10章 運命の線路
卓の笑みを見た雪音は何か見えないものに支配されているように、身体が震えた。
「驚いたぜ、龍騎が死んだってさ。あいつ、誰よりも他人に尽くしてたのにな……まったく残念だよ」
頭をぽりぽり掻きながら吐き捨てるようにいう卓。風呂に数日入っていなかったせいか煙のような白いフケが大量に舞い上がった。
「……あなたには、悪いことをしたと思ってるわ。でも今日はお別れをいうために皆に集まってもらったのよ。……子どもたちも見てる、私情は出さないで」
「そういうな。俺だって龍騎の最後の面を見にきたんだ、このまま参加させてもらうよ。今の俺は職無しの自由民なもんでね。……で、雪音、お前の子はどこにいる」
「……!なんで、それを……」
「ここに来る前に松川に会ってな、あいつから聞いた。まあ写真は見せてもらったから顔くらいは分かるが。……お前、本当に罪なやつだな雪音」
雪音は言葉に詰まった。松川というのは高校時代の弓道部で雪音と同い年の男で龍騎、そして卓とは後輩にあたる人物だ。
「さてさて。どこにいるのかな……っと、見つけた。やっぱ目立つなぁ、銀髪は」
「……娘に何かあるの」
「挨拶だよ、アイサツ。俺と龍騎は無二の親友だったんだから顔くらい覚えてもらおうと思って、な」そ
雪音は内心、歯噛みをした。容姿が知られている以上は誤魔化すこともできない。現にこの場で銀髪の子どもは繭愛だけなのだから。
自分がしたことを考えると、雪音はこの卓に繭愛を会わせることは避けたかった。
「どうする?俺からいってやろうか」
「……いいわ。私が連れてくる。その代わり、変なことはいわないでちょうだい」
それを聞くと、卓はあの鳥肌が立つような笑みを再び浮かべた。それから、
「喪服の貸し出しくらいあるんだろ。着替えてくるから、向こうの応接室に行ってるんだ」
とだけ言い残し、その場を去った。見えなくなるまで見ていた雪音は自分が冷や汗をかいていることに気づいた。じっとりとしたそれは根本的な恐怖から来るものと、同じ。
「…………!」
拳を握り、唇を噛み締めながら、雪音は娘がいるほうへと歩みを向けた。
「繭愛、お願い。お父さんの昔の友達が繭愛に挨拶したいっていうのよ」
六畳間の畳が敷き詰められた会場の応接室で天聖親子は机を挟んで向かいあっていた。この場には雪音と繭愛、それに梶樹とその祖父の四人しかいない。
けれど、当の繭愛は梶樹の腕にくっついたまま離れようとしない。頭を横に振り、無言でそれを拒否する。
代わりに梶樹が雪音のお願いに答えた。
「さっきの、話してた人ですよね。……どうしても、会わなきゃ駄目ですか?」
この二年で多少緩和されたとはいえもともと虐めを受けていた繭愛が他人を受け入れにくいことを梶樹はよく知っていた。
ましてや、まだ父親を亡くした精神的ダメージが癒えていないこのときに無理をさせるのはあまりに酷だろう。
だが母親であり梶樹より何年も長く繭愛と過ごしてきた雪音なら、そんなことは分かりきっているはず。つまり、繭愛の精神状態を差し置いてでも会わせなければいけない何かがあの男との間であるということだ。
だから、これは確認。梶樹が自分で考える説に裏付けをとるための証明でもあった。
「……ええ。どうしても、と言われてて。お父さんとしばらく会えなかったから、せめて遺族に挨拶だけでもいいたいんだって」
この言葉に、梶樹は内心ため息をついた。雪音は間違いなく嘘をついているいつも明るく素直な雪音がここまで頑なに通すとはよっぽどの理由があるらしい。
「俺も、同席していいですか」
しばし考えたあと、困り顔の雪音にそう告げた。
「そんな……梶樹くんにはいつも繭愛の面倒見てもらってるのに、こんな……」
「どうしても会わなきゃいけないんですよね?だったら、俺がついていきます。……できることは、やれるうちに返しておきたいんです」
これは、梶樹の自負でもある。恩返しなんていつできるか分からないから。人は案外簡単に離れていってしまうからーー。
少し間を空けてから雪音は
「……大人になったわね、梶樹くん。あのときはまだあんなに小さかったのに」
「それは触れないでくださいよ……」
からかい気味に場をひけらかすと、繭愛に向かって
「繭愛。梶樹くん、ついてきてくれるって言ってるわ。私も知らない人に会いたくない気持ちは分かるけど、今日だけはママのお願い聞いて欲しい」
