表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

透明な声を聴け

作者: 千利 万里

人生は選択の連続だと誰かが言ったが、私は選択が苦手だ。

 白のブラウスを着ていくか、紺色のシャツを着ていくか。ランチは和食にするか、イタリアンにするか。電車に乗った時にどこに座るか、もしくは立つか。

 あらゆる可能性を考えて、メリットとデメリットを考えて、最終的にその時の自分に任せて決める。

私には革命が必要だ。それはずっと前から分かっていることだった。ただ、それがいつ、どこで、誰と出会ったら起こるのか。それがずっと分からなくて、ただ待っている。


 大学の友人たちが内定先をもらって、いつ内定式があるとか、同期に誰がいるだとか、どこに配属されたいだとか、そんなことを話しているのを横目で見ながらミルクティーを飲んだ。

 新型ウイルスのおかげで、前期はずっとオンラインで講義を受けていた。こんな事を言うと親には怒られるが、私のような怠惰な学生とってラッキーだった。そもそも四年生なので、すでに必要な単位は取っており、それほど大学に来ることはなく、私はゼミの日にある講義だけ取っていた。

 今日は例年以上に長い夏休み明けだった。久しぶりに来る大学は、特に変わり映えもなく、新鮮味もない。良い意味で、おばあちゃんの家に来た感覚だ。でも、みんなマスクをつけていることは、世界が変わった証明だった。

 大学一年生の時、「水道水をミルクティーに変えたい!」とフリーペーパーのインタビューで答えていたヒーローも、あっさり大手生命保険会社に就職が決まった。いつも一緒にいる仲の良い他の二人も、地元の銀行と不動産会社に内定をもらっているらしい。

 「三田ちゃんはどうするんだっけ」

 と当の彼女は、私に水を向けた。地球一周、と答えると、みんな笑った。

 こんな世の中で、よく内定が決まるものだ。ウイルスが蔓延し、夏でもマスクを着用し、倒産する企業が相次ぎ、日本経済も危ないなどという状況を誰が想像できただろう。占い師だって予言できていなかったはずだ。

 食堂にいる学生たちを眺めた。端っこに座っている男子学生三人組。一人は室内だがサングラスをかけていて、もう一人は眼鏡をかけていて小太り、そしてもう一人はリクルートスーツを着ていて顔立ちが整っている。三者三様というか、それぞれ全然タイプが違う。果たして気の合う友人同士なのか、見た目では判別しにくい。

 私はよく人間観察をした。そして、そのためにしばしば疲れた。学生Aとか学生Bとか、そんな風に捉えられたら楽なのに、癖で観察してしまう。そして私が持ち合わせてない、自分が劣等感を抱くスペックを見つけては、自分を傷つける刃物に変えるのだ。

 その三人組には、何の感情も抱かずに済んだ。

 私はミルクティーを飲み終えて、じゃあ帰りますと席を立った。

 「一緒に卒論進めようよー」

 ヒーローは私の腕を掴んだが、その手をぽんぽんと軽く叩いて、バイトあるんだよね、と答えた。

 そう言ったものの、バイトは夕方からなので、いつもの喫茶店へ行くことにした。私が落ち着ける、数少ない場所の一つである。大学を出て公園を突き抜けると、喫茶店への近道になる。その公園のフェンスに、人影を捉えた。制服を着た女の子がフェンスにもたれかかって、顔を覆って泣いていた。

 いつもの私ならさっと通り過ぎるのだが、季節は夏だったこと、バイトは塾講師であること、暇だったこと、昔の自分を思い出したことが理由で、声をかけた。

 ここ、暑くない?と聞くと、指の隙間から私を一瞬睨んだ。

 私さ、今からイエスタデイ行くんだけど、一緒に行く?と続けて聞いてみると、大きくこくんと頷いた。

 一緒に歩きながら、誘ったことを少し後悔し始めた。まず、私は話し上手な方ではない。次に、奢る必要がある。それから、彼女は美人だった。

 彼女はミックスジュースを注文し、私はアイスカフェオレを注文した。さっきミルクティーを飲んだばかりだったことを思い出す。

 席に着いて彼女を見ると、まだ少し涙のあとが残っていた。

 「いただきます」

 そう言ってストローの紙を破り、グラスの中に沈めた。氷とストローがぶつかり合い、カランコロンと爽快な音がする。

 「もう人生を終わらせたくて。色々試してみたんですが・・」

 反射的に手首を見たが、彼女は長袖を着ている。睡眠薬だろうか。

 学校には行っているのか尋ねると、全国一斉休校になって以来、登校していないらしい。特別これといった原因はないのだが、夜眠れない日が続き、食欲もなくなった。どうして生きているのか分からなくなって、毎日しんどい。今日は、今日こそは学校に行こうと制服を着てみたが、やっぱり難しくて色々な場所へ寄り道し、公園に辿り着いた時に、こらえていた涙が溢れ出して止まらなくなったのだ。

 名前、なんていうの。そう聞くと、小川さあやですと、まるで小川のせせらぎのような声で、さらさらと答えた。

 「人生終わらせたいっていうのはさ、今の自分を終わらせたいって事だよね。もしかしたらさ、日本も狭いけどさ、小川さあやっていう、同姓同名の人がいるかもしれないじゃん。でも、あなたという人格の小川さあやはこの宇宙にたった一人、一度きりの小川さあやなわけで。だからなんていうか、もっと自由でいいんじゃない。」

 やっぱり上手に話せないなあ、初対面のくせにこんなことを言ってしまって恥ずかしい、と思っていたら、彼女は泣いていた。

 「あの、もし良かったら、ライン交換してくれませんか」

 泣きながらスマホを操作し、はい、とコードを見せられた。展開が早くてついていけない気もしたが、断り切れず、交換することとなった。

 「私はそこの大学に通ってて、もうあと半年で卒業なんだ。卒業したら何をするか、何になるか決めてなくってね。暇だからいつでも連絡してね。あ、今から死にますっていう連絡はなしね」

 そう言うと、彼女の顔は引き締まった。

 どこに住んでいるとか、何が好きだとか、そういう雑談もできれば良かったが、私は言葉を紡ぎだせずに沈黙の時間が過ぎた。

 小さい頃は、みんなの前でスピーチをするのも平気だったし、休憩時間に友達と集まって話したり遊んだりするのも好きだったし、帰宅してから仲良しの友人に電話すると時間が足りないくらいだった。

