過去を編む人
空が燃え、しだいに青白らむ、薄闇の夕暮れ。大木の洞に作られたアトリエに、ぽっと橙色の明かりが灯る。赤く塗られた扉の中はしんと静かでいて、じつは昼間の風を閉じこめたようにあたたかい。
楢の木でできたロッキングチェアに腰掛けたその人は、生白い二本の棒切れを手に、ふいに窓の外を見る。
「来客だ」
呟くと、床で寝ていた黒猫と白猫がぱっちりと目を開ける。
「おはよう。今日は仕事のようだよ」
耳をピンと立てた猫たちは、言葉を理解したように、まぶたをパチパチと上下させた。それからからだを持ち上げて、たがいに顔と顔をこすりつけ合う。やがて二匹のからだが溶けて一つに混ざりはじめる。
「いつもすまないね」
みゃう、と鳴いたのは黒猫と白猫のどちらだったか。
頭から尻尾の先まで一つになった二匹は、そのままむくむくと影を大きくして、最後には一人の青年に変身した。薄灰色の髪を肩のあたりで一つに束ねた痩身の青年は、自らの手足の存在を確かめるように軽くぱんぱんと叩いてみせる。そのあと口をぱくぱくさせて、“喋り方”を思い出す。
『先生』
淡いテノールが主人の名を呼び、従順に指示を仰ぐ。
「うん、鍵を開けておいてくれるかい?」
青年は黙ってうなずき、白いシャツについたカフス――それは金ぴかに光っている――を爪でカリカリといじりながら、言われたとおりに扉の鍵を開ける。そして振り返り、琥珀が埋めこまれた目で、じっと先生を見つめる。
『先生』
「そうだね、つぎはお茶の準備をお願いできるかな?」
青年はまた一つうなずいて、奥の部屋へ駆けていく。そのうちに戸を叩く音が鈍く響く。
ドチ。ドチ。
それは拳を叩きつける音。
「開いていますよ、どうぞ」
錆びた蝶番が大きく軋み、ゆっくりと扉が開く。そこには、くたびれた顔をした人間が、自分の黒い靴を見つめながら立っていた。
「こんばんは……」
「はいこんばんは。おや、二週間ぶりですかね?」
先生は人間のつむじに向かって優しく笑いかける。
「先生……」
人間が顔を上げる。泣き腫らしたようなひどい顔が、さらにゆっくり歪む。
「一週間と四日ぶりです。……いけませんか?」
「いえいえ。なにもいけないってことはないんですよ」
先生の声はいつも柔らかい。先生は怒鳴らないし、そもそもめったに怒らない。先生はけっして人間を脅かさない。なのに、人間は大きな目玉をぎょろつかせて、ずっとなにかに怯えている。
「やっぱりもう、ここしかないと思って……」
まるでなにかから追われているように、しきりに周りを気にしながら、人間が言う。
ここで、熱々のカフェオレボウルがテーブルに到着する。お盆を小脇に抱えた青年が振り返ってまた一言、先生、と言うと、先生は戸棚の煮干しを二つずつだよと囁いた。青年は奥の部屋へ飛びこんでいった。人間には見向きもしない。青年は――黒と白の二匹の猫は――先生と煮干しとお日様にしか興味がないのだ。
「では、まずお話をおうかがいしないとね」
握っていた棒切れを二本、エプロンのポケットに仕舞った先生が、窓辺のロッキングチェアからそっと立ち上がる。膝を覆っていたブランケットは丁寧にたたんでアームレストに掛ける。
「うん。いいにおいだ」
テーブルに並んだカフェオレボウルに鼻を近づけて、先生は笑った。二人掛けのテーブルに、二つのカフェオレボウル。数が揃うということは、先生の心を楽しませる。
青いカフェオレボウルを手前に、もう一つの、緑のカフェオレボウルは向かいの席に置いて、扉の前で岩のように固まっている人間に声を掛ける。
「苦しいなら、一つ、息を吸ってご覧なさい」
言われたとおりに、すん、と鼻で息を吸いこんだ人間は、吸いこんだ分だけ口から吐き出した。きっとアトリエの柔らかい空気が、鼻から肺を満たしただろう。そしてそれは、心を少しだけあたたかくしただろう。
「ね。ここへ来て一緒にお茶を飲みましょう」
「……あ、ああ。はい」
