第一章 そうして僕は思い出した
薄暗い森の中を走っていた。
時折、服に掛かる草木や、木の枝から垂れる蔓を鬱陶しいと感じる余裕すらなく、ただひたすらに駆けた。
近くで銃声が鳴り、俺は滑り込むように木の陰に身を隠す。
呼吸が一向に落ち着かない。
嫌でも耳に入る恐怖が、体を休ませてはくれなかった。
手にしたアサルトライフルが、いつもよりずっと重く感じる。
無理矢理にでも落ち着かせるために、大きく息を吸い込んだ。
そのとき、突然前方の茂みが不自然に音を立てて揺れた。
――息を吐き出すのを止めて銃を構える。
たった一秒が数分にも感じる、長く苦しい時間だった。
そして――再び茂みが動いた!
「うわあああああああああああああ!」
恐怖に震える指を動かすために、溜め込んだものを全て吐き出し叫んだ。無駄に強く引かれたトリガーが、いくつもの銃弾を茂みの中へと放り込む。
しかし――。
「なっ、へ、蛇?」
茂みから現れたのは普通の蛇。
棲み処が戦場になったせいか、それとも春の陽気に起こされただけなのか、蛇はニョロニョロと胴体をくねらせ茂みから離れていく。
拍子抜けして漏れた溜め息は、張り詰めた緊張も一緒に解いていった。
だが銃を下ろした刹那――、
「……ッ!」
視界の端で人影を捉えた!
俺は、声を出す間も無く捉えた方向に銃を向けた。
――が、気づくのが遅すぎた。
次の瞬間には無数の銃弾が、全身に降り注いでいた。
体中に走るいくつもの痛みと衝撃で、俺は背中から大地に倒れた。
目に入ったのは降り注ぐ眩しい光、吸い込まれそうな青い空が、木々の合間から見えた。
俺はその青い空に手を伸ばし、最後の言葉を――。
「ヒットーーーっ!」
そう声に出した。
そそくさと立ち上がり、両手でエアガンを高く持ち上げ、戦死したと周囲に伝える。
「あたたっ、ヒットっす! ヒットでーす」
これはサバイバルゲームをするに当たっての重要なルールだ。
必要なのは手を上げる行為だけだが、声も上げておかないと今みたいに余計な攻撃をされる危険が増える。
さっきは声も出していたのに追い打ちを受けたわけだが、それくらいで短気を起こしてはいけない。なにしろ俺は紳士だからな……変な意味ではないぞ?
サバイバルゲーム……以下サバゲーとは紳士のスポーツだ。
ヒット。つまり銃弾たるBB弾を受けて、戦死したという判定は基本自己申告である。ゆえに、互いの信用が不可欠なスポーツであり、それが紳士のスポーツと言われる由縁だ。
――なんつってな。
偉そうに語ってはみたが、実は俺も今回がサバゲー初体験だ。
そんなわけだからさ、さっきまでは心臓バクバクで緊張しっぱなしだったよ。
むしろヒットされてようやく落ち着いた気分だ。
冷静になって周りを確認してみると、自分たちのチームが、かなり押しているようだった。
うん、初戦闘は勝利で飾れそうだな。
まあ俺は戦死したわけだけども。
このままゲーム中のフィールドに居座っては邪魔になるだけなので、俺は待機場所へと移動した。
「あ、大和くん。やられちゃった?」
中に入ると非常に丸みを帯びた男が声を掛けてきた。本来は、ある程度ゆったりとしているはずの迷彩服がパッツパツになるほどの膨よかな男だ。
「ああ、テンパちゃって。一応二人はゲットしたんだけどさ」
「初めてで二人もゲットできるなんて凄いよ! さすがは大和くんだなあ。僕なんてもう何十回も経験しているのに、今回も早々とヒットされちゃったし」
ちなみにゲットというのは相手をヒットさせた事をいう。
つまり、さっき俺はやられる前に二人ほど倒していたわけだ。
それから大和ってのは俺の名前だ。
橘大和。漢字で書くと微妙に古めかしいというか、固い感じがして自分ではほんの少し抵抗がある。
もう一ついでだが「さすがは大和」ってのは、別に俺が経験豊富で優秀な人材だから、というわけではない。ただ大和って名前が、戦争時の軍艦とかにも使われていたくらいだから強い漢って感じがすると、勝手にこいつが思っているだけの話で、さっきも言ったが俺は今回が初参戦。素人に毛が生えたような、ただの新兵だ。