 いつからだろうか。誰かの顔色が、態度が、自分の言葉を奪っていく。他人のせいにしてはいけないけれど、そんな風に考えてしまうのだった。

 少ししてさあやと別れ、まだ時間があったので本通り方面をブラブラすることにした。

 いつもよく行く本屋が、閉店になっていた。見ると昨日の日付で「閉店しました」と掲示がある。

 時代と疫病が、私の日常にも少しずつ変革をもたらす。

 テレビも新聞も、ましてやラジオも見聞きしないので、こういう情報に疎い。自分の好きな情報だけソーシャル・ネットワーキング・サービスから切り取っているので、芸能ニュースや流行には強い気がするが、例えば地域のニュースや生活の知恵はほとんど知らない。

 こんな私がもうじき長い学生生活を終えて、立派な社会人になれる気も、なる気もなく、生きる意味がぼんやりする。三か月前に、祖母に電話でそう話したことを思い出した。

「この前テレビで見たけどな、近頃の若者はそうらしいなあ。戦時中は生きる意味も何も、あったもんちゃうで。毎日生きるのに必死やったもんなあ。」

 祖母は優しい口調で答えた。

「私は今の時代に向いてないのかも」

「せやな。あんたは縄文時代向きや。今日生きるために狩りやら何やらして、子孫残して、いろんなものから身ィ守って。そしたら何も考える暇あらへんわ。はっはっは」

 祖母との電話はいつも楽しくて、幸せだった。

 そんな祖母もその電話の一週間後、天国のじいちゃんのところへ行った。

 もし大阪で就職したら、祖母と今よりもっと会ったり話したりできるかな、と淡い想像をしていたが、ただの想像に終わった。

 身近な人の死は、自分などいついなくなっても良いという思いが、本当は違うのだと気付かされる。小川さあやのように、今の自分を変えたくて、現状を打破しようとしたいのに、どうしていいか分からない。何もできなくて、そんな自分を認められず「死」を理想化してしまうのだ。

 結局本屋にも行けずじまいだったので、私は帰宅することにした。

 いつものように路面電車に揺られながら、今日の家庭教師先について考えた。今は三人ほど担当しているが、今日は一番ヘビーな生徒の日だ。一度忘れることにして目を瞑った。

 鞄の中のスマホが震えた。見ると、さあやからの長文のメッセージだった。

 先ほどはありがとうございました。見ず知らずの私に声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。前に進もうと思います。先ほどは相談できてなかったんですけど、通信制高校へ転校してはどうかとずっとお母さんに言われています。正直お母さんとは仲良くないし、無視していました。でも、今日三田さんと話して、ちょっと前向きに考えられるようになりました。そこで、お願いです。学校見学についてきてくれませんか?さっき学校側に聞いてみたら、見学なら誰と一緒でも大丈夫らしいです。空いている日があったら教えてください。

 一読して、距離の詰め方が独特だなという印象だった。

 今まで何人か家庭教師で受け持ったことがあるが、少し話しただけの間柄なのに、次会った時には抱きついてきたり(もちろん女子生徒だが)、連絡先交換しようと言われたり(これも女子生徒だ)、日本人らしからぬ愛情表現と言えばそうなのだが、学校や家庭で問題を抱えていないか、少し心配になる。例えば多忙な時、こういう生徒に話しかけられて適当に返事をしたり、ちょっとした約束を忘れていたら後々大変なことになる。態度が一変し、あいつは仕事ができない講師だ、ただの大学生のくせに。そんな風に保護者に訴えて、実際に私は担当を外れたことがある。

 さあやは学校に居場所がなく、家庭でも窮屈な思いをしている可能性が高い。そんな彼女が会って間もない私に依存することに、多少のリスクを感じる。それでも、ここで撥ねのけしまったら、彼女にとって救いの手がなくなってしまうかもしれない。

 私は空いている日を何日かピックアップして、彼女にメッセージを送った。

 

 数日後、小川さあやとの待ち合わせのため、私はJRの駅の噴水前にいた。まだまだ暑いが、ジャケットに白シャツ、スラックスというフォーマルよりの恰好にした。

 これから通信制高校の見学へ行く。学校側には「自分が通っている塾の先生と行く」ことにしたらしい。

 さあやとはイエスタデイ以来会っていなかったが、少し見ないうちに大人っぽくなっていたように感じた。

 「通信って色々あるみたいですね。私が選んだ学校は、午前中が授業で、午後はクラブに似たようなレッスンがあるらしくて。ダンスやってみたくて、それで決めたんです。」

 さあやはその後もその学校のブログの話や、写真に写っている先生の話などをして、上機嫌だった。

 その通信制高校は十三階建てのビルの中にあり、一階から七階を貸し切っているようだった。入口には可愛い女の子の看板があり、隣の吹き出しには「未来のまんなかに、あなたがいるよ!」というセリフが書かれている。

 その看板の脇をすり抜け、さあやが先頭に立ち、入口から入る。

 私と歳が変わらないくらいの化粧の濃い女性が出てきて、待合室に案内してくれた。彼女の香水の香りが部屋に残った。

 さあやは壁に貼ってあるさまざまなポスターを眺めていた。ダンスレッスンの紹介ポスターもあり、それをじっと見つめていた。

 「どうもどうも、お待たせしました。」

 長身でやせ型の男性が入ってきて、さあやが一瞬で緊張した面持ちになる。

 簡単に自己紹介を済ませて、学校の説明を受けた。普通制高校と違い、三つのコースから通学タイプが選べる。毎日通学コース、週二日コース、社会人向けの土曜のみのコース。通学が少ない方が学費は安いというメリットはあるが、そのコースだと自制心が問われ、卒業する生徒は毎日通学コースの半分以下らしい。その他にも担任の先生が選べたり、さあやの言う多種多様のレッスンがあることなどを聞いた。

 そして実際に、今レッスンをやっているので見学してみましょう、とその男性は言った。エレベーターを待っていると、階段から降りてきた生徒が男性に、「ウッチーじゃん、おつー」と声を掛けた。最近この辺りでは見かけない金髪に、耳に何個もピアスを開けた男子生徒は男性の肩をぽんと叩いて通り過ぎた。

 男性は気をつけて帰れよー、と言って目だけで見送る。

 ダンスレッスンは、十人程度の生徒が参加していた。まだ始まったばかりのようで、先生の声掛けでストレッチを行っていた。

 真面目に取り組んでいる子もいれば、ふざけ合っている子もいて、一見するとどんな問題も抱えていない無邪気な子供に見える。だが、通信制高校を選んだということは、それぞれみんな必ず何か理由がある。