やっと呪いが解けたみたいに、二本の足がカラカラと、アトリエの中へと動き出す。人間のくせに意思をもたないマリオネットみたいだ、なんて言ったら、きっと先生は悲しい顔をするだろう。
「どうも、すみません、先生」
「いえいえ。ままならないことというのは、誰にだってあることですよ」
先生と人間が同時に席につくと、膝がぶつかるくらいの距離で向かい合うことになる。二人掛けとはいえ、この正方形の木のテーブルは、とても小さい。
「ああ、扉を閉めないとね」
なんとはなしに先生が言えば、青年が奥からすっ飛んできて扉を閉めた。蝶番はもう眠ってしまったのか、少しの音も立てなかった。
先生が青年を見上げて微笑む。
「ありがとう。食事中なのにね」
青年はうなずき、満足そうに、口をもぐもぐさせたまま奥へ戻っていった。青年の仕事は終わった。このあとは二匹の猫に戻って、かごの中でまた眠るのだろう。
「……あの」
鞄を床に押しつけた人間が、テーブルの木目を見つめて、辛抱ならないといった面持ちで口を開く。
「もう限界なんです」
そう言っただけで、ほろほろ涙を流しはじめる。先生はカフェオレを一口含んで、それは大変なことです、と返事をした。人間には、目の前の緑色のカフェオレボウルも、その中の、湯気が立ち上るあたたかいカフェオレも、いまはどうでもよいことのようだった。
ぺちゃんこになった鼠色のハンカチを取り出しながら、人間はぐずぐず言った。
「あ、編み直してください! 先生! お願いします……!」
人間はそれきり口をつぐみ、目の前にいる先生をそわそわと見つめて、じっと返事を待っている。先生がノーと答えたら、つぎは土下座でもしかねない。そんな危うさが頭の上から煙のように立ち昇っている。
とはいえ、つぎに先生が言う台詞は決まっている。
「あなたの未来を縮めることになりますよ?」
人間は、どもりながらもはっきりとした声で、構いません、と答える。
「だってなにより大切なのは、いま、なんですから!」
言って、人間は両手でむしゃむしゃと後頭部を掻きむしった。先生はそうですね、とうなずきをまじえて相槌を打つ。けれどその眉はさみしげに下がっている。
「たしかに。未来は、いまがなければ存在しませんものね」
「そう、そうなんですよ先生!」
人間はそこで、やっと自分からカフェオレボウルに口をつけた。熱いそれを、ごくごくとじょうずに飲みこんだ。先生に話が通じて安心したのかもしれないし、嬉しかったのかもしれない。一方で、喜色を滲ませる人間を見る先生の目が、悲しく光る。
人間は先生をいつもさみしくさせる。人間はいつも先生を傷つける。私は人間のことがそういう点において苦手である。
「そら、隠れていないで出ておいで?」
隠れているつもりはないのに、という気持ちをこめて堂々と、ピイピイ、と二度鳴いてみせる。窓の木枠の上にいた私を、先生が見つける。
「ほら、こっちへおいで」
先生が人差し指を一本、窓の方を指差すように高く持ち上げた。あたたかい止り木に、私はつい、と文字どおり羽根を伸ばす。
「よしよし、今日もよろしくね」
ポケットから砕いたくるみを取り出して、先生が私に笑いかける。手のひらに散らばったくるみを一口、二口啄んだのち、返事の代わりに、ピイ、と鳴いた。
私を肩に移し、シャツに引っ掛けていた細い金縁の眼鏡を掛けて、先生は人間に優しく尋ねる。
「まずはお話をね、おうかがいしましょう」
テーブルの下から紙とガラスペン、それからインク壺を取り出して、人間の話に慎重に耳を傾ける。私も先生の肩の上で、一言一句漏らさないようにつとめて聞く。
「人の顔が怖いんです、みんなが私を見ている気がして。この前もちょっと、失敗してしまって、それで……。その、みんなの前で。ちょうど一週間前の話です」
テーブルががたがた揺れているのは、人間が足を小刻みに動かすからだ。
「それは、一週間前の何時くらいかわかりますか? 朝とか、お昼、とかでもいいですよ」