つうか最後は沈んでいるけどな、軍艦大和……。
というか、名前だけならこの丸い男も負けてはいない。
こいつは高校の友人で紅野舞太という。
気づいただろうか。ちょっと読み方を変えると、なんとびっくり、世界で一番カッコイイ豚さんになるのだ。
ゆえに学校では見た目の印象もあり、ポルコの愛称で呼ばれている。
それと、名前だけ。なんて言ってしまったが……、
すまん、あれは嘘だ。
つい見栄を張ってしまった。
俺はポルコに名前だろうと何であろうと、何一つとして勝ってなどいない。
豚を連想させてしまう、その体と鼻。
脂ぎった肌がテカテカと鈍い光を放ち、見た目通りの運動神経。
おまけに学業成績も芳しくなく、無駄にサラサラしている黒髪が、むしろ逆に気持ち悪い。
近づくと臭ってくる、すっぱいにほひですら、それらに比べると些細な欠点に思えてしまうほどのパッと見は残念過ぎる男子高校生、紅野舞太だが――。
こいつの素晴らしさは、安易な見た目の容姿や成績だけでは計れやしない。
詳しく話すと悲しくなるから少しだけ。
こいつは名前負けなど決してしていない、喋ればイケメンを地で行く最高の男なのだ。
と、何を男について熱く語ってんだ、俺は?
まあ言いたいのは、俺にとってポルコは大切な友人ってことさ。
「俺なんて大したことないよ。間違えて蛇がいただけの藪を撃ったりしたし、こいつの重みにも振り回されているし」
そう言って、俺は手にした銃を肩に担ぐ。
はい、ちょっと格好つけてみました。すみません。
「ふふ、大和くんのM4は少し重いからね」
ちなみにM4とはエアガンの名前だ。結構メジャーな銃なので見たことがある人も多いと思う。
それから始まったのは同好の士以外にはまったく理解されないであろう、ちょっとマニアックでディープなエアガン談議。
そんな会話をしていたら後ろから来たおじさんも話に交ざってきた。
おそらく三十代後半くらいだろうか。
さらには椅子に座っていた男性も話に加わった。
この人は顔にカモフラージュ用のペイントをしていて、いまいち年齢は判別できない。
こうやって新参者にも気安く声を掛けてくれる経験者が多いのも、紳士のスポーツたる理由の一つだろう。趣味としては割とマニアックな類だし、そういう趣味を持つ者は横の繋がりが嬉しいものだ。
俺自身はあまり周りに関心を持つ方ではないけれど、ポルコのように同じ趣味の友人がいることは素直に嬉しい。
そんなこんなエアガン談議が一区切りした後は、実戦経験豊富な仲間たちと一緒に今回のゲームの分析が始まっていた。
どうやら俺が戦場で感じた通り、うちのチームがかなり押しているようだ。
今回はフラッグ戦といって、相手陣地の旗の下にあるスイッチを押せば勝利となる。
当然戦線を押し上げている方が優勢とみていい。
ただ気になるのは、さっきからこの待機場所に集まって来るのがうちのチームばかりということだ。
俺が来た時は同じような割合だったのに、いつの間にかうちのチームの証であるイエローのマーカーを巻いているメンバーが増えてきている。
はて、これはどういうことだろうか?
程無くして「プォ~」という警笛の音が、待機場所も含めフィールド全体に響き渡った。
ゲーム終了の合図だ。
「うっし。勝ったな……」
イエローチームのメンバー同士がハイタッチをしようと手を掲げ――、
「レッドチームの勝利でーす」
――空振りに終わった。
予想外の結果報告に、俺たちイエローチームの動きが完全に止まった。
対照的に待機場所にいたレッドチームの面々は小躍りをしている。
ここにいるプレイヤーの数を見れば当然の結果にも見えるのだが、ついさっきまでフィールドで戦っていたメンバーからしてみれば、敵陣地近くまで攻め込んでいたのに、いつの間にか自軍が落とされていたのだから唖然ともなろう。
伏兵でもいたのかな?