 「じゃあそろそろ帰ります」

 さあやは真っ直ぐ前を見つめて言った。

 もういいの、と聞いたが、こくんと頷いただけだった。

 男性は、ではもう一度待合室に戻って、書類等お渡ししますね、と言ったが、彼女はこのまま帰ります、と言った。

 私も頭を下げてお礼を言い、二人でその場を去った。

 マスクをしているのもあるが、さあやの表情や目からは何も読み取れなかった。しかし、やや顔色が悪いように思えた。

 「思ったのと違いました」

 彼氏に別れを告げるような言葉を放った。

 「じゃあ次いこ、次」

 失恋した友達への言葉みたいだなと思いながら、同時に間違えたかなとも思った。駅までの道、私はそれ以上の言葉を何も生み出せず、彼女も一言も発しなかった。

 ふと空を見上げると、白い月が出ていて、それは満月だった。私は誰かに、何かに救ってほしい時、月にお願いする。そんな事を人に言うと笑われるので黙ってはいるが、私自身は真剣そのものだ。

 小川さあやが毎日笑顔で過ごせる居場所を見つけられますように。私は昼間の月に、隣を俯いて歩く彼女のことをお願いした。視線を少し下方にずらすと、たくさんのビルが乱立している。

 戦後にこの土地で暮らしていた人々が、もしこの光景を見たらどう感じるのだろう。そして、私がもし六十年後、七十年後、同じ場所の風景を見た時にどんな風に思うのだろうか。私たちは「今」に囚われすぎているのか、もしくは逆に過去と未来にだけ思いを馳せているだけなのか、よく分からない。地に足のついた生き方をすれば、生きる意味など考える必要はない気がする。

 その時、ビルの中の小さい窓に、大野塾という看板が目に飛び込んだ。その下に、高卒資格、取得できますと書いてある。

 私は咄嗟に、行ってみようと声を掛けた。さあやはちょっとググってからにしましょう、と逃げ腰だったが、何とか承諾してもらった。

 大野塾は二階を貸し切っているようで、階段で上がるとすぐ受付はこちらというポスターがあった。私が先頭に立ってそっと中の様子を伺うと、眼鏡の男性がすぐに気づいてくれて、駆け寄って来た。

 「こんにちは、あの、看板見て来たんですが、こちらで高卒資格が取得できるんでしょうか」

 そう聞くと、はいはい、そうですよー、通ってもらったらねー、とのんびりした口調で答えた。

 「うちは学校というより、フリースクールというかね、塾のような感じなんだよね。それと自主性を伸ばすことが教育理念だから、自分で時間割を作ってもらって、うちの講師がそのお手伝いするようなイメージですかね。勉強に疲れたら雑談タイムにしてもらってもいいし、一人で本読んでもらってもいいし。良かったら教室、見てみます?」

 さあやの方を振り向くと、小さく頷いたので、見学することにした。

 ビルの殺風景な見かけと違い、教室内は北欧テイストだった。それはフィンランドのあるお宅にお邪魔しました、と言いたくなるほどの完成度だった。個人的に、壁紙がやわらかなミントグリーンなのが素敵なポイントだった。一枚板の大きなテーブルに、距離を置いて何人か座っていて、先ほどの眼鏡の男性が説明した通り、それぞれが勉強していたり、読書していたり、雑談したりしていた。

 「クイーンとビートルズ、どっちが好きですか?」

 突然座っていた少年に話しかけられた。彼はマッシュヘアだったので、ビートルズファンだと直感的に思った。

 「ごめん、私はオアシスが好きなんだ」

 そう言うと、彼はぱっと目を輝かせて、

 「ワンダーウォール最高ですよね」

 リアムとノエルの仲が良かったらなあ・・とその後も呟いた後、ちらっとさあやを見て君は、と尋ねた。

 「私は洋楽はちょっと疎いから・・・」

 と俯いて答えた。

 「ふーん、じゃあ今度ビートルズ初心者入門講座を開催するから、参加してね」

 彼はニコッとして、自分は岩崎コウスイだと名乗った。幸せに水と書いて幸水。父親が井上陽水の大ファンで、同じ名前を付けようとしたが母親に大反対され、ちょっとアレンジしたらしい。決して梨が好きで名付けられた訳ではないのだと付け加えた。

 コウスイは初対面でいつも名前の由来言ってるの、と聞くと、本当に仲良くなりたい人にだけ言うんだ、と答えた。それがお世辞かどうか見極められなかったが、彼の屈託のない笑顔は人を惹きつける魅力なんじゃないかとだけ思った。

 「うちはここの部屋一つと、隣の事務室兼応接室、後は廊下を出て左にお手洗いがある感じなんですが、どうしましょうか、塾の概要などお聞きになりたいですかね」

 眼鏡の男性がおずおずと尋ねた。

 「ここに入りたいんですが、試験はありますか」

 さあやは白か黒か、全か無か、生きるか死ぬか、そういうジャッジをするようだった。グレーゾーンやキープ、保留という方法も教えてあげたいが、彼女が投げるボールは、いつもストライクだと決めているなら口出しできない。

 試験は保護者同伴の面接と、小論文の提出があるらしい。とりあえず、もう一度保護者の方と来てもらい、改めて塾の説明をしたいと眼鏡の男性は言った。そして、彼はさあやに名刺を渡した。倉田という名前だった。

 ふと窓の外を見るともう夕暮れがかっていて、はっとしてスマホを見ると、午後六時になっていた。三十分後には、バイト先に着いていたい時間だ。私はここで失礼します、と倉田さんに会釈して、さあやに小声で「また連絡ちょうだいね」とだけ言い残して去った。

 空を見上げると、黄色い月がさっき見た時よりも高い位置に昇っていた。

 果たして月がこんなにも早くお願い事を聞いてくれたのか、それは分からないが、上手くいけばいいと強く思った。

 家庭教師のバイトは、二時間。まず着いてから夕食が出て、一時間経っておやつが出る。こんなにしてもらって結果が出なければまずいという相当なプレッシャーがある。

 「はい問題解いてー」

 「それより聞いてよー、今日部活でやなことあってさー」

 ミナミは中学三年生の女子だが、精神年齢が低い。受験までもう半年を切っているのだが、基本的に学習が進まない。その理由はひたすらに話しかけてくるからだ。ミナミの保護者は基本的に一階のリビングにいるので、何か言われることはない。しかし、ただの明るくておしゃべり好きな少女というわけではなく、世の中を斜めに見ているので、過去に何か原因があるのかもしれない。