「お昼の前です。昼前、ちょうど、十一時くらい。十一時をまわったくらいです。先生、私、何時だったかを思い出すだけでもこわいんです」
おかしいですか、と問う人間の肩が、異様な速度で上下している。先生はそうですか、そうですか、と繰り返し、視線を下げて、カフェオレを勧めた。人間のからだは全体的にぶるぶる震えているので、案の定、口の端からぽろぽろとカフェオレをこぼした。
「ああ!」
「大丈夫ですよ。拭いましょう。ハンカチはありますか?」
あります、あります、とすでに涙に濡れているぺちゃんこのハンカチで、口とテーブルを拭く。ほら、もう元通りですよ、と言って、先生は微笑んでいる。
対して、いつもこんな調子なんです、と呟く人間の顔は、悲壮に歪んでいる。
「あの、パニックが来るとわかっていても、逃げられないんですよ。逃げる逃げないの問題じゃないんです。そいつは待ち構えているんですから。内から滲み出てくるんですから。どうしたらいいんですか、私は」
「布団にくるまってひとりになれたら、どんなにかいいことでしょう」
「そんなの、道の真ん中でできませんものね、ええ、わかってはいるんですよ」
「それで、その時間を忘れたい? なかったことにしたいですか?」
人間は何度も首を縦に振った。
「ええ、はい、忘れたいです。根本的なところはずいぶん前に先生に診てもらって、編んでもらったというのに、やっぱりひょっこり顔を出すんです、その、あのときの恐怖が」
「過去のすべてを編み変えるというのは難しい話ですからね。それは、申し訳ないと思います」
先生が頭を下げる。急にからだが傾いだことで、私は先生の肩の上でたたらを踏んだ。
「いえいえ、謝らないでください先生。いいんです。とにかくいまは、この苦痛を、苦痛を受けた直近の過去を取り除いてほしいんです。じゃないと私、パニックを起こしたことを思い出してパニックを起こしそうなんです。予期不安だろうがなんだろうが、とにかくそんな悲しいことってないでしょう?」
「苦しいことですね。お薬は?」
「飲んでいます。きちんとね。でも、でも」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ。よくここまで来られましたね」
先生は私を肩に乗せたまま立ち上がり、人間にも立ち上がれるかどうかを訊いた。人間は大丈夫ですと蒼白な顔でうなずき、二人と一羽で、窓際へ移動する。
外はとっくに日が暮れて、月が空高いところに顔を出している。昼も夜も、濃度が違うだけで空は青い。それがわかるのは、アトリエの中が、カンテラの明かりであたたかく照らされているからだ。
「では、そこの木箱へ座っていただけますか?」
「はい」
私は優秀な助手なので、先生に言われる前に、木箱に腰掛けてうなだれている人間の膝へ飛び立った。膝から腕を伝って肩、つぎに頭の上に飛び乗って、見上げた先、先生の目をじっと見て合図を待つ。
木箱の前のロッキングチェアに腰を据えた先生は、ポケットから取り出したいやに白い棒切れ二本を手にして、先ほど取ったメモを静かに見返している。この棒切れは幼いころの先生のあばらから抜いたもので、これが、過去を編む針になる。過去と未来とを綺麗に編みこむ、少し湾曲した細い編み針。
過去を忘れたいと懇願する人間に、先生ができることはただひとつ。それは、未来を代償に、過去をとり変えること。すでに編みこまれた過去の糸をほどき、来たるべき未来の糸を使って、まっさらに、平坦に過去を編み直すこと。もちろん過去は変えられない。物事はけっしてなかったことにならない。ただ、当人だけがその出来事を忘れられる。そのとき感じた羞恥や恐怖といった、主に日々の生活に支障をきたす嫌な記憶を。
簡単に見積もりを取った先生が、最後にもう一度訊く。
「向こう三年分くらいの未来が必要になるでしょう。それでもやりますか?」
