14章 悲壮現実
消えゆく意識の中で、繭愛が呼んだような気がした。
「うっ……」
梶樹は、ふらつく頭を押さえつつ立ち上がった。ずきずきと痛むその刺激に、脳内から記憶がフラッシュバックされていく。
「そうだ……繭、繭は……?」
急いで目覚まし時計を確認すると、八月十五日、朝の五時。昨日の夜からそう時間は経っていなかった。
「繭っ……繭!いないのか……?」
部屋を出て他の場所も探してみたものの、返事はない。途方に暮れた梶樹を呼び戻したのは、軽快なスマホの着信音だった。
「俺の……スマホが、ここに……?」
確かに、繭愛に渡したはずのスマホがここにあるのはおかしい。通知を告げるバイブレーションを続けるそれを拾い上げ、震える手でロックを解除した。
特に画面に変化はない……が、通知表にはLINEのメッセージが浮かんでいる。繭愛からだった。
はやる気持ちでアプリを開くとそこに映っていたものを見た途端、梶樹の脳髄に電撃が走った。
映っていたのは一枚の写真と一本の短い動画。写真には……全身を荒縄で縛られて涙を浮かべた繭愛が、映っていた。
「ーーーッ!」
梶樹の中に、何かが渦巻く。その何かが、自分を書き換えていくように不思議で、けれどとてつもない嫌悪を持ったものであると悟った。きっと、これを受け入れてしまえば楽になれるだろう。でも、それはーーー。
必死に気持ちを押し殺し、動画の方をタップ、再生する。たった三分程度の短いものだったが、その内容は梶樹に残った自尊心を踏み躙るには充分過ぎた。嘲るような卓の声が、黒い画面の中で再生される。
よぉ、これを見てるってことはようやく目が覚めたってことだよな。見ての通り、嬢ちゃんは俺が預かった。ラクだったぜぇ、お前に縋り寄ってずっと泣いてたからなぁ。
かっかっかと笑う卓の声は、悦に浸って享楽を貪る亡者のようにうわずっていた。
嬢ちゃんに会いたきゃ、送った場所に来いよ。ただし、早めに来ないときれぇな顔が悲惨なことになっちまうかもなぁ?いっとくが、武器になるようなもん持ってきたりサツに通報したりしたら、写真みてぇにはいかねぇぞ。嬢ちゃんを見捨てれば、お前はこれだけで済むんだがなぁ……既読から一時間経つごとに嬢ちゃんには苦しんでもらう。よーく考えるんだな。
動画の中身はそこで終わり、あとには雑につけられたGPSの座標が残っていた。
「ここは……あそこか」
表示された位置には身に覚えがあった。あそこなら、走っても三十分もあれば着く。
梶樹は手早くジャージを着替えてTシャツの上から肩掛けを羽織ると、勢いよく家を飛び出した。割れた窓ガラスが目に映ったが今はそんなことを気にしている場合ではない。
「繭……無事でいてくれよ……」
焦りを原動力に、梶樹は日が昇った早朝の住宅街を駆けた。だが、それを見ていた者がひとり、いた。
「あれは……カジキか?」
住宅街から少し離れた、廃工場。かつては従業員達が活気よく働いていたこの場所も、今では雑草が生い茂って見る影もない。
卓は、そんな場所に軽トラックを停めていた。いたるところにぶら下がったいくつもの鎖が、金属特有のツンとした匂いを放つ。そのちょうど中心の柱の前に、繭愛は縛りつけられていた。クロロフォルムを嗅がされていたため、目覚めたのはつい先程ではあるが見慣れない場所、近くに迫る卓の表情に繭愛の心は恐怖の限度を迎えていた。
「さてさて……どう遊んでやろうかねぇ?」
繭愛の周りを梶樹の家から持ってきたバットで円を描くように周りながら
卓が呟くと、繭愛はぎゅっと目を瞑り心の底から助けを求めた。
(ママっ……おにぃちゃんっ……わたし、わたし……!)
