1章 梶樹と繭愛
朧気の意識の中で水影梶樹は目覚めた。初秋の季節の手伝いあってか我が身にかかった布団の温もりがとても心地いい。それを払いのけ、身体を起こさなくては今日の一日は始まらない。……が。元来、人間という生き物は気持ちよさを知ってしまうとどうにも意志が本能に従ってしまうわけで。さながら、梶樹がその心地よさに身を任せて二度寝に移ろうとしたのも無理はない。それに今日は土曜日。いつも通っている高校も行く必要はなくそれを前提にしたら意識が眠気に負けそうになった。だが、布団の心地よさを超える感覚が意識が飛ぶベストなタイミングで飛来した。
「おにぃ、まだ寝てるの?」
耳元でこしょこしょと聞こえる、少女の声。その声が耳に入った途端に梶樹の意識が現実に引っ張られる。覚醒しかけた彼の背にはぎゅっとくっついた彼女の身体の温かさが骨の髄まで染み渡る。おそらくは同じ布団に入ってきたのだろう。
「分かってる……今起きるよ、繭愛」
そう返事をした梶樹は未だに拒絶する身体に力を込めて、上半身を起こしてやった。寝ぼけまなこについた目やにを擦り取って彼女がいるであろう方向に手を伸ばした。
「んっ……おはよ、おにぃ」
「ああ。おはよう、繭」
手に触れたさらさらのシルクのような銀髪が、とても愛おしい。自分をおにぃ、といってくれるこの少女だけが梶樹にとって今は唯一の家族と呼べる存在だった。
天聖繭愛。梶樹の3つ下の14歳の少女で現在同居中。同級生男子全てが渇望しているであろう、無防備そのものである寝巻き姿を見せてくれるのは繭愛がおにぃと呼ぶ梶樹をいかに信頼しているか、その証でもあった。見目麗しい彼女の容姿は見る者全てを映えさせる高嶺の花そのものでありロシアンじみた白い肌と透き通るように輝く銀髪は、生まれながらにして得た彼女の武器であり……呪いだ。
「おにぃ、今日はわたしの文化祭だよ。来てくれる約束でしょ?」
じいっと上目遣いで見つめてくる繭愛の瞳は、焔を閉じ込めたように紅い。梶樹にとってこれ以上の価値がある宝石はこの世に存在しないだろう。
「そうだった……ごめん、今からでも間に合うか?」
「へーき。朝作っておいたから早く食べよ」
それだけいうと繭愛は部屋のドアを開けて、とてとてリビングの方へ行ってしまった。離れていった繭愛の温かさがどこか寂しかった。
梶樹は都内に住む高校生で容姿は中性的ではあるものの、バスケ部所属ということもあってか体格は同年代と比べてもがっちりした方である。成績も決して悪いほうではないものの、難関どころに手を出すには及ばない。
あえて同年代との相違点をいうならば繭愛という存在が妹のように思っていても実の妹ではないところだろうか。側から見たら仲の良い兄妹を演じてはいるものの、実態は付き合いが少し長い赤の他人なのだ。
そんな梶樹を彼女がおにぃと呼ぶには深いわけがある。それがどういう意味を持つか、本当のわけは未だ分からない。……心の安全装置であるということを除いては。
そんな繭愛は実際美人の金の卵で覚えも早く、自分には過ぎた娘だとはつくづく思い知らされることが多々あるのだが彼女に起きたことを考えると、ついつい過保護になってしまう癖がついてしまっていた。
布団にしばらくの別れを告げてリビングへと向かうと既に繭愛は席に着いていた。
リビングに置いてあるダイニングテーブルの上にはスクランブルエッグと焼きベーコン、そしてチーズを乗せたトーストが並べてあり、梶樹が席に着いたときには繭愛がストレートティーを注いでくれた。こうしてみると、はたから見たら妹というよりは奥さんといったほうが近いのかもしれない。
「「いただきます」」
サクっとしたパンの食感にベーコンの脂が寝起きの身体にはたまらなく美味かった。繭愛がはじめて来たときには電子レンジも使えなかったことを考えたら、本当に見違えるような成長ぶりだ。ただ、スクランブルエッグは火を通しすぎたのか少し固いような気がした。でも梶樹はそんなところが繭愛のいいところなのだろうとそう思っていた。