しかしここまでくれば人間はもう悩まない。
「はい、はい。一思いにやってください」
それはつまり、三年分の寿命を縮めるということだ。
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
ピイ、と鳴いて、人間の頭にくちばしを刺した。
私は過去と未来の糸を取り出したり、紡いだりする係で、この尖ったくちばしを使って、ついつい、と糸の解け目を探し出す。人間の頭から、ときには心から、いらない過去とその分の未来の糸を、きっちりと、できるだけ過不足なく抜き取る。
先ほど人間が言った、“一週間前の、午前十一時をまわったくらい”に相当する糸を探る。変色して黒くなったそれは、案外すぐに見つかった。見つかればあとは思い切ってずるずるっと引っ張り出すだけ。先生がそれを検分して、問題がなければ大きな音が鳴る裁ちばさみで、バチン、バチンと断ち切ってしまう。
よくできたね、と先生が私の赤い頭を親指で撫でてくれる。私は途端に嬉しくなる。人間は人間で、期待に満ちた眼差しで先生の手の中の裁ちばさみを眺めている。
「いつ聞いてもいい音ですね。ああ、これで忘れられる」
「そうは言っても未来はね、いつまでもあるわけじゃないですよ」
人間はいつか死ぬ。その“いつか”が先生の手で早まってしまう。いくら人間自身が望んだことでも、先生はそれがさみしい。
けれど人間には先生のさみしさなんて関係ない。
「そんな、先生! いまさらひどいことをおっしゃる! 今日はやめにしてしまうんですか?!」
木箱から立ち上がろうとするからだをそっと制して、先生が笑う。
「安心して座っていてください。仕事はきっちりこなしますからね」
先生の目配せを受けて、また人間の頭に戻り、つぎは適当な未来の糸をつまみ出す。
過去の糸は太く、未来の糸は細い。未来はまだ不確定要素が強いから、と先生は言う。だからその分、未来の糸は何本か撚らないと、過去に見合った太さにはならない。
たくさんの未来が、すでに過ぎ去った“はず”の過去に使われるというのは、もったいないことだと思う。それでもこういう人間は、過去を忘れるために、喜んで未来を差し出す。そうしないと、いまこの瞬間すら生きられなくなるからだ。
そう考えると、仕方のないことだとも思う。
「終わったら起こしますからね。寝ていていいですよ」
「はい、先生。お願いします」
先生が針を進めるほど、人間の死相が濃くなる。その代わりに、過去が生まれ変わる。記憶に囚われずに済むようになる。
過去を編んでいるあいだ、先生はじっと黙っている。手元がチクチク動いているのと、あとはロッキングチェアがゆらゆら揺れるだけ。私は人間と先生のあいだを糸をつまんでパタパタと往復する。人間は、もう眠っている。
起きたころには、だいたいの人間の頬に赤みが戻っている。恐ろしい過去を未来で上書きして、人間はしばらくのあいだ精神的に健康になる。いいことだ。なにより、それが先生の仕事で、このアトリエの存在意義なのだから。
ところが例外もある。
寿命が足りず、過去を編んでいるさいちゅうに未来が費えて死んでしまった人間は、このアトリエの、大木の裏にある原っぱに埋めることになっている。そのときはさすがにさみしい。私も猫たちもしゅんとしてしまうし、先生は泣いてしまう。死体だけが、幸福な“いま”を夢見て土の中で笑っている。
訪れるはずだった“いま”が、存在しない“未来”であったことにも気づかないまま――。
「間に合わなかったね」
死体を埋めたあと、先生は必ずそう言う。それから、黒と白の猫を二匹ともしっかり腕に抱えてしまう。対という存在は、先生の心をいくらか安らかにする。
山際の空が燃えている。また、じきに夜がくる。
「さあ、アトリエに戻ろう。カンテラに火を灯さないとね」
先生は、過去を編む人。
あなたが苦しんでいることを、先生はきっと見捨てない。
(了)