それが通じたのか、はたまた天の計らいか、工場の入り口にあたる大型車用のゲートのあたりから梶樹の声が聞こえた。
「繭っ!繭、どこだ……!返事をしてくれ、繭っー!」
その声に、繭愛はぴくんっ、と身体が動いた。
「おにぃ、ちゃん……!」
ぽろぽろと真珠のような涙がこぼれ落ちる。自分で、駆け寄りたかったがどうしても身体を締め上げる荒縄が、それを許さなかった。
ほどなくして、梶樹が工場の中へと入ってきた。狭い場所だからかここしかないと踏んだのだろう。
「繭……!」
「おにぃ、ちゃん……、だめ、来ちゃだめだよ……!」
ふるふると横に身体を動かして制止を促す繭愛。それを、卓は繭愛の首もとにバットを持っていって逆に力で止めてしまう。
「思ったより早かったなあ、それだけは褒めてやるよ」
「繭を……返せ!」
ギリギリと拳を握りしめ、構えを作る梶樹。だが、卓はにやけ顔で手をぷらぷらと振った。
「焦んなよ、お楽しみはこれからだぜぇ?」
そういうと、卓はどこかからか手のひらサイズのリモコンを取り出してスイッチを押した。
「んっ、やっ……きゃあああーー!?」
繭愛の身体が、宙に浮いた。地上四メートルほどに上げられた繭愛はミノムシのように宙ぶらりんと吊り上がる。
「嬢ちゃんは特等席で見てな。……さて、この高さだ。下手に落ちたら大変なことになっちまうよなぁ?手も拘束してるから、お前みたいに受身も取れねぇ」
「くっ……あんた、何がしたいんだ
「ゲームだよ、ゲーム。俺は雪音に、この繭愛に心底許し難い恨みがあってなぁ。今までは友情の手前、龍騎がいたから手出し出来なかったが……死んじまったらそれも終わりってコトだよぉ!」
中指を立て、盛大に煽ってみせる卓に、梶樹は唇を噛み締めた。ーーイカレてる。そう心の底からそう思った。
「これからすることは、一方的でどうしようもない暴力の連鎖だ。教えてやる、なんで大人を怒らせちゃいけないのかをな……!」
バットを肩に乗せ、そこから振り切る卓。ぶぉんぶぉんと風を切る音が聞こえた。
「俺に、何をさせるつもりだ。呼び出したからには、何かあるんだろ」
「その通りだ。お前は何もしなくていい。ただ、俺のサンドバッグになってりゃそれでいいんだ。お前が大人しくしてりゃ、運が良ければ二人とも生き残れるかもなぁ?け・ど・☆お前がここで引き下がるってんなら見逃してやるぜぇ、その代わり、雪音は死ぬ」
ちらと上を見上げた卓。その視線を辿っていくと、上の階にガムテープで口封じをされ、拘束された雪音が目に入った。
「雪音さんまで……!どこまで汚いんだ……」
もうこれで尚更引くわけにはいかなくなった。ここで梶樹が手を引けば、この狂った男に雪音は……殺される。そうなれば繭愛もどんな目に遭うか、想像に難くなかった。
「だめ!だめだよおにぃちゃん!このままじゃ……おにぃちゃんまで、ひどいことされちゃう……!だから、お願い、逃げて!わたしは、わたしは大丈夫だから……」
宙に上げられた繭愛が、できる限りの声を張り上げた。悲痛な想いが、廃工場の金属板に反射して、染み渡る。
「って……いってるが、どうする?お兄ちゃん、見捨てるも見捨てないもお前次第だ。まぁ、どっちを選んでも嬢ちゃんには絶望してもらうがな!」
狂った笑いを上げる卓の歓喜が、耳障りだった。だが、二人の身をとられている以上、梶樹にできるのはこうすることだけだった。
「繭……俺はいいんだ。繭を見捨てて逃げるなんて、俺にはできない。雪音さんも、親を失くした俺を子供みたいに接してくれた。そんな二人を残してなんて、俺が死んだ両親に怒られちゃうよ」
繭愛にふっと笑って見せた梶樹は、目線を卓に移し、しかと睨みつけた。
「いいぜ、乗ってやる。ただし、繭と雪音さんには手を出すな。それが条件だ」
卓の瞳が、怪しく光を放った。
「じゃあ初めてようかぁ……嬢ちゃんの大事な大事なお兄ちゃんを壊す、サイッコーにエキサイティングなゲームを!」」
卓はバットを持ちながら駆け出すと、梶樹に淡々とと近づいていった。