まあ負ける事だってあるだろうし、この時は深く考えず気持ちを切り替えて次のゲームへと移っていった。
俺個人としては記憶に残るであろう大事な初戦を落としたわけだから、少し残念ではあったけどな。
そうして始まった第二戦。
初戦と同様俺たちは気持ちよく敵陣に攻め込んで行くことに成功し、そして気持ちよく待機場所に帰された。
――ともかく俺たちイエローチームは連敗した。
第三戦に行く前に昼食タイムが挟まれ、プレイヤー全員でカレーに舌鼓を打った。
意気揚々とカレーを平らげるレッド―チーム。
そして我らがイエローチームは、スプーンを手に持ったまま首を捻っていた。
終には敵の目の前で作戦会議である。
敵といっても同じサバゲーをやる仲間だけどな。
どのみち相手はまったく聞いていないし、どこで作戦を練ろうが関係はなさそうだ。
正直、俺は初参加で戦術とかもよく分からん。
なので、今のうちに自分ができることをしよう。
うん、便所に行こう。
食事場所から離れトイレを探すことにした。ポルコを誘って連れションでもよかったけど、あいつは汗だくでハアハア言っていたので、少し休んでいてもらおう。
それからふらふらと歩き回ること数分、トイレも無事発見し速やかに用事を済ませて戻ろうとした矢先、まるで発声練習をしているかのような大きな声が耳に届いてきた。
「自分アップルスリーは、隊長の素晴らしい采配と決断に心を奪われました。もし宜しければこれからも貴方の御傍で戦いたく、また公私共に最高のパートナーになれればと……」
変な軍隊口調で、妙な事をほざいていた。
軍人かぶれ、またの名をコールサイン(おそらく)アップルスリーが、どうやら隊長さんとやらに回りくどい告白をしているようだ。
そんな声を偶然にも聞いてしまった俺はというと、
足音を忍ばせ、物陰に隠れながら声の方向に近付いていた。
悪いとは思いつつもあんな面白い――、じゃなかった。真剣な台詞を聞いてしまったら気になって仕方がない。
当然の反応だよな?
しっかし、トイレの近くで愛の告白なんてするか普通?
とにかく声の方向、感じからしてそれほど離れてはいまい。慎重に進まねば……。
むっ、目標視認だ。
対象をギリギリ視認できる位置に待機し、様子を窺う。
告白を行ったらしき男性は後ろ姿しか見えず正確なところは分からないが、脱色された髪と大きめの耳から僅かに見えるピアスが大学生ぐらいだと感じさせる。
今は直立不動の姿勢を頑張り過ぎて全身がプルプルしていた。
そして表情が見える隊長さんの方だが――、正直驚いた。
隊長と呼ばれていたくらいだし、もしかしてメンズ同士だったらどうしよう、なんて少しばかり恟々ともしていたが、赤みのある髪を鮮やかな若草色のゴムでアップスタイルで纏め、前髪をシンプルな銀のヘアピンで留めている隊長さんの顔はどう見たって女性のものだ。
しかも驚くことにその女性、いや女の子はどう高く見積もって見ても高校生ぐらいにしか見えず、しかもめちゃくちゃ可愛かった。
大きく見開き太陽のような輝きを放つ艶やかな瞳、光沢すら感じる小振りな唇、思わず見惚れる白く綺麗な首筋の破壊力が、この距離からでも分かる。
迷彩服とはいえ腕組みをした上部にしっかりと浮き上がる膨らみからは、スタイルの良さも十二分に感じさせた。
そこにいた女の子は隊長なんて響きがまったく似合わない、紛うこと無き美少女だった。
その美少女の表情が、真っ赤に染まった驚きの色のまま微笑みに変わる。
俺は理解した、彼女の答えを。
さすがにこれ以上は無粋だ。
俺は何も見なかった、聞かなかったことにして背を向けた。
でも一応思春期真っただ中の男子高校生として、一言だけ言わせてもらおう。
「……爆ぜ散れ」
「クソ虫以下の存在で何をふざけたこと抜かしているの?」
……ほへ?