 「先生、人生とは何ですか」

 今日は序盤から、ヘビーな質問が飛んできた。

 「うーん、人のよって解釈が違うからなあ。私が思う人生とは、遠回り、かな。生まれてから死ぬ瞬間まで、いかに色々な事をして時間を潰すか。手っ取り早く終わらせたいなら、こんなこと絶対だめだけど、高い所から飛び降りたりしたら本当にそれまでなわけで・・。死ぬまで生きるのが、人生。」

 こんな回答で良いのか、いまいち自信がなかったし、ミナミの目から感情を読み取れなかったので、自分が話しておきながら困惑した。

 彼女はふーん、とだけ言って、問題に取り組み始めた。その話の後は、授業が終わるまで私に話しかけることなく黙って勉強していたのだった。


 私は子供の時から、同じ夢をよく見る。

 夢は、父方の祖父母の家から始まる。カラーか白黒かはっきり分からないが、薄暗いことだけは明確だった。

 階段を上がって二階に着くと、そこでは誰かの葬儀が行われている。部屋を入って右手に棺があって、青い目を見開いたままの外国人の女の子が入っている。その傍らには母親らしき人が立っていて、欧米風の喪服と黒いベレー帽のようなものを被っていた。

 私は恐怖を感じ、祖父母の家を出ることにする。そうすると、いつの間にか学校の体育館にたった一人でいて、館内を漂っていた白い煙が人の形になり、西洋の人形になった。それは何体も現れて、大きなサイズだったり、小さなサイズだったりした。私はただそれを眺めていて、これは夢なのか、それとも霊感があって見えるのか分からなかった。

 どんな時に見る夢なのか自分でも分からないが、昨夜久しぶりにその夢を見た。

 起きた時に、ああ今のは夢だったのか、夢で良かったとうっすらと目を開けて思った。こういう時に、誰かと一緒に住んでいれば、こんな夢を見て怖かったという気持ちを打ち明けられるのになあ、ともう一度目を瞑りながら二度寝の準備をしたが、今日は大学のゼミだったこと思い出して洗面所へ向かった。


 栗色の髪の毛だったヒーローが、黒に染めていた。

「もうあたし、社会人ですから」

 と気取って言う彼女を横目に、今日の発表資料を準備する。

「彼氏がね、消防士になるんだって。何かあったら泣いちゃう」

 続けて話し始める。

「でも、何かあるのが前提の消防士でしょ。そうなったらそうなった時だよ」

 そう言うと、ヒーローは私の腕を掴んで、ひどいー、と甘えた声で言った。

 私がどうして人と話すことに苦手意識があるのか。

 それはきっと、自分が頭の中で書いた台本と違うことが起こり得るからなんだなあと、最近思うようになった。

 先生がゼミ室に入ってきたので、私は始めてもいいですかー、と席を立って資料を配り、今のやり取りをかき消した。

 もうあと残り半年で、モラトリアムが終わる。この猶予期間は、学費というお金で買ったものだ。私はこの三年半で、何かに夢中になったり、何かを突き詰めたりしただろうか。何となく運転免許を取ったり、短期留学に行ったりしたものの、それは「大学生ならそうやって夏休みを過ごすのだろう」という動機からだった。

 高校が進学校だったので、周りの同級生はみんな大学受験をして当たり前の空気感だった。その空気に流されるまま大学に入り、そして今度はみんな新卒で就職を目指している。

 周りに習って、敷かれたレールの上を走ることが「普通」にこの日本社会で暮らせる条件ならば、私は社会不適応者だ。


「タピオカブーム、終わったね」

「飲んでる人は飲んでるかもよ」

 ゼミが終わり、帰り際にどうでもいい話題をヒーローに振ってみた。そういう彼女の手には、ブラックコーヒーの缶が握られている。甘党なイメージしかないが、これも社会人への一歩なのだろうか。

 「私ね、ヒーローのこと尊敬してるんだよね。まったりしてる雰囲気の中に芯があるし、ぶりっ子かなと思う一面もあるけど人に媚びないで意見が言えるし、奔放なように見えてきちんと理屈を理解してるし。理想の女子というか・・・」

 「ちょこちょこ悪口入ってないかな」

 ヒーローがマスクの中で、にまっと笑ったのが分かった。嬉しい時、彼女の目は猫のような目になる。

 「立派な社会人になりそうだなーって思ってるよ」

 「あたし、社会の歯車になりますから」

 そう言って、ヒーローは自動販売機のそばにあるゴミ箱に空き缶を捨てた。

 「それって面白いの?正社員なんて、新卒なんて、言い方悪いけど会社の犬というか・・・私はそんな風に染まりたくない。」

 ヒーローは一瞬黙ったが、

 「じゃあ三田ちゃんが世界を変えてみれば?」

 真っ直ぐに前を向いて言った。

 てっきり私は甘えるな、と怒られるだろうと踏んでいたので、拍子抜けして笑った。

 気付けばセミも鳴いておらず、少し秋の気配が漂う夕方になっている。今年は時間の流れが特に早く感じるのは、ウイルスのせいなのか、年齢のせいなのか。こうやって友人と一緒に帰る日々も、もうわずかだ。


 自分のアパートに帰ってゴロゴロしていると、さあやから連絡が来た。

 今日お母さんと大野塾に行って、一緒に説明を聞きました。お母さんもいいんじゃないって嬉しそうでした!来週試験受けます。それと、倉田先生が他の先生と話してるの聞いちゃったんですが、講師の先生を募集するみたいですよ!それではまた、試験終わったら結果を報告します。

 試験がんばれー!講師の応募してみようかな。ありがとう!

 そう返信した。

 友人の前では卒業後は世界一周するなどと言ったが、半年後ウイルスは撲滅されているか定かではない。就活をしていないとはいえ、卒業後、働く必要はあるとぼんやり思っていた。周りが内定をもらった話を聞いて、焦る。我ながら単純だなあと思いながら早速調べてみると、ウェブ上で大野塾が求人を出していた。契約社員、月二十万円、週五日勤務、九時から十八時まで。業務内容は生徒の課題の指導、添削、イベントの企画など。

 塾とはいえ、生徒は全日制の学校に通いながらやって来るわけではないので、日中働けるようだった。

 応募フォームはこちらという欄があったので、打ち込んで送信する。


 過去と未来、行くとしたらどっちがいい?