銀の少女はそれを聞くと、隠れがちだった身体を少し離してうつむきがちにポツリ、と呟いた。
「……おにいちゃんと、ママがいっしょなら」
雪音は救われたような表情で二人に感謝を口にした。
「ありがとう……繭愛。それに……梶樹くんも。私もいっしょにいるから……!」
だが、その言葉に梶樹は、雪音には悔しさの色が声に混じっているような気がした。
梶樹の祖父に一度別れを告げて別の応接室に移った三人は、そこで例の友人がやってくるのを待っていた。別室といってもほぼ内装は変化なく、強いていうならば奥に飾られた掛け軸と申し訳程度に置いてある生花くらいのものだった。
心、ここにあらず。繭愛の緊張した空気が嫌でも肌に突き刺さる。というかこの話を持ち出した雪音までもがどこか落ち着きのない様子であり、それを決定づけるように目線が浮いていることを梶樹は見逃さなかった。
雪音さんがこんなに緊張するなんて……本当に何があるんだろう。
自分のくせっ毛を手櫛で直しながらそんなことを考えていると、突然木造りの扉がガン、と音を立てて開いた。強引に開け放たれた扉が悲鳴をあげるようにぎぃぎぃと軋む。
「悪ぃ、待たせたな」
それだけいうと黒の喪服に身を包んだ男は遠慮なく三人の向かいの席に豪快に腰を下ろした。
男の顔には、不健康そうにニキビが潰れたあとが点々としていて髪は色が薄くなり茶に近い黒でところどころ白いものが見受けられる。
「さて、と。……うん?そっちの坊ちゃんは誰だ?俺ぁ呼んだ覚えはねぇけどな」
予想外の事態に苛立っているのか、あぐらをかいた男はすでに傷んでいる頭皮をがしがし掻きむしる。
梶樹は一歩感覚で進み出て、頭を下げてから名乗った。
「はじめまして、水影梶樹っていいます。……龍騎さんの昔馴染みと聞いてますが」
すると、男ーー、卓は漆塗りの机に肘をつき、ため息まじりに吐き捨てた。
「ああ?お前に用なんてねぇよ。とっとと帰れ。……おい、雪音、なんでこんな野郎連れてきた?」
梶樹の存在が五月蝿い小蝿のような口ぶりに、梶樹は雪音が何故この挨拶をしなければならなかったのかが少し、分かった気がした。
ーー他の友人達とは違う、何かがこの男にはある。
それは確信だった。
「この子は私の家のご近所さんの子で、娘が……繭愛が一番仲の良い子なの。龍騎さんを亡くしてからはずっと寝泊まりしてたくらいで……」
雪音が補稿するように付け足すと、卓は額にシワを作った。
「はぁ?おいおい、まだお前小学生だろ。もう男作ってやがんのかよ……ったく、どういう教育してやがんだ」
卓は頭を抱えるような仕草をすると、梶樹に向かってこう、言い投げた。
「おい、水影とかいったな。今すぐそこの嬢ちゃんと馴れ合うの、やめろ。不幸になっちまっても知らねぇぞ」
「……名前も知らない人に言われても」
そもそも挨拶に来たのだから自分がいなくても何も支障なないだろうに、と梶樹は至極真っ当に考える。
そして、分かった。この男は決して挨拶などする気はさらさらない。むしろオマケのような自分に対する敵意の向け方を見ると、結論は早々に降りてきた。
(雪音さん、そして……繭。にしては当たりが強いな……)
何をしたいのかがいまいちよく分からないが、概ねこの予見は正解だろう。梶樹は雪音が何故この人と繭愛を会わせようとしたことに、ますます疑問を強めた。
「俺は七草卓ってんだ。警告はしたからな、あとで何があっても俺は知らねえぞ」
そうして梶樹の顔を一瞥すると、卓は梶樹の後ろで隠れがちになっている繭愛に視線を向けた。それに気づいた繭愛の肩が、びくんと跳ね上がる。
クーラーが効いているとはいえ夏の猛暑が襲いくるこの季節にも関わらず、繭愛は梶樹の腕にすがるようにしがみついて身体を震わせた。
「嬢ちゃん、繭愛って名前だったよな。親が親なら子も子ってことか。ほんっと自分勝手だよなぁ……てめえは幸せな道選びやがって残された人間のことなんかひとつも考えてねえんだからよ。他人が進むはずだったレールを脱線させたことに気づいてすらいねえ」
「ちょっと……!」
止めようとする雪音を無視して、卓はさらに続けた。
「悪いことはいわねぇ。嬢ちゃん、ママみたいになりたくないならそのにぃちゃんと別れることだ。じゃねぇと、知らないうちに大事なもんを傷つけることになっちまうぞ」