「クソにたかるクソ虫のクソ以下が一丁前に愛を語るなんて思い上がりも甚だしいのよ。あんたはまだ犬畜生にすら劣る役立たずのクズよ。無駄に情欲を滾らせている暇があるなら唯一の相棒である銃を恋人と思って磨き続けることね。まずは使えるクソ虫ぐらいにはなってみせなさいよ。人になっていいのはそれからよ。わかったかしらこのクズが!」
直後、俺は脱兎の如くその場から逃げ出した。
すまんアップルスリー、本当に爆死するとは。
だってあの笑顔は「うん、私も好きでした」ぐらいの台詞が出てもおかしくないぐらい、最高に輝いていたんだ。
まさか、あそこからあんな毒を吐くなんて思ってもみなかったんだよ。
榴弾砲が降り注ぐ戦場を駆け抜けるように全力疾走で逃げ帰った俺を出迎えてくれたのは、戦友ポルコの輝く笑顔だった。
比喩ではない、実際にテッカテカだった。
「どうしたの大和くんそんなに慌てて? 汗だくじゃないか」
「それ言うならポルコも、あ、いつも通りか。いやその、戦場で悪魔に出会ってしまった気分を味わったというか」
「なんだい悪魔って。ああ、もしかして蛇とか? フィールドでも見かけたんだっけ。あんまり多いようなら運営さんに報告しておくべきかな」
蛇と言うよりも蛇の持つ毒そのものを見たというか、聞いてしまったというか。
「そういえば話は変わるけど相手チームの強さの秘密が判ったんだよ。なんか優秀な指揮官がいるみたいだね」
背筋が震えた。
「しかもなんとびっくり、その指揮官さんは女の子なんだって。それも僕たちと同じ高校生らしいよ」
あの子だよな。隊長って呼ばれていたし。
「あ、ほらあの子みたいだよ。髪を高めで括っている子」
ポルコが俺の後ろに視線を移す。
俺も振り返りその視線の先を追ってみる。
思わず「ひっ」と悲鳴を上げそうになってしまった。
……やっぱりあの毒舌美少女隊長だった。
彼女は今しがた告白を受け、更には盛大に爆破してきたとはとても思えないほど軽やかな足取りで、俺が今しがた駆け抜けてきた道を歩いてきた。
当然、後ろにアップルスリーの姿は無い。
午後の参加プレイヤーは一人減りそうだ。
その隊長さんの元に二人ほど駆け寄っていく姿が見えた。
一人はえらく重武装の女の子で、男の俺でも重くて見動きが取れそうにないほど、全身に様々な装備を身に着けていた。
でも唯一露出している顔を見る限り、見てくれは文句無しの隊長さんにも負けず劣らずの美少女に見えた。ぜひあの重武装を解いてもらいたい。
もう一人は……何だ、あれは? ガスマスクをしている。
背丈はうちの妹と同じ小学生ぐらいか。さすがにあの年齢でガスマスクをされては性別まで判別できない。身の丈ほどのスナイパーライフルを背負った少年もしくは少女兵の姿は、それはそれで恐ろしく感じる。
「せっかくだし挨拶でもしておこうか? あまり同年代の人とは会えないからね」
「ま、待てポルコっ!」
俺は何も知らずに赤い悪魔へ近づこうとした戦友の手を掴んだ。
もちろん、この男は下心を持って女性に声を掛けるようなクズではない。
いくらなんでもいきなりアップルスリーのような仕打ちを受けるとは思えないが、穢れの無い純粋な気持ちで話をしようとしているポルコが、無残なウェルダンミンチポークにされる可能性も捨て切れない。
「一応俺たちは敵同士だ。挨拶は戦場で交わそうじゃないか、なあ?」
「おお、それはカッコイイね。戦士って感じだよ。負けたままじゃ合わせる顔も無いもんね」
良かった、なんとかポルコの命を救えた。
「それに大和くんにも勝利の美酒ってヤツを味わって貰いたいからね。よ~し午後はもっと頑張るぞお」
色んな理由で熱い何かが目頭から溢れそうだった。
そして互いに決意を固めた俺たちは、それからいくつもの戦場を駆け抜けた。
地を這い、泥を被ってでも、この手に勝利を掴むために。
ここで得たものを俺は決して忘れることはないだろう。
全戦全敗という苦い敗北の味を、その記憶と共に……。
結局フィールドでは赤い悪魔とニアミスすることもなく、サバゲー初体験は無事終わった。
ポルコが「ごめんね、勝たせてあげたかったんだけど」と言って流した涙は、どんな宝石よりも輝いていた。
確かに勝利は得られなかったけど、俺は楽しかったし十分満足だったぜ。
ちなみに帰り際、もう一度トイレに寄ったら件のアップルスリーが、まだあの場所で立ち竦んでいた。
あまりの恐怖に石化でもしてしまったらしい。
一応、敬礼と黙とうを捧げておいた。
そして数日が過ぎた。
休日は銃を手に戦場を駆けずり回っていた兵士こと俺なのだが、平日は平凡な市内の高校に通う、しがない一高校生に過ぎないのである。
そんなわけで今日も身体的には元気に、精神的にはやや憂鬱気味に、我が県立天陵高等学校で二年目の学校生活を送っていた。
そんな俺は、昼休みが始まるなりポルコに体育館裏へと呼び出されていた。
桜の花もとうに散り、青々とした新芽が芽吹く。俺にも新しい何か始まる、そんな予感――。
――って、んなわけあるかいっ!