 ヒーローとそんな話をしたことがある。

 彼女は過去に戻って、ものすごいイケメンだったという元カレとやり直したいらしい。私は未来がいいと言った。過去は暗黒すぎて、蓋を開けたくない。開けたくないと思いながら、何度も開けてしまう。特に高校時代など言語道断だ。未来に行って、まだ顔を見ぬ旦那様との幸せな結婚生活を謳歌するのだ。

 そんな事を思い出しているうちに、ベッドの中で眠りについた。


 翌日の夕方、大野塾から連絡があった。履歴書持参で面接を受けることになり、その日時の調整も行った。倉田さんは声だけで私がさあやと一緒に来た人物だと分かったのか、それともさあやから聞いていたのか、この前小川さんと一緒に来てくれた人だよね、よろしくね、と言って電話を切った。

 そして後日面接があり、倉田さんが面接官の役だった。

 フェイスシールド越しではあるが改めて倉田さんを見ると、ただの眼鏡をかけた男性ではなく、顔立ちが整っていて、肌が綺麗だった。

 「じゃあ早速オーソドックスな質問だけど、志望動機ある?」

 まず自分が家庭教師をバイトに選んだ理由、そして講師の応募に至った動機を話した。エゴかもしれないが、自分みたいな思いを抱いた思春期の子供が一人でも救われたらいい、というようなことを伝えた。

 「自分みたいなって?」

 「透明になりたいって毎日思いながら、頑張って登校する子供のことです」

 「なるほどね。じゃあ今は、東京事変の『透明人間』を作った亀田誠治のような気持ちってことかな」

 「ちょっと違いますけど、間違ってはないです」

 倉田さんは、はははと笑った。その笑い方が少年のようで、じっと見つめてしまった。

 「あとは確認なんだけどね、ここに通う生徒ってどういう子か分かる?」

 「普通制高校に通っていたけれど、例えば人間関係のトラブルや飲酒・喫煙などの非行で退学してしまった子、または小、中学校時代から不登校で高校進学できなかった子でしょうか」

 「模範解答だね。そしてその子たちにとって、学校をやめたこと、行けなくなったことが個人差はあれど『挫折』になっている。まだ想像できないかもしれないけれど、おそらく保護者にとっても子育てを『失敗』したという思いが多かれ少なかれあるはずなんだ。思春期の子供はただでさえ繊細だけど、ここに通う生徒はもっと繊細で、鋭い。こちらの態度、表情、発言、行動すべてが彼らとの信頼関係に大きく影響するから、誠意をもって生徒と向き合ってほしい」

 「分かりました」

 私は倉田さんの目をまっすぐ見て答えた。

 「よし。というわけで採用したいんだけど、契約社員の募集なんだよね。三田さんまだ学生だから、半年後からになるんだけど、その間アルバイトで来れないかな。もう一人、試用期間六か月で最初から契約社員で雇用しようかなって考えてるから」

 即戦力として今すぐに勤務できる人を探しているはずだろう。私が採用してもらっていいんですか、と聞こうとしたが、予定調和なのでやめておいた。

 「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」

 

 帰り道、さあやに報告しようか迷ったが、自分から言うのも何だか恥ずかしいので連絡しないことにした。

 明日は週末なので、このまま実家に泊まることにした。母に連絡すると、ハンバーグ作るね~!と返ってきた。

 私の家族は、とても平凡だ。昭和気質な父と優しい母、そして世渡り上手な二つ下の妹。母は「ふつうが一番よ」と言うのが口癖で、私はそれが退屈だと思っていた。ふつうなんて、味気なくて、面白くない。しかし、そんな思いとは裏腹に、気付けばできるだけ「ふつう」に見えるように振る舞おうと努めていた。その一方で、妹はSNSでインフルエンサーとしてなぜか活躍し(妹の言葉を借りれば、自分がアップした動画がバズったらしい)、毎日を楽しく過ごす高校生だ。

 実家の玄関を開けると、真っ先に犬が私を出迎えた。元気かい、と声をかけるとタイミング良く、わん!と吠える。

 ねーちゃん帰ってきたん?と妹が部屋から声だけで尋ねた。あー、うんと適当に返事をして洗面所へ向かう。

「うちの新しい動画見たー?いいね、一万超えなんですけど。大学行くのやめて芸能界目指そうかなあー。」

 「それ父さんに言った?」

 「いやいや言えるわけないじゃん。」

 「じゃあそんな冗談私にも言わないで」

 「就活してない人に言われたくありませーん」

 母が台所から包丁を持ったまま、はいはいそこまでー、とやって来た。

 夕食までに父も帰ってきて、四人で食卓を囲んだ。

 「就職先は見つかったか」

 父は箸を止めずに尋ねた。

 「うん」

 「どんなところだ」

 「塾」

 「夜遅いんじゃないのか」

 「日中働けるとこだから」

 「塾は少子化で生き残りが厳しいだろうな」

 私は黙ってハンバーグを口に運んだ。母のハンバーグには罪がない。

 母も妹も一言も発さずに食べている。

 大学が実質休講状態の中でも、実家に戻らなかったのは父の顔を見たくなかったからだ。反抗期が続いているような自分が少し恥ずかしいが、会うたびに私を否定する人とは仲良くできない。

 「ごちそうさまでした。またお正月に会いましょう」

 そう言って食器を下げて、そのまま鞄を持って玄関に向かった。犬が私に付き添うように歩いていたが、くうんと少し悲しげな声で鳴いた。

 また来るから、と犬の頭を撫でて、玄関のドアを開けた。

 

 大野塾でのアルバイト期間中は、担任業務やイベント企画はないが、担当教科があるので、質問があった際は対応すること、その日の生徒の様子を共有の生徒情報に入力する事などがメインの仕事だった。

 ここではどの時間にどの科目を学習するかは生徒自身が決め、自分で学習を進める。学年ごとに時間割や席の位置が決まっているわけではなく、塾の自習室のようなスタイルだ。

 ここに入塾しても、やはり足が向かない生徒もいる。そういう生徒に対するモチベーションアップの働きかけをするのも仕事の一つだ。

 疲れたら講師や友人(あまり生徒同士でいるシーンは見かけないが)と雑談したり、本棚にある本を読んだりして過ごしてよい。

 週に一度、金曜日の午後にだけ、みんなで集まるホームルームという時間がある。ここでは生徒のやりたい事を行う。しかし、リクエストがほとんどないので、例えば就職活動について人材派遣会社の方に来てもらってレクチャーを受けたり、文化祭やディベート大会などのイベント前のミーティングの時間に充てたりする。

 私もアルバイトが金曜日にある時は、参加していた。

 

