12章 破綻
「教えてやるよ、お前がどうやって俺の人生をめちゃくちゃにしたのかをな……!」
にたにたうすら笑いを浮かべる卓に対して雪音は信じられない、といった表情でテーブルに手をついた。
先程までとの関係がまったくの逆になっている。一点攻勢、それほど今の状況に似合う言葉はないだろう。
「高校時代、俺は優秀な人間だった。それこそ、海外留学も視野に入れるほどにな。それに、お前は知らねぇだろうが家同士の繋がりがあったんだよ、俺とお前はな」
「家同士って……」
「俺とお前は、家同士が決めた許嫁だったんだよ。そもそも日本に留学できたのも、俺との顔合わせの意味が強いがな」
「なっ……!?そんな……」
許嫁。つまりは家同士が結婚を許した婚約者同士ということだ。古いしきたりでもある独自の風習なので現在ではほぼ消えかけている死語だがーー。
「……そういう、ことだったのね。龍騎さんとの結婚にあれだけお祖母様が反対していた理由が、分かったわ」
北欧の名家、その当主である雪音の祖母は経済の荒波を乗り越えて一世一代で自ら梶をとる企業を世界に名を轟かせるまでにのしあがらせた実力者だった。つまり、雪音の結婚について反対したのも、日本への留学を認めたのも、全ては政略。現代にあるまじき行為だった。
「俺の親はかつて名のある一代企業、セブングラスホールディングスの創始者だったからな。おおかたパイプ作りの一貫だったんだろうよ、あのババアにとっちゃな」
けたけた笑いながら嘲るように挑発する卓。それを楽しむように、苦いコーヒーを挽くように、続ける。
「お前が龍騎とくっついたせいで、その話は消えた。……だが、そのせいでウチはお前の家との契約を全て破棄されて倒産の危機に立っちまったんだ。そりゃそうだよな、年間売り上げの約三割を急に無くしちまったんだから。それだけ、お前の家はデカかったんだ。向こうの責任だっつっても、責任あるのはウチだって門前払いだしな……本当、自分勝手だよなぁ……」
「……………………、」
彼が、卓がどんな道を歩いてきたのかは想像に難くない。得るはずだったもの全てを一度に無くし、未来も、希望も、生きる意味すら見失うような生き地獄。それは確かに不幸の極み、理不尽に尽きない。
けれど。
「……繭愛が産まれてから不幸になったというのはどうしてなの?これは私の問題で、あの子には何も関係ないわ」
それは、分からない。繭愛は龍騎と雪音の、自分達が貰い受けたたったひとつの贈り物。それが卓の話とどう繋がるのか、雪音には理解できなかった。
「簡単だ。誰にも望まれてない出生だったからだよ」
「ーーッ!それは……!」
「本当は強引にでも連れ戻すはずだったらしいんだぜ?せっかくの駒だからな、失くすには惜しいと思ったんだろう。……だがそんな矢先になって、お前に子どもができた」
卓の表情が怒りの赤を通り越して紫に変色していく。もはや醜悪なバケモノだ。
「子連れは政略にも使えねぇ。一気に価値が落ちたお前は家から見捨てられた。……許嫁の俺ごとな」
それは、あまりに残酷で。夢もなければ光もない辛い現実だった。望まれない出生、これほどの不幸がこの世にあるだろうか。
だが。それでも。たった二人、龍騎と雪音は我が子のの産声を聞いたとき、娘の健康を、幸せを、人生を、願った。誰からも望まれていない訳ではない。現に繭愛はこうして、生きている。それを咎められる権利など、誰も持ちようはずがない。
「……それでも、罪を犯していい理由にはならない!周りがいくら望んでいない命だって、あの子は今日を生きてるのよ!誰にも蔑む権利なんてない、あの子の……繭愛の人生は繭愛のものなのよ。あなたにそれをいう資格なんてないわ!」