呼び出された理由は一昔前のヤンキー漫画夜露死苦のようなケンカではなく、ましてや薔薇の香り漂う腐ったストーリーが展開するわけでもない。
そうだ、断じて無い!
何故なら俺もポルコも普通の男子高校生で、喧嘩しないほど仲が良い。
仲が良いからって変な解釈もするなよ。
俺は春風に舞う女子生徒のスカートをつい目で追ってしまうような健全な男子生徒で、ポルコだって見た目こそアブノーマルだが中身は完全ノーマル。なにより、その……か、かの……じょ……彼女だっているんだよ、ちくしょーめ!
ぐおおぉぉ、認めてしまった。天陵男子、暗黙の了解である「気づいてない、だから認める必要もない」を、俺はついに破ってしまった。
だが、ここまで話してしまったなら説明するしかないだろう。
実はポルコには、かかかか彼女がいる。
相手は一学年上の生徒会長様だ。ちなみにとんでもなく美人だ。
どれくらいかというとだな――、
卒業した先輩から聞いた話では、入学式で目にしてから他の女子生徒が全て霞んで見えるようになった。
会長と同学年、現三年の先輩たちが言うに、会長と他の女子を比べたら、もう他の女子同士を比べても差が全く判らなくなっていた。
俺たち現二年ズは、この高校に入って上を見て生きる事の大切さを、言葉ではなく心で理解した。
今年入った一年たちは、天陵高校に入学した時点で負け組と呼ばれた。
――というレベルだ。
もちろん容姿が端麗なだけでなく、生徒会長を任されているくらいだから、頭脳明晰で品行方正、まさに完全無欠とはこのことだ。もしテストで完全無欠とはどういう意味かと問われたら、俺は迷うことなく生徒会長の名を答えるだろう。
しかし、そんな女神の如き生徒会長だが、唯一の欠点と周り(主に女子)に言われているものもあった。
当然、あのポルコを溺愛している、ということだ。
彼女のほうがポルコに一目惚れしたらしく(その辺りは天陵七不思議の一つとなっている)、そんなポルコは「全てを捨て女神に愛された男」と呼ばれている。
ポルコからしたら別に何も捨てているつもりは無いので心外もいいとこだろうが、全天陵男子から羨望の眼差しを一身に浴びることになった事実は変わらない。
全てが出来過ぎている生徒会長と、それとは正反対のポルコ。パズルのピースが組み合うように繋がる運命だったのかも知れないな。
だがそんな二人の関係に、俺たち男子は気づいていないフリをしている。
俺たちは絶対に認めるわけにはいかない。
何故なら「女なんて所詮見て呉れにしか興味がない」「彼女が出来ないのはイケメンじゃないから」という逃げ道を失ってしまうからだ。
だからこそ天陵男子には暗黙の了解「気づいてない、だから認める必要もない」という格言が深く浸透している。
最悪気づかざるを得ない状況に直面したとしても俺たちは心の中でこう叫び、これからも気づいていないフリを続けるだろう。
このイケトンめ!
おっと長くなっちまったな。まあ理解はできただろう?
とにかく体育館裏まで呼び出されたのは単に趣味の話をするためだ。
俺とイケトン野郎の共通の趣味といえば――そう、サバゲーだ。エアガンの方でも間違いはないかな。
今回はポルコが何か持って来たらしい。
「ポルコは何を持ってきたんだ?」
俺はついでに持ってきていた弁当箱を開き、その中からリンゴを取り出して尋ねた。
ん? なんでデザートから食べるんだってか?