小川さあやはというと、毎日塾に来ているようだった。

会うたびに「三田先生―!」と駆け寄ってきて、色々な話を聞かせてくれた。ビートルズファンの岩崎コウスイと仲良くなったらしく、ある日は「今日は放課後にコウスイとタワレコ行くんだー」と言っていた。

岩崎コウスイは普通制高校に通っていたが、教師とトラブルを起こして退学になった。なんでも軽音部を立ち上げようと奮闘していたが、その際掛け合った教師に「バンドなんてやる奴はクズだぞ」と言われ、カッとなって通学カバンで頭をぶん殴ったらしい。

そんなロックンロール魂を持つ、ややクレイジーなコウスイは、ここでは穏やかなムードメーカーだった。

 講師とは一切口をきこうとしない寡黙な生徒も、コウスイに話しかけられるとたちまち笑顔になって饒舌に会話をしていたりする。

 ある日のホームルームで、彼は果敢にもビートルズ初心者講座を希望した。音楽は履修科目にないからという理由を挙げて、倉田さんを無理やり納得させた。

 そういえば、大野塾のトップである大野さんはというと、塾長ではあるが未だに姿を見たことがない。倉田さんによると、今は大野塾の姉妹校をカナダに見つけて、提携校としての契約のために海外出張に行っているそうだ。提携すれば、生徒に留学体験をしてもらうらしい。

 塾長不在の間、経理その他全般を倉田さんが担っている。あとは四人の社員(生徒からすると全員先生)が倉田さんのフォローや生徒指導を行う。

 秋の気配が一日ずつ足を忍ばせながらやって来る中で、私は心を弾ませて新しい環境に飛び込んだのだった。


 大野塾でアルバイトを始めて一か月が経った。

 生徒全員の顔と名前は覚えたが、信頼関係を築き上げるのにはまだまだ時間がかかりそうだ。挨拶をしても下を向いて声を発さない生徒が多いが、それぞれの生徒の好みの把握や、生徒ごとへのお決まりのボケなど会話のルーティンを作り、距離感を縮めていけるようになった。

 小川さあやが放課後話をしたい、と申し出てきた。

 英語の学習中であったが、彼女と一対一なので、今の時間でもいいんだよ、と伝えたが、放課後がいいとの一点張りだった。いつも放課後はコウスイと一緒に帰っている気がするが、今日は彼が珍しく来ていなかった。

 彼女の表情を窺うと、少し思いつめたような感じが読み取れた。喧嘩したのか聞こうとしたが、じゃあまた放課後話してね、と伝えて授業に戻った。

 さあやに出会ったことで、たくさんの出会いに繋がった。ここに来れば、倉田さんと話すこともできる。彼が何歳でどこに住んでいるかなど、基本的な情報は知らないものの、その独特な雰囲気や話すテンポが心地良く、生徒も懐く理由は明確だった。

 倉田さんに放課後、さあやと話があるので教室に残っていいか確認し、承諾を得た。

 「三田さんは、小川さんにとってお姉さんみたいな存在なんだろうね。安全基地なんだよ、きっと。もしどんな話だったか共有する必要がある内容だったら、後で教えてね」

 そう言って倉田さんは少し微笑んだ。

 放課後になって、さあやは教室の一番端っこの椅子に座っていた。茜色の夕陽に照らされて身動き一つしない彼女は、一瞬人形かと思うほどの美しい造形に見えた。

 私が隣の椅子に座るのを確認してから、

 「妊娠したんです」

 と言った。

 「えーっと、今何週なの」

 「八週目です」

 「その、相手は」

 「コウスイ君です」

 「お母さんには言ったの」

 「言いましたけど、堕ろしなさいって言われました」

 「コウスイは」

 「一緒に育てようって」

 そこまで言うと、さあやは涙を流し始めた。

 「妊娠検査薬で陽性だったんで、産婦人科に行ったんです。コウスイ君と。行く前までは、産めるわけがないって思ってました。少し前まで死にたいって思ってた自分が、新しい命を生み出せる資格がないって。取り返しのつかない事をしてしまったんだって、本当にショックでした。でも、赤ちゃんの心音を聞いて、赤ちゃんの姿をエコーで見て、私の体に命が宿っている事を知ったから、私は・・・」

 さあやは嗚咽した。

 私はマニュアル人間なので、こういう時にどう反応すればいいかインプットされていなかった。

 さあやを抱きしめると、すぐ彼女は頭を私に預けた。 

 その後もしばらく泣いていて、その時間が永遠に続くように錯覚させれらる空間に私はいるのだと思った。

 夕方五時のチャイムが鳴り響いて、それほどに時間が経っていなかったのだと気付かされた。だんだん日暮れが早くなってきて、すでに少し暗くなってきた。

 さあやには倉田さんにこの件について私から話してもいいか了承を得て、無理はしないようにと伝えて帰した。

 私があの時公園で彼女に声をかけなければ、違う未来が待っていた。

過去と未来、行くとしたらどっちがいい?

 ヒーローの声が頭の中で聞こえる。

 今の私なら、迷わず過去に行く。


 それから倉田さんに事情を説明し、ひとまずは小川さあやの保護者と倉田さんが面談することに決まった。後日改めて、さあやを含む三者面談を行うらしい。

 「どちらにしても、休学か退学になるだろうから、そのあたりを親御さんと話すかな」

 倉田さんは落ち着いていた。

 「毎年夏休み前のホームルームの時間にね、性教育もしてるんだよね。今年はできなかったけど。やっぱり毎年ってわけじゃないけど、妊娠する女子生徒がいて、高校の卒業資格取らずに退学する生徒もいるから。そういう生徒は、子供のせいで高校行けなくなったなんて後悔しないで生きてほしいよね。男子生徒も一瞬の選択で、人の命の有無が決まるってこと、覚えててほしいし」

 なぜかキンと耳鳴りがして、遠い昔に遡った感覚になった。

 今の私には、何が正しいか分からない。高校生なのにそんな事をしていやらしいとか、未成年が育てられるわけがないだとか、付き合って間もないしすぐ離婚するんじゃないかとか、自分が母親だったらまずはそんな風に思うのかもしれない。子供を育てるって大変なのよ、と。

 とりあえず、コウスイがどれほどの思いで「一緒に育てよう」と言ったのか、それだけ確認できれば良い。

 

