11章 私怨
なんとか繭愛の機嫌を取り戻し、ほっと安堵の息をついた梶樹は配布された仏教の教本に目を通した。
あのあと知ったことではあるが、繭愛はまだ小学五年生にも関わらずそこそこ胸囲の発達が進んでいるようである。見事な土下座のご褒美と称して雪音がこっそり耳に入れた情報ではあるが普段から繭愛は少し大きめのパジャマを着ているせいか同じ布団で寝泊まりしていても梶樹は全く気づかなかった。
そんなわけで隣にいる少女に本能が半ば強制的に視線を向けるよう、指令を飛ばす。それを鎮めるために漢字の羅列である教本に意識を集中するものの、もとより宗教に興味などさらさらない梶樹のことである。集中など全くできずに意識が本能に完敗を宣言した。
そんな葛藤する梶樹の視線に気づいたのか、繭愛が耳元でこっそり囁いた。
「おにぃちゃん、これいつまで続くの……?」
……どうやらバレてはなかったらしい。しかし今、前で住職さんが読み上げているページはまだ三分の一にも満たない。呪文のように読み上げているうんたらかんたらは、まだ先が長そうだ。
「まだまだ続きそうだな。今は……ほら、ここのページ」
自分が見ているページを開いてやると、繭愛は流石に眉をひそめたていかにも嫌だという表情を向けた。正直いって、この時間が好きという人はいないだろうと梶樹は心の中でそう思った。
あの男ーー、七草卓はどこへ行ったのか、全く姿が見えなかった。といっても梶樹はもう会いたいなど一寸たりとも思わないが。ただ、雪音を問い合わせることはできても本題を話してくれるかは微妙なところだ。
会話から察するに、雪音は過去のことに娘である繭愛を巻き込みたくないようで執拗に関わりを避けている傾向がある。例え頼んだにしても自分から繭愛に伝わる危険性を考えると、言いたくても言い出せないだろう。
そんな解釈もあってか、梶樹は無意識セクハラ容疑で謝罪の嵐をこなしたあとも卓のことを聞こうとはしなかった。
何があったのか知りたいのは山々だが、当事者でもない梶樹がこれ以上突っ込むのはいささか筋がズレているようにも感じた。
そうこうしているうちに焼香の番が回ってきた。もうはじめから頼まれていることなので、梶樹は繭愛の手を引いて壇上の前へ進み出た。
「……ん、……」
親族席がすっからかんとはいえ相応に大勢の前で注目されるのは緊張する。居心地悪そうにする繭愛の手を、離れないようしっかり握りしめてやる。
棺の前で手を合わせ、合唱。祖母から受け取った茶と白のちゃちな数珠を左手にかけ直し、繋いでいた右手でもって抹香をつまみ上げる。そのまま白い煙が糸を引く金造りの香炉に指先を使って落としてやる。
この形式の葬儀は日本の伝統文化のひとつではあるが、毎度のことながら手順が複雑かつ多様でかなり煩わしい。
死者との交渉、心身の洗浄など線香に関してでも意味合いは深くとられている。しかし、それはあくまで感受性の問題であって死人が再び口を聞くことはあり得ない。天に昇って神様にでもなるのなら、今頃天上は住民過多だろう。
死後の、世界。あるのかどうかも分からないそんな抽象概念は、冥府の世界ヴァルハラ、救いの土地極楽浄土、はたまた、前世の悪徳や美徳で別れる閻魔裁判ーー。さまざまで多様な解釈をされながらも実証できないもの。不可能な証明理論だ。
といっても、先人達のそんな豊かな発想力が現在の日本を作ったのだからそうそうと馬鹿にはできないのだが。
繭愛も焼香を済ませてもとの席に戻ると、また長いお経の読解時間が訪れる。疲れたのか、梶樹の肩に寄りかかって繭愛は眠りこけてしまった。
両サイドの祖父母が先に控えに戻りなさいというのでふらつく繭愛を支えながら、梶樹はやっとの思いで最初の応接室へと戻った。
その後は特に変わったこともなく、式はつつがなく終了の兆しを見せた。遺骨を拾うのは親族だけなので、実質は雪音がひとりで執り行ったという。遺骨を墓石に入れるのはまた後日、ということで式は拾骨を見届けて解散となった。
これで、龍騎も浮かばれるだろうと誰もがそう思った。
ーーはずだった。
式から約二ヶ月後、世間は盆休みである八月十四日……。
雪音は、とあるホテルのロビーにいた。
「じゃあ、この部屋にいるんですね?」
「はい。お客様はどういった関係で……?」
疑問の表情を浮かべる受付のホテルマンに、雪音はにっこりと笑みを浮かべた。
「古い友人です。しばらく会えていなかったから、心配してて」
「そうでしたか。では、いらっしゃらないようでしたらこちらフロントまで来ていただければメッセージを残せますのでご利用くださいませ。上階へはあちらのエレベーターを」
親切に教えてくれたホテルマンにひとこと礼をいうと、雪音はエレベーターの前に立ちいくつも並ぶ上階へのボタンを押した。
五階、301号室。それが受付にあった人物が借りた部屋だった。足早に探し、見つけると三度のノックを繰り返す。
扉をノックする音がしんとした廊下に流れて、掻き消えてゆく。だが、扉が開く気配はない。