それは違うな、リンゴしか入っていないからリンゴを食べるしかないんだ。
もちろん俺はダイエット中でもプロボクサーを目指していて減量中なわけでもない。これは、うちのちょっとズレた母親のせいだ。
昔、母親にリンゴが好きだと伝えたら、それ以来リンゴがあると必ずリンゴオンリーの弁当を作るようになった。
しかも何度注意しても毎日リンゴがあるわけじゃないから、しばらくすると言われた事を忘れてしまい、いざリンゴが手に入ると結局何度でもリンゴだけを詰めてくるのだ。
なので俺はもう諦めることにした。
リンゴだけとはいえ毎回ウサギカットなどの何かしらのこだわりを持って作ってくれる母親を憎めないしな。
物足りない時は俺が購買でパンでも買ってくれば済むことだ。
でもリンゴの端にバッテン印を入れるのだけは本気で止めてほしい。
おそらく口のつもりで付けているのだろうが、その印が皮を剥いた側に付けられているせいで、非常に残念な事になっている。
そのせいでちょっとブルーになってしまったが、ポルコの取り出した物を見て、削り取られた気力が見事復活! むしろ最大値も振り切ったかもしれない。
「実は大和くんにこいつを見せたくてね」
「こいつはXM2010! アメリカ陸軍採用の最新型モデルじゃないか! どうしたんだ、まだ発売されてないだろ」
「実は自作なんだ。中身は市販のスナイパーライフルなんだけど、外見はごっそり変えていてね。いやあ大変だったよ」
ポルコが取り出したるは全長一メートルは優に越える狙撃用ライフル、手動で弾を込める玄人好みの逸品だ。
「凄え、凄えよポルコ。でもどうしてスナイパーライフルなんかを、しかも自作までして」
サバゲーでの主流は連射が利いて取り回しのし易い、一般にはサブマシンガンとかアサルトライフルなんて呼ばれている類の物だ。
スナイパーライフルはその大きさから取り回しに難があり、しかもこれは電動ガンでもないので連射も利かず、相当扱いの難しいエアガンだ。
利点はあるが、それを生かすレギュレーションは滅多に無い。
「ほら僕って鈍臭いから、この前もすぐにヒットされてあまり役に立てなかった……」
「そんなことないだろ? ポルコだって……」
「いいんだ、自分でも分かっていたことだし。でもそんな僕でも精密射撃だけは自信があるんだ。これなら動きの鈍い僕でも物陰に隠れながらみんなを、大和くんを援護できる」
「ポルコ……」
「次こそは大和くんに勝利をプレゼントしてみせるよ」
くそぉ、これだからイケトンは困るぜ。
「ああ、二人で勝利を掴もうぜ」
次はもう負けられなくなっちまったな。ポルコの想いを無駄にはできない。
ただ一つ気掛かりがあるとすれば、ポルコの体を隠してくれる懐の深い物陰がフィールドにいったいどれほどあるかという事だけだが、それは今ここで言う事じゃないよな。
「そうだ、他にもパーツ情報の載った雑誌をいくつか持って来たんだ。あと参考に実際のパーツも。大和くんも色々と銃をカスタマイズしたいでしょ」
「最高だぜポルコォーーーーー!」
そのまま熱い抱擁を交わし――、
「この学校で藤咲先輩を一目見たときから、僕は舞い散る桜の花びらのように恋に落ちていました。お願いします藤咲凛子さん、僕と付き合って下さい!」
――そうになったが、不意に聞こえた男子生徒のものと思しき張り上げた声が俺たちを止めた。
つい最近も同じような場面に出くわした気がするな。あの時に比べたら随分とマシな告白文になってはいたが、ややポエマーか?
ところで同じような場面に出くわしたら、同じように行動してしまうのが人間の性ってものじゃないかな?