「帰りはどうする?片付け終わるまで待ってようか」
「ん……待ってて欲しい。一人だとよく絡まれるから……」
なるほど、と梶樹は頭を抱えた。繭愛と仲良くしたい同級生男子の気持ちも分からなくはないのでそう無下にはできないが繭愛の負担を重んじるならそれは避けるべきだろう。
「よし、じゃあ校門にしようか。そこで待ってるから急がず来てくれよ」
「うん。ありがと……」
ふっと笑みを浮かべた繭愛の笑顔は本当に愛おしい。本気で笑えなくなった彼女ができる精一杯の嬉しさの表現だ。だが、それを見る度に梶樹の心はひどく痛む。そして同時にこの笑顔を守ることこそが自分ができる唯一のことなのだろうとそう決意した。
朝食が済んだ後、梶樹は衣装室の前で悶々としていた。なにしろ繭愛が通っているのはこのあたりでも有名な私立校でわざわざ警備員まで雇うほどの金持ち学校なのだ。それに、繭愛の親類として行く以上はある程度良い服装を心掛けねばいけない。
繭愛自身は気づいていないかもしれないが気をつけなくてはならないのは男子以上に同じ女子だ。例えば真珠が膨大に敷き詰められている宝箱の中でひとつだけダイヤモンドがあったとするならばその価値は確実にダイヤに集中する。
普段はペナルティの厳しい学校生活で抑えられていても、文化祭という名目で繭愛が叩かれるようなことになるのは日常的に不満を募らせているならば決してあり得ない話ではない。
「ひとまず……これにしておくか」
悩みに悩んだ末、気に入っていたジャケットを着て行くことにした。正直なところ他に良い選択肢があったかもしれないがあまり派手なものは好まない梶樹の性格の都合とも折り合いをつけたセレクトだった。
一通り身支度を整えてリビングに戻ると、制服姿の繭愛が待っていた。白を基調としたブラウスと紺に金の紋が入ったスカートがとても可愛らしい。当たり前のことだが化粧っ気など微塵もない。……が逆にそれが繭愛の素養の高さを際立たせている。
「おにぃ、準備できた?」
「おう。ばっちりだ」
屋台を回るだけの金銭は用意したし、スマホの充電もきっちりしておいた。カメラは内蔵のものを使えばいいだろうから問題ない。
「じゃあ行こうか、繭」
「うん、いってきます」
そうして梶樹は壁にかけてある玄関の鍵を手に取るとリビングを出て玄関のドアを解錠した。
ガチャリと音を立てて開く扉。瞬間、目に入ってきたものがふたつあった。ひとつは眩しいほどに輝く朝日。そしてもうひとつ。……見るも無惨に破壊されたご近所さん宅。そして家があったであろうガラクタの目の前には二メートルはあろうかという巨大なバケモノが突っ立っていた。いや、立っていたという表現は似合わない。それはそこに存在するだけで圧倒的な非日常感を作り出していた。
思わず梶樹は我が目を疑った。否、それを認めようとしなかった。現実的に考えてあり得るわけがない。あんなデカいナメクジがこの世に存在するはずがない。
ひたひたと辺りを這いずる様はナメクジそのものだが、どう考えても許容できる範囲を超えている。梶樹は思わず、その場で固まってしまった。
目も口も見ただけでは判別できない軟体生物特有の気持ち悪さが胃の底の底を刺激する。奇妙に動く触覚はねばねばと怪しい粘液をたっぷり帯びて、光っていた。
……と。ナメクジがこちらのほうへ目のない頭を向けた。
「っ!?」
ゆっくりと近づいてくるナメクジの通ったあとがじゅうじゅうと音を立てて、やがて……溶けたコンクリートがまるで熱湯に入れた砂糖のように簡単に。
「なんっ……だよこれ……」
梶樹の顔が恐怖に染まった。
同時刻。何処かのモニタールームの一室で一人、スーツ姿の人間がワイングラスを片手に見えない誰かに言うようにこう告げた。
「はじめようか、死と願いの究極のゲーム、DODを!」