「繭っ!見なくていい。目、瞑ってろ!」
「さぁてまずは一発目ぇ!」
ゴッ、と卓の拳打が梶樹の鳩尾に綺麗に決まる。栄養状態が悪いとはいえ、成長した大人の力の限りの拳は梶樹の体に鈍い痛みを走らせる。
「くっ……」
「てめえは最初に会ったときから、どこか俺を舐めてたよなぁ?こいつはそのお返しだぁ!」
風を凪いで振り切る音。それと共に木製のバットが力の限り、梶樹の左腕に叩きつけられる。
「ぐああああああああ!!っ……ぐぅ、が、あ、あぐっ……」
鋭い痛みが、梶樹の身体を襲う。骨が軋み、悲鳴を上げ、さらに神経が嫌でもそれを脳へと繋いだ。
「やめて……おにぃちゃんに、ひどいことしないで……!」
繭愛の悲痛な叫びが、廃工場の空気を振動させ、響いた。けれど、梶樹は左腕を必死で抑え、声を張り上げる。
「繭っ……気に、するな。俺が勝手に、突っ込んだんだからさ……何も、見なくていいんだよ……」
掠れ声を上げる梶樹を、まるで道行く蟻を知らずに踏むように、卓は梶樹が抑えた左腕を踏みつけた。
「があっ……ああっがぶっう……あああー!」
「おっと、悪りい悪りい、あまりにきれーな両想いなもんで、つい潰したくなっちまった」
ぐっぐ、と踏みつけられる卓の足は梶樹の左肩に外れかけた肘の関節に響き渡りーー、
「ーーっ!」
骨が、完全に外れた。
「うあああーーー!」
痛みのあまり、転がりこむ梶樹を卓は容赦なく腹に蹴りをぶち込んだ。
がっ、がっ、ごっ、ごっ、と嫌な音が響き渡る。
それは、反撃すら許さない一方的な暴力。血も涙もない悪魔の所業。ただ、殴られ、蹴られ、力による行使を受ける。それは自然の理。いわく不条理な世を順序つけるたったひとつの法則、それが弱肉強食ーー、弱き者は淘汰され強き者は生き残る。
それは、夢を追いかける少年少女にとっては、あまりに残酷で。悲しいこの世の絶対原理だった。
「なぁ、これでも目を逸らしていられるか?嬢ちゃんよぉ、この男はお前のために、こうして俺に嬲られてるんだぜ?……それともなんだ?嬢ちゃんにとってはそんな程度のゴミクズなのかなぁ?」
蹴りを入れ続ける卓は、歪んだ表情で繭愛に問いかけた。それに、繭愛はーー
「違、う、おにぃ、ちゃんは……わたしの、わたしの!大事な人なの!お願い、もう……やめて、ください……わたしの、大切なものをこれ以上、傷つけないで……!」
涙で頬を濡らし、ぐちゃぐちゃの顔になりながらも繭愛は恐怖で震える声を絞り出した。
「うぅーん、イイ、イイ、イイいいい!その悲痛に満ちた表情!絶望に打ち震える涙ぁ!俺が見たかったのはその表情だよおおおお!くっ、くはっ、ぐひゃひゃひゃあああー!」
卓は繭愛の瞳に、視線を移すとげたげた笑い、叫んだ。
「繭っ……見るなって……いったろ……」
激痛走る左腕を抱えながら、梶樹は繭愛の方を見上げた。それを踏み躙るように、卓は梶樹を踏みつける。
「いいなぁ……やっぱいい。お前は本当にイイ仕事をしてくれるなぁ……人間を絶望させるには、大事なもんをぶっ壊すのが一番だからなぁ……」
「もうっ、いいだろ……繭を離せ……」
「そうはいかないなぁ。もーっと絶望してもらわないと、俺の中の腹虫が治らないんでねぇ」
卓はリモコンを取り出し、スイッチを操作すると繭愛を縛る荒縄が緩み、下へと下がった。それに近づくと、繭愛の顎を掴み上げた。
「なぁ、嬢ちゃんはなんでこんな目に遭ってると思う?あの兄ちゃんはなんで俺にボコられてると思う?別に何か恨みを買ったわけでもないのに、なんで俺は嬢ちゃんにまで手をかけたと思う?」
返答を待つ気がないようで、答えを聞く前に卓はべらべらと喋り続ける。上からばたばたと物音がするが、上にいるであろう雪音にはどうすることもできない。
「それはなぁ……お前のママがお前を産んだからだよ!誰にも望まれてないままに生まれたお前のせいで……お前のせいでっ!俺は有るべき未来を奪われたんだよ!」
それは、繭愛にとって、決して触れてはならない禁断の槍だった。