というわけで、俺はここから離れようと言うポルコを無理やり誘い込み、今回も声のした方に向かって忍び足で近づいてしまった。。
ちなみに、この時の俺は先日味わった恐怖だけをすっかりと忘れていた。
俺とポルコは体育館の陰から、そっと顔を出して状況を確認する。
いざ偵察ミッションが始まってしまえば、ポルコも結構乗り気だ。お互いに覚えたばかりのハンドサインを無意味に出し合って、この視認可能位置まで到達した。
確認できたのは告白をしたと思しき男子生徒の後ろ姿。
告白を受けたと思しき女子生徒の襟にある校章の色から察するに、先輩と呼んだ彼はまだ一年生だろう。綺麗に短く整えられた髪と緊張して震えまくっている姿が、俺的には好印象だ。
対する女子生徒――藤咲凛子は、同級生という事になるが面識はなかった。
どこかで見掛けた気もするが、同じクラスではない。
俺たち二年男子は上を見て歩く事の大切さを学んでいるため、クラスの違う女子まではチェックが行き届いていない事も多い。
そしてそれは仕方のない事だと俺自身も納得していたのだが、今回ばかりは上だけを見過ぎていた事に後悔した。
告白を受けてか、みるみる顔が朱に染まっていく少女は、ややあどけなさを残す雰囲気と、大きく艶やかな瞳に小振りでも柔らかなそうな唇を携え、肩まで伸びた赤みのある髪からチラリと見える白い首筋の眩さはまるで天使のようだった。腕組みをしたその姿からは凛々しさだって感じる。
比べること自体失礼だろうが、あの生徒会長にも見劣りしない美少女がそこにいた。
しかし、どうしてだろう? つい最近にも似たようなことを思うなり、呟くなりしたような気がするのは。
そんなデジャビュ体験は置いとき。
それにしてもどうだ、俺のこの目は。長所を通り越して特技と言っても差支えないのではないか。
十メートル以上離れた場所から小さな校章の色を判別し女子生徒の特長を見分ける。この目は鷹の目と呼ぶに相応しいレベルだ。
学校の視力検査では1・0以上としか判らないからな。
そんな風に心の中で自画自賛しているとポルコが目の前で、ここから去ろうとハンドサインを送ってきた。
そうだな藤咲凛子のあの笑顔からするに、入学した時点で負け組と言われた、あの一年男子は勝ち組へと変わるだろう。
ここにいても虚しいだけだ。
でもこれだけは言わせてくれ。
「爆ぜ散れ……」
俺は隣のポルコにも聞こえないような声で、そう言い残し……。
自分の目が如何に節穴だったかを思い知った。
「調子に乗って勝手に人の名前をフルネームで呼ばないでくれる。まったくクソ犬がなに入学して早々盛ついちゃっているの? あんた高校に何しに来たわけ? お子様の義務教育はもう終わっているの。無駄な情欲を滾らせている暇があるなら、まずはそのおめでたいオツムから大人になりなさいよ。いきなり下から大人になろうなんてクソ犬には十年早いのよ」
恐怖が再び呼び起こされて、俺はようやく気づいた。
赤みのあるあの髪は、二つの髪止めこそ無いが先日の毒舌隊長と瓜二つ、目も鼻も声もまったく同じ、間違いなく同一人物だ。
というかあんなのが二人もいたら日本は終わっている。
無意識に体が震える。
毒舌隊長初体験のポルコは大きめの前歯をガタガタと鳴らして青ざめていた。
「あら、どうして生まれたての小鹿みたいに足が震えているの? あんたはクソ犬なのよ、小鹿がかわいそうじゃない。それともなに? オツムよりもオムツの方が必要だったのかしら」
思わず俺の方が股間を抑えてしまった。
それにしても髪型が違うだけで女の子を見分けられないとは情けない。あんなインパクトのある邂逅をたった一日で忘れる鳥頭はどこのどいつだ。
そんな自分を心の中で責めていると、可哀想な一年生が目の前を横切った。
悪魔の声に堪え切れず逃げ出したようだ。チラリと見えたその顔に悲しみの涙は流れていなかった。
その替わり恐怖による脂汗がびっしりと溢れてはいたが……。
まあ逃げ出すことすらできなかったあのアップルスリーに比べれば、この一年生はまだタフだったと言えるだろう。
だが事件は、その後に起きた。
「あうっ」
俺のすぐ目の前を通り過ぎた一年生は同じようにポルコの前を通ろうとして、ちょっと人より二倍以上太ましいお腹にぶつかってしまった。
尻餅をついて倒れる一年生と手にしたサバゲーグッズをぶち撒けるポルコ。
――と、それに気づく見た目は天使、中身は悪魔の毒舌女子高生隊長。
「ん? 他に誰かいるのッ!」
「ひぃやああああああああああああああああああ!」
一年生は甲高い