「留守……?いや、居留守なのかしら?」
フロントで鍵がないのは確認済みである。つまりはこの部屋ないしホテルのどこかに彼はいるはずだ。居留守を警戒し追い討ちのようにノックを続ける雪音。だが、そのとき不意に後ろから声が聞こえた。
「おい、誰だ!そこは俺が借りた部屋だぞ。なにしてやがんだ」
ぶっきらぼうなその言い方に、雪音は心の底から怒りを感じた。
「卓くん……いや、卓。あなたに話があるわ」
「っ……!雪音、お前つけてきたのか」
「私の家について来てちょうだい。……答えは、分かるわよね?」
卓は舌打ちをかまし、面倒くさそうに言った。
「断る……といえば?」
「それ相応には、責任をとってもらうわよ」
雪音は鞄からスマホを取り出し、画面を見せた。電話のダイヤルには119と表示されている。
「ちっ、このヤロ……」
いらつきながらも、卓は仕方なく荷物をまとめてホテルをあとにした。
数十分後、天聖家。
家族が揃うはずのダイニングテーブルを隔てて、卓と雪音は向かいあった。
「で、雪音。まずは何で俺を呼んだのか聞かせてもらおうかな」
「とぼけないで。全部分かっているくせに、今更いうことがあるの?」
強い怒りを含んだ声で、雪音は言い放つ。
「単刀直入に言わせてもらうわ。……あなたなんでしょう?龍騎さんの葬儀で預かっていたお布施を盗んでいったのは!」
ーーそう。葬儀はつつがなく終わるはず、だった。
解散の後に雪音はあることに気づいた。お布施ーー、つまりは友人達から預かった葬儀代がまるごと控室から消えていたことに。
本来、葬儀には莫大な費用が必要なものである。規模にもよるが、一般的な葬儀でも約百万から百五十万ほどの相当な出費が必要なのだ。
ほとんど駆け落ちで婚約した二人はそれを援助してくれる親族は誰もおらず、貯金もそれほど豊かではない。
それを見かねた高校、中学の友人達が代わりにお布施を恵んでくれたのだ。でなければ、まず葬儀など執行できない。
そんな中でそのお布施が盗難にあった。これは到底見逃せる範囲の話ではない。れっきとした犯罪だ。
「はぁ?俺がコソ泥したっていいたいのか。じゃあいったいその根拠はどこにあるんだ。……というか、まてよ。なんでそもそも俺が容疑者扱いされなきゃなんねーんだ」
「他の皆は葬儀に参加してたのに、あなただけは焼香からずっと姿が見えなかったじゃない!お布施が入っていた封筒を置いてあったのは、親族の控室。焼香のときは誰もいなかったはずよ。
……それにあなた、あのとき確かに無職って言ってたわよね。なんでそんな人があのホテルに泊まってるのよ……!!」
卓が泊まっていたホテルは、みっつも県を超えた先にある都内でも有名な高級ホテルだった。当然、無職の卓では一泊すらもできない金額である。
「ハッ、だから俺だってか。つくづく救われねぇ女だな、それはあくまで状況証拠だ。結論づける物的証拠じゃねぇ。今のはあくまで憶測、仮定すらない証明式に価値はないんだよ」
「……じゃあこれはどうかしら?」
そういうと、雪音は再度スマホの画面を卓に見えるように突き出した。それには、再生ボタンが表示された黒い画面が浮かんでいる。
「なんだ、こりゃ?」
「葬儀場の防犯カメラよ。私が弁護士資格を持ってるの、あなた知らなかったわよね。……努力はしたわ。実家に見捨てられても、生きられるように」
「ーーッ…………!」
卓の表情が、みるみるうちに変わっていく。額には血管が浮かび、目は大きく見開かれ、呼吸は吸い込む音が聞こえるほどに強くなる。
「……中にあった金額、全部返してちょうだい。それなら私は通報はしないから。……これはあなたへの精一杯の贖罪だと思ってる。私は娘をこんなことで不安にさせたくないの」
「ふざっけんな!そんな……そんなことで許せると本気で思ってんのか!」
卓はテーブルに拳を打ち下ろし、激号し、声を張り上げ、あらん限りの音量を腹の奥から捻り出す。それから不敵に笑みを浮かべ、震える声で語り出した。
「俺がなぁ……なんでこんなに落ちぶれたのか、お前は知らないだろ?なぁ、いってみろよ。雪音、お前は俺に何をしたんだ?」
「それは……」
雪音は、卓にもう一度会ったときから感じていた閉塞感の原因ーー、それを打ちあけた。
「私が、あなたとの約束を破って駆け落ちを選んだからでしょう?」
「違う!」
びくっ、と今度は雪音の身体が震えた。思いもしなかった回答に困惑の色が広がった。
「確かに、直接の原因はそれだ。……だがな、お前がしたことはそれだけじゃない。雪音、お前の娘……繭愛っていったよな」
「そうだけど、それが何のーー
「大有りなんだよ!俺が本当の意味で不幸になったのは、お前があの娘を産んでからなんだよ!」
「…………え……?」
その言葉に、雪音は雷にでも打たれたような衝撃を受けた。
「繭愛が、なんで……」
陽がだんだんと落ちていき、次第に暗くなっていく空の下でその時は刻一刻と近づいていった。




