。二人は"二人だけの約束"を誓いあった。



 「どうやら、ぼくたちはお邪魔のようですね」


 その一部始終を、屋上のドアの物陰から何人かの医師、看護師が見ていた。繭愛が走り出したときは危うく飛び出してしまいそうになったが、そのあとの二人を見ていた一同は皆、揃って涙を流していた。


 「さぁ、はやく立ち去らないと。二人にばれてしまいますよ」

 

 倉科修は、涙つらつらの一面に退散を促した。ハンカチを当てながら去る看護師、両目を抑えながら歩く医師。反応は様々だ。


 修は、屋上へのドアを振り返ると、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。


 「君達なら、きっとこの運命を乗り越えていけるさ。頑張れ、少年少女」


 ぐっと拳を突き出した修は、煌々と月の光が照らす廊下を足早に去っていった。

 



 ーー思えば、このときからだった。梶樹と繭愛が血の繋がった家族以上の関係になったのは。お互いがお互いを必要とし、生きる意味として()()()()()関係ーー。

 

 これが、二人を強固に結ぶ歪な絆の正体だった。



 「ーーぃ、ーーおにぃ!」


 ハッと梶樹は自分の意識が現実世界へ引っ張られるのを感じた。辺りを見渡すと、そこにはいくつもの扉があってそれぞれに番号が振られている。


 そうだ、今の二人は突如として現れた謎のゲームに巻き込まれていたのだ。


 「悪い、繭。ちょっと昔のこと思い出してて」


 「もう……呼びかけても返事しないから、心配したのに」


 ぷうと頬を膨らませる繭愛。そんな仕草が、梶樹にはとても微笑ましい。


 おにぃ、と繭愛が呼ぶようになったのは新たな関係の区切りとするためなのだろうか。それに、梶樹はまだ繭愛にあの質問をしていない。龍騎から聞いてくれと頼まれた、あの質問を。


 それを、今。果たす。


 「なぁ……繭。俺が初めて会ったとき、繭はどうして俺をおにぃちゃん、って呼んだんだ?別にあの頃はただの近所付き合いだったろうに」


 繭愛は、んーと頭を捻り、そして思い出したようにこう言った。


 「あのときの、おにぃは……虐められて、塞ぎ込んでたわたしと、似てたから……かな」


 「似てた?」


 「……ん、そう。わたしと、似てたから。だからおにぃを助けてあげたい、って思ったの。……だめだった?」


 「いや……ありがとう。ずっと疑問に思ってたから、どうなんだろうなって」


 繭愛は、ずっと変わらない。優しい少女のままだ。だからこそ、梶樹は救われた。何気ない、その優しさに。

 辛い運命を背負った、少年と少女。だからこそ、二人なら背負うことができる。どんな不幸も、乗り越えていける。


 「ありがとうな、繭。俺と、出会ってくれて」


 そうして梶樹は、繭愛の透き通るような銀の髪を、さらりと手櫛で解いてから頭を撫でた。



 

 

 


 

過去回想編、及びプロローグはこれで完結となります!二人の過去、その壮絶な運命。

 ですが、物語はまだ始まってすらいません。本当の物語が始まるのは、これから。歪な関係となってしまった二人が紡ぐ物語をどうか、これからも温かい目で見守ってくれますよう、心からお願い申し上げます。

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