スマホを取り出し、入れてあるダイヤルにかけようとする雪音を、卓は風のような速度で抑えつけて拘束した。無理矢理雪音の手からスマホを引き剥がし、床に投げ捨てる。
「だーからぁ、それで迷惑被ってるのは俺だけじゃねーんだよ。てめぇら家族の幸せ、俺を含む大勢の幸せ、お前は目先の幸福に飛び込んでそれを選んだ。……何人も不幸にして産んだのが!てめぇの娘なんだろが!」
卓は空いたもう片方の手を握り、雪音の腹部に叩きつけた。怒りに染まった渾身の拳が、内臓まで衝撃を浸透させる。
「かっ……は……!」
「てめぇが!選んだ選択が!周りを不幸にしたんだ!許せる訳がねぇ……てめぇの都合で俺を振り回すんじゃねぇ!」
私怨を口にしつつ、何度も何度も、卓は拳を打ち込んだ。臓腑にダメージが来たのだろう、雪音の口から真紅の血が吐き出される。
家族が一同に集まるリビングで、暴力と怨念、卓の怨嗟の声が響き渡る。窓の外から差し込んだ夕日が、見えないカーテンのように柔らかく差し込んだ。
「あゔっ……!」
殴られた勢いで雪音は突き放された。恍惚と光る卓の目には、鈍い光が差し込んでいて黒く塗り染まっている。
「……てめぇが選びとった大事もんを、俺が全部ぶっ壊してやるよ、雪音」
頬をひきつらせる卓。その笑みに、雪音は本能的に恐怖を感じた。それほど卓の表情は、ひどく歪んでしまっていた。
「はぁっ……はぁ……何を……する気、なの……」
痛みで意識が朦朧とする中、血で鉄味の口からなんとか言葉を捻り出す。それを見た卓は、雪音の前髪を引き上げて顎を掴み、うわずった声でこう言った。
「鈍いやつだな、わかってんだろ。お前の娘……繭愛に俺と同じ、絶望をプレゼントしてやるんだよ……!もう生きたいなんて二度と思えないくらいになぁ」
「ーー!」
雪音の顔が、一気に青ざめて絶望の色に染まる。意識を全神経に巡らし、すがりつくように卓に懇願する。もう泥棒がどうとかお布施の金がどうとかではない。
「っ……駄目、ダメよ、それだけはやめてちょうだい!……あの子は何も知らないの。あの子は何もしてないの、ただ生まれてきただけなの。だからーー
そこまでいって、雪音は卓の瞳に色がないことに気づいた。ーー否、そうではない。色が見えないほど興奮していたのだ。
「そうだ、それだよ!俺が見たかったのはそのカオだ!お前が絶望した表情、全てを無くしたその瞬間!あのときの俺と同じだ……」
奇怪な笑い声を上げながら卓は続ける。それはまるで、悪魔が魂を吸い上げるような、人の発声器官ではとても捻り出せないほどかん高い声だった。
「龍騎は確かに俺のシンユウだった。そう、だったんだよ。俺が今日まで耐えてきてやったのはな、俺ん中のミジンコみてぇに小さいプライドが許せなかったからだ。あいつがいなくなっちまったあとじゃ、関係ねぇ!」
「卓……あなた……!」
「お前も気づいてるんだろう?あの銀髪、紅い眼、お前のババァにそっくりじゃねぇか……あのクソったれた強欲女の血はまだ引き継がれてるんだ、俺が止めてやらなきゃなぁ……」
そういうと、卓はタンスの上にあったガムテープを手に取って怯える雪音の口を塞いた。
「何をする気なの、やめて、お願いーーー!」
「母親になったんだ、娘への罰を与えるのは親の役目なんだろ?ちょっくら付き合ってもらうぜ」
今度は雑誌をまとめるナイロン製の紐で雪音の両手両足を縛りあげる。なんとか逃れようと必死で抵抗するものの、恐怖で身体がすくんだ雪音ではそれも叶わない。
繭愛、お願い。逃げてーー。