「……っ……!」
繭愛が間に受けたのかどうかは、分からない。だが、彼女がその目を見開き動悸を早くしただけでも梶樹には十分だった。
吐息がかすれて呼吸の音が激しい。胸に手を当て苦しむ過呼吸手前の繭愛を、梶樹はそっと抱きしめた。
「……謝ってください」
そう、卓に向け言い放つ。
「はぁ?なんで俺が」
「聞こえなかったんですか?謝ってください、と言ったんですが」
「ふざけるな!さっきからてめえナニサマのつもりだ。しゃしゃり出てきやがって、部外者なら黙って蚊帳の外出てやがりゃいいんだよ!」
そのあまりの言い草に、梶樹の中にある何かがブツン、と切れた。
「それはこっちの台詞だ!あんた、いったいなんなんだ。雪音さんは……繭は、龍騎さんを……家族を亡くしたんだ!今日は最後の別れをいう大事な日で!みんながみんな龍騎さんを送り出そうとしているのに……あんたは何をしに来たんだ!!」
「っ……!このクソガキ……知った風な口聞くんじゃねぇ!お前に何が分かるってんだ、俺の持ってたなにもかも奪われて……それを起こした主犯になんで謝らなきゃいけないんだ、ああ!?」
「いい加減にしなさい!」
激化する二人に水をかけたのは、雪音だった。普段決して見せなかった険しい表情をつくり、卓を睨みつける。
「卓くん、私いったわよね?娘の前で変なこといわないでちょうだいって」
「変なこと?どこにあるってんだ。やったことをやったといって何がおかしい!人がわざわざロクにしてないだろう忠告をしてやってんのに、聞く耳も持たないってか。あーあ、やめだやめ。……おい、クソガキよく聞けよ。俺の優しさを素直に受け止めなかったこと、後悔するなよ」
捨て台詞を言い残し、強引に引き戸をこじあけると卓は悪態をつきながら出ていってしまった。
残された梶樹と雪音は嵐が去ったようにひとつ、肩を下ろした。だがーー。
「繭、大丈夫?」
繭愛はまだ、収まってはいなかった。荒い息を繰り返し、苦しそうに胸を押さえている。
「おにぃ……ちゃん……」
消えてしまいそうな小さな声で呟くと、繭愛は救いを求めるように梶樹の正面から飛び込んだ。
それをなだめ、ゆっくりと背中をさすってやると、
「わたし、わたしっ……!側にいちゃいけない子なの……?いっしょにいたら……大事な人を、ママやおにぃちゃんを傷つけちゃうの……?」
梶樹の胸から顔を上げた繭愛の瞳は、もう今にも泣き出しそうなほどうるんでいた。そんな彼女を見て、梶樹は凄まじい憤りを感じた。
……なんで、繭がこんな顔しなきゃいけないんだ。
さっきはああいったものの、実のところをいうと梶樹は言い合いなどしたくなかった。大きな声をあげて、繭愛を怖がらせたくなかったから。感情を剥き出して、同じ土俵に立ちたくなかったから。
でも、できなかった。繭愛が怯えているのを見た途端に、さっきまでそれを抑えていたはずの何かがあとかたもなく消え去ってしまった。
結局のところ、梶樹はまだ子供だった。ここに来る前に雪音からもう大人だね、なんていわれたけれど。根っこのほうはまだ成長しきっていない、そう見せているだけなのだから。
感情に任せて行動してしまうのはあの男がいった通り、クソガキのすることだ。だが最初から自分の気持ちで動いていた卓にもその定理は当てはまる。完全なブーメランだが、結果は折れてしまった梶樹の負けだった。
それを飲みこむように、梶樹は自分の中の憤りを無理矢理腹の底に押し込むと、真摯に答えを待つ繭愛のその身体を脇腹からこしょこしょとくすぐった。
「ん、ふっ、あ……!おにぃ、ちゃん……ちょっ……何、するの……」
全く予想しなかった行動、そしてその感覚から逃げようとして必死に身を捩って抵抗する繭愛。けれど、梶樹はやめようとしない。むしろどんどん手を上に持ち上げていく。
こしょこしょこしょ。
身悶えする繭愛を抱き寄せて、さらに深いところまで指を伝わらせる。
「んああっ……だめ、だめだよおにぃちゃ……っん!?待って、そこ……!やだ、待ってよぉ……」
繭愛の華奢な身体のラインに沿って昇っていく梶樹の手は、とうとう終点ーー、脇の下まで到達する。
そこで梶樹はとどめとばかりに上げきった両の手を、一気に繭愛の腰まで引き下ろした。
「ひゃあああああん!?」