 翌日さあやの母親がやって来た。私も連日アルバイトで、初めて彼女を見た。マスクをつけていて全貌は分からないが、やはり母親も美人で身なりも綺麗だった。

 倉田さんに促されて応接室に入っていくのを目で追っていると、その後ろからキノコ頭がついて入っていった。確か倉田さんの話によれば、母親と二人で話をする形だった気がしたが、コウスイも一緒に話をすることになったのだろうか。

 私は他の生徒への対応をしに教室に入っていった。

 その数分後のことだった。応接室から怒声が聞こえてきた。教室の生徒たちが、しんと静まり返る。女子生徒の一人が、耳を押さえて震えていた。

 大丈夫だからね、ちょっと様子見てくる、と言って、私は応接室へ向かった。

 「確かに欲しいと思って出来た子じゃないし、ましてや高校生なのに本当に軽率だったと思います。それでも俺は、一生さあやとお腹の子を守りますよ。さっき言ったこと、まじで撤回して下さい。じゃないと孫の顔は絶対に見せませんから」

 そう言ってコウスイは部屋を飛び出した。

 すれ違いざま、彼はこちらを一瞥した。涙に揺れる瞳と、きつく結んだ唇が悲しみを帯びていて、何も声を掛けられなかった。

 だから会いたくなかったのよあいつに、と容姿からはかけ離れた、どすのきいた声でさあやの母親は言った。

 「ここに入れたのが間違いでしたね、うふふ」

 と今度は少女らしい芝居ががった声で続けて、彼女は腰を浮かそうとしたが、倉田さんがまあまあ、今後の事についてお話だけさせてください、と言った。

 私はそっと応接室のドアを閉めて、教室に戻った。


 その晩、夢を見た。

 あのいつもの夢だ。

 階段を上がって二階に着くと、そこでは誰かの葬儀が行われている。部屋を入って右手に棺があって、青い目を見開いたままの外国人の女の子が入っている。その傍らには母親らしき人が立っていて、欧米風の喪服と黒いベレー帽のようなものを被っていた。ただ、その母親の顔を見ると、小川さあやなのだ。

だってこうするしかなかったんだもん、と呟いている。

 そんなことなかったでしょ、と言おうとするが声が出ない。急に目の前が真っ暗になって、崖のような所から真っ逆さまに私は落ちていった。

 

 わっと起きるとまだ夜中の三時で、ベッドの下に掛布団がはねのけられていた。寒さを感じ、トイレに行く。

 これは絶対に正夢にならない、逆夢だ、夢と反対の事が起こるのだ、と自分に言い聞かせてもう一度眠りについた。


 その後、私が知らない所で物事は良い方向に動いていった。

 岩崎コウスイの両親が小川さあやの母親に頭を下げに行き、結納を渡すことで一件落着した。その結納はかなりの額だったようで、お金が机の上に出たとたんに、さあやの母親は態度が変わったらしい。コウスイも自分の無礼について大人しくお詫びを入れた。

「うちは男の子いないから、あの時はびっくりしちゃったけど、男気があって、うちのさあやにぴったりだわ、おほほ」

と言っていたのにはコウスイも辟易したらしい。

 彼は高校三年生なので、卒業してから昼は楽器店、夜はライブハウスで働き、ゆくゆくは自分の楽器店を持って、楽器屋の店長になるそうだ。

 さあやは休学することにしたようだ。とは言っても、産前ギリギリまでは通いたいとのことで、産後は一年ほど育児に専念する予定らしい。

 

 「先生、ありがとう」

教室に入ると、コウスイが私に駆け寄ってきた。

 「あとさ、今度の終業式の後で弾き語りライブするんだけど、先生も来てよ」

 ライブといっても、教室でギターを弾いて歌うらしい。

 あっという間に師走になり、私でも走るほど忙しくなった。ごめん、終業式の日は私もゼミの中間発表があったりして難しいと伝えると、不服そうな顔をした。

 「先生に向けての歌もあったのになー、残念。でもさ、まじで先生がいてくれて良かったよ。」

 そう言っていつもの屈託のない顔で笑った。

 「本当にさあやのこと、大事にできるの」

 我ながら意地悪だなと思ったが、聞いてみた。

 「ぶっちゃけ、初めて会った時さ、三田先生と見学に来た時。嘘だと思われるかもだけど、この人は運命の人なんだって確信したんだよね。絶対大事にできる。というか、大事にする自信しかない」

 さあやの母親がコウスイには男気がある、と言ったのはあながち間違いではないのかもしれない。

 「じゃあ今日は私に歌うための歌の和訳でもするかー」

 「なんで洋楽って分かるんですか」

 「洋楽しか興味ない気がするから」

 そう言うとコウスイは笑って、それは正解ですね、と言った。

 そして私に手紙を渡した。

 「これ、さあやから。帰ったら読んで」

 わかった、と言って私は預かった。

 「予定日は七月七日なんだ。リンゴ・スターと同じ誕生日だから、名前はリンゴにするんだ」

 男の子だったらどうするの、と言ったら、そしたら俺の名前みたいにリンゴの銘柄にする、と言って笑った。 

 

 家庭教師先の生徒、ミナミが第一志望校を変えるよう学校の先生に言われたらしい。彼女自身は公立高校であればどこでも構わないらしいが、保護者がそうではなかった。家から一番近くて評判の良い進学校にどうしても行かせたい。

 「大変申し上げにくいのですが、三田先生に担当していただいている英語と数学、年明けの実力テストで期末テストよりも点数が低ければ、塾に行かせようと思います。」

 ミナミの母はそう言った。

 分かりました、実力テストに向けてミナミさんと頑張りますと言ったものの、本人のやる気がまるでない。中学一年生の時からずっとミナミを見て来たが、基本的に勉強についてはまるで無気力なのだ。それは折を見て彼女の母に伝えてきたが、モチベーションアップさせて下さいねと毎回言われるだけだった。

「ミナミさー、最近楽しいことある」

 「んー、ユーチューバーの動画かなー」

 「まあ確かに楽しいよね」

 「それより聞いてよ、クラスの子がねー」

 と、こんな事を言われた、あんな事を言われたなどの愚痴をこぼしていた。ひとしきり話し終えると、黙って数学の問題に取り掛かった。

 「どこの学校に入ろうが、社会人になってどこで働こうが、嫌な人とか合わない人って必ずいると思う。そんな時に、例えば親がこの学校を選んだせいだ、って考えるより、自分が選んだから責任持ってその人にブチ切れるなりスルーなりした方が爽快な気がする。周りの声に流されないで、自分が決めて、自分の軸で生きると素敵な人生になるよ、きっと。」