全身を拘束された雪音には、もう、祈ることしかできなかった。夕日は次第に落ち始め、夜の闇が僅かずつ住宅街を包みはじめた。
朝から墓参りで自転車を飛ばした梶樹が自宅へ到着したのは太陽が傾き始めた午後四時頃だった。今日は盆休み、誰もいない高校の体育館はなんともいえない空気があってひとつの風情を醸し出しているような気がした。
自転車を玄関の脇に止め、家の中に入ると梶樹は靴がひとつ余分に置かれていることに気づいた。小さな、黒い革靴。けれどその持ち主は梶樹がよく知っている人物だ。
その予想は当たっていたようで、部屋の奥からぱたぱたと銀の少女が玄関に飛びこんできた。
「おにぃちゃん、おかえり」
それがさも当然のようにねぎらいの言葉をかける、長い髪を大きなリボンでくくった、繭愛。もともとが色白なためか、純黒で統一された学生服がよく似合う。
「ただいま。……また、来てたんだな繭」
「ママが、今日は用事あるからって。……だからずっと、待ってたの」
「悪い、墓参りしてきてたんだ。ついでにちょっとバスケの練習に精を出しすぎちゃってな。今日はどうする?泊まっていくか」
こくりと頷く繭愛。それから少し寂しそうな表情で、
「うん、今日はママは外で泊まるっていってたから大丈夫。でも……あんまり忙しくしてるから、ちょっと心配で……」
「ああ、雪音さんは確か元弁護士目指してたっていってたから、多分その関係なんだろな。じゃあ、明日は俺の爺ちゃんが来ることになってるし、どこかプールでも一緒に行こうか」
それを聞いて、繭愛の瞳がキラキラ輝いた。雪音がかまってくれない寂しさの裏返しなのか食いつきがすごい。
「ほんと!?じゃあわたし、おにぃちゃんとウォータースライダー、滑りたい」
「一緒には危ないと思うけどな……まぁそれは行ってから考えようか。朝には水着、用意してな」
「うん、ありがとう、おにいちゃん」
そうして、繭愛はにこっと優しい微笑みを浮かべた。まだ天真爛漫なこの歳にも関わらず、繭愛の笑顔はどこか鈴のような安らぎがある。梶樹はそんな繭愛の笑顔が好きだった。
それからはあっという間で、汗だくのユニフォームを洗濯機に放り投げて夕飯の支度をしているといい時間となった。
ぼちぼち夜のバラエティーが始まるころ、夕飯用に置いておいたパスタを梶樹は大皿にごっそり盛り付けた。
量がいささか物足りないかとついでに冷凍のピラフも添えておく。味気ないが、二人ならこれで充分だろう。
もくもくと食していると、不意に、繭愛が思い出したようにこういった。
「おにぃちゃん、今日、ね……いっしょに寝ても、いい?」
「ん?別にいいけど、もう俺がついてなくても寝れるんじゃないか」
葬儀の前後は精神的に不安定だったためか、繭愛は夜泣きで眠れない夜にはいつも梶樹の側にいた。夜中に飛び起きてきた繭愛を最後になだめたのは三週間ほど前のことだった。
「夏休み入ってから、ずっと会えなかったから……だめ?」
繭愛必殺の上目遣いに梶樹の中の天秤ががくっと上下する。少し考えてみたものの、特に断る理由もない。別に何かあるわけでもないので……などと内心ではいいつつも最初から同じ布団に入るのはこれが初めてなのだった。
「……いいよ、繭がしたいなら。先に風呂入ってきな」
「うん、ありがとう、おにぃちゃん。じゃあわたし、先に入るね」
繭愛はぴょこん、と食べ終わった食器を台所へ安置すると奥にあるバスルームへと消えていった。それを見届けると、梶樹は一息に立ち上がって同じように自分の食器を流し台の側へ置いた。
「さて、と。俺も片付けしなきゃな」
そう言うと、ぐいと腕まくりをして使用済みの食器がうずくまった流し台の蛇口を捻った。