急に動いたせいか、繭愛の身体がびくんと跳ねるように飛びあがった。応接室に響く、甘い声。外から聞いたら間違いなくいかがわしいことしてました認定を食らうだろう。
梶樹の手の中で、肩で息をする繭愛。それからくすぐられたことに反抗するように、梶樹の胸をとんとん叩いた。
「ぐすっ……、おにぃちゃん、ひどいよ……わたし、くすぐり弱いのに……しかもあんな、あんな……」
動悸で赤くなった頬を膨らませながら反抗する繭愛。だが、当の犯人である梶樹はあまんじてそれを受け入れ、
「ごめん、ごめん。ちょっと……な。……こんなに可愛い反応する繭が、俺を傷つけることなんてあり得ないよ」
ぴたりと繭愛の手が止まる。その目には、もう恐怖からくる怯えは見られない。一瞬の間、その宝石のような瞳で繭愛は梶樹を見上げた。……しかし、思い直すようにそっぽを向くと、恨みがましくこう呟いた。
「でも、おにぃちゃん、わたしの反応みて、楽しんでた。やめてっていったのに……」
脇腹を押さえて軽蔑するような目を向けられた梶樹はさすがに慌てふためいて、
「ごめん、ほんとにごめん!途中まで慰めるつもりだけだったんだけど、あんまり繭がいい反応するからついつい楽しくなっちゃって……」
手を合わせて懇願するように謝るが、それを見た繭愛はやっぱり頬を膨らませてから
「……やっぱり楽しんでたんだ、おにぃちゃん」
……ジト目で梶樹の眼を覗き込むと、ぷい、とまたそっぽを向いてしまった。
言質を取られてしまった梶樹はすでになす術なく、ご機嫌ななめになった繭愛にもうひたすら謝り倒すしかなかった。
そんな様子を見ていた雪音が、くすっと笑った。
「梶樹くん、素直すぎよ。そこは嘘ついてでも誤魔化すところでしょ。……でも少しだけ、少しだけだけど、なんで繭愛が梶樹くんに懐いたのか、わかった気がするわ」
「雪音さん……」
梶樹が雪音のほうを向くと、雪音は改まって梶樹に、そして娘に謝った。
「ごめんなさい。私のせいで……繭愛にも、梶樹くんにも嫌な思いをさせてしまって。卓くんとは昔、色々あって……それで今も恨まれてるの」
「あの人がいってたこと、心当たりあるんですね」
「……ええ。だから、これは私の問題。あなたが巻き込まれるのは間違ってる。……でも、梶樹くんには悪いと思うけれどあなたにはこれからも繭愛の側にいて欲しいの。この子が虐めから立ち直れたのも、あなたのおかげだから……」
そんな雪音の頼みに、梶樹は考慮する間もなく即座に答えた。
「迷惑なんかじゃないです。俺も、親が亡くなったとき繭に救われたから……。だから、全然そんなことないですよ。雪音さん」
それを聞いた雪音は本当に救われたように、目尻に涙を浮かべた。
「ありがとう……繭愛と出会ってくれたのが、あなたでよかった」
雪音は化粧がとれない程度に持っていたハンカチで涙を拭き取ると、二人に聞こえる程度の声で喋った。
「私はこれから式場の親族席で遺族代表として立たなきゃいけないのだけど……梶樹くん、その間繭愛を頼めるかしら」
その申し出に、梶樹はこくんと頷いた。
それから雪音は、まだ拗ねている繭愛のほっぺたを指先で円を描くように回すと
「繭愛、梶樹くんはあなたのためにああやったんだから、いい加減許してあげなさい。確かにやり方はあれだけど、これじゃあ、ちょっと梶樹くんが可哀想よ」
やり方があれという言葉が梶樹の胸にぐさりと刺さった気がしたが、それは置いておく。母の言葉に、繭愛はーー
「わかって、る……けど、おにぃちゃん、わたしの胸、手おろしたときに触ったんだもん……」
今度は胸のあたりを押さえてそう言う繭愛はほんのり頬に赤みがついている。
逆に梶樹のほうは冷や汗で身体中が急激に冷えていく。
もちろんそんなつもりはない。確かに少々悪戯心が出てしまったのは事実だが、そんなつもりは一切なかった。ただ、普通に慰めても効果が薄いと思ったからのことでーー。
だが恨めしいことに身体はしっかりと覚えていた。そういえば確かに手を下ろしたときに親指に妙に柔らかな感触があったような気がする。
ゆら〜り、雪音が振り返る。怖い。さっき卓にどなったときより怖かった。無言の圧力が梶樹に見えないプレッシャーを与える。
「梶樹くーん?流石に娘へのそういうことは、母親として容認できないわよ……?」
その後、梶樹は精神誠意の土下座を披露しなんとか事なきを得たという。