 せっかく彼女が集中しようとしている所だったのに水を差してそう言ってしまったものの、これは自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。選ぶことが、苦手な私への言葉でもある。

 ミナミは、うん、とだけ言って問題を解いていたが、彼女に届いたかどうか分からない。

 「受験まで先生と頑張る」

 帰り際、彼女はそう言った。その瞳は澄んでいて、一つの意思を感じた。

 玄関を出ると冷えた空気が体を包み込んで、もうすっかり冬だったと気付かされたと同時に、暖かくなる頃にはミナミに素敵な新生活を送ってほしいと思った。


 その知らせは突然だった。

 父が他界した。交通事故で、なんて新聞のニュースのようだ。

 人が老いて一生を終えるのは自然なことだけれど、ハサミでぷつりと切ったように終わってしまうというのは、なんて悲劇なのだろう。

 お正月に会いましょう、と言った事を後悔したが、いや、後悔すべきは自分の態度や父への向き合い方であったと思った。

 にわかには信じられず、私は淡々と母に従ってさまざまな準備を行った。

 妹はかなり取り乱していて、終始泣いていた。

 集まった親戚達には、やっぱりお姉ちゃんだからこんな時でもしっかりしてるわね、気丈に振る舞って偉いわね、などと言われた。実際はまだ実感がわかず、どこか他人事のように捉えていたからかもしれない。

 その夜、夢を見た。

 実家の食卓の椅子に、父は座っていて、私もお決まりの席に座っていた。

 「最近お前が小さい頃の夢ばっかり見るんだ。もう社会人になるっていうのに、わしの中ではまだまだ子供なんだろうな。いや、子供のままでいてほしくて、あの頃みたいに屈託なく遊んだりふざけたりしたいのかもしれん。わしの方が子離れできとらんなあ」

 朝目覚めて、そう言われたことだけ記憶に残っていた。実家に泊まったので、早速母に伝えると、一瞬息をのんだ。

 「それ、そのまんま、亡くなる前の晩にお父さん言ってたよ」

 ふーん、と言うと、

「あとね、あんたがこの前うち来た時のこと、後悔してた。娘が選択した事にとやかく言うのは、もう止めないとなあ、って。」

 母は続けて言った。

 その通りだよねー、と言って自室に戻りかける私の背中に、朝ごはんは?と尋ねられたが、もう少し寝るわ、と答えた。

 私は布団に顔をうずめて泣いた。

 我ながら情けないなあとか、この布団後で洗ってもらおうとか、母と妹に気づかれませんようにとか、雑念を抱きながら、久しぶりに大きな声で泣いた。

 父と仲が悪くなったのは、思春期に入ってからだ。そこから素直になれず、ずっと引きずってきた。あんな人にはなりたくない、とだけ思って生きてきた。父に言われた数々の嫌な言葉だけ胸に刻んで、自分が生まれてから父にもらった沢山の愛は、もう忘れたと思い込んでいた。

 小学生の時、サツマイモを使ったレシピを考えてくる、という家庭科の宿題があった。私は、父に何にしたら良いか教えてほしい、と言った。ポテトサラダがいいんじゃないか、ミキも好きじゃないか。そう言われてレシピを書き始めたのだが、材料が多い事に気づき、書く量を考えると、やはりスイートポテトが良いのではないかと思い始めた。しかし、父は怖い。せっかくアイディアを出してくれたのに、もし違うレシピにしました、と言ったら怒られるのではないか。そう考えると、涙が出てきた。

 父が私に気づいて、泣きながら事情を話すと、優しく笑って

 「自分の声を聴いていいんだぞ。大丈夫や」

 と言って頭を撫でてくれた。

 父は、私に対して大好きだとか、かわいい子だとか、そういう言葉をストレートに表現できない昔の人だったので、私は大人になるにつれて、ステレオタイプの人間とは相いれない、などと、ひねくれた物の考え方をしてしまっていた。なのに、私も自分が思っていることを素直に表現できない人間になっていた。

 お父さん、いつも私たちのために頑張って働いてくれてありがとう。休みの日は、いっぱい遊んでくれてありがとう。面白くないギャグを言って、笑わせようとしてくれてありがとう。花嫁姿見せられなくてごめんね。大好きだよ。

 私は泣きながら、ベッドの中で短い手紙を書いた。そしてその午後、父の亡骸にそっと添えて、一緒に焼いてもらった。私の想いも一緒に天国へ持って行ってもらえただろうか。

 

 一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。

 とんとん拍子で時は進む。

 私の卒業論文の口頭諮問も終わり、何とか提出を終えた。教授は、君の文章は実に精巧だね。就職先が決まってないのなら、小説家になったらどうだい。と言って笑った。

 「私、四月からカナダで働くんです」

 と言うと、目を丸くされた。

 大野塾の塾長が帰国して、無事にカナダの姉妹校と提携を結んだのだ。さしあたって、カナダでの常駐の職員が必要となり、私が手を挙げたのだった。

 今年に入って、国民全員が新型ウイルスのワクチンを接種することになり、ウイルス流行前のような安心感はないが、海外渡航も比較的自由になった。

 倉田さんと頻繁に会えなくなるのが辛いが、記念すべき第一回目のホームステイの引率は彼なので、意外とすぐ会える。

 「現地の美味しいお店調べといてね。」

 と言われたので、楽しみが増えた。


 家庭教師のミナミとは、ほぼ毎日一緒に勉強した結果、保護者の希望通りの高校に合格した。人間やればできるんだなと改めて思ったが、ミナミは本当に行きたかったのか。そう尋ねると、

 「同じクラスの子とか部活の子が受験しないって分かったから選んだだけ」

 と格好つけていた。

 母親は、私の卒業祝いに、と金一封を渡そうとしたが、

 「ミナミさんに使って下さい」

 とだけ言って、頭を下げた。

 

 岩崎コウスイから受け取った小川さあやの手紙は、大事に机にしまっている。彼女の思いは、私の人生をすべて肯定するものだった。しんどかった学生時代も、上手くいかなかった父との関係も、他の人間関係も、私という人間も、すべてが許容されたと感じられた。彼女との出会いが、私を救ってくれたのだった。

  

 卒業式で会ったヒーローは、髪を金色に染めていた。

 どうしたの、と聞くと、入社式の前日まではこの髪色でいるの。私のモラトリアム。と答えた。

 「友達」は物心ついた時からずっと、良くも悪くも周りにいた。そういう社会だったから。でも、これからは新しい「仲間」が待っているのだ。友達も家族も、いつも心の中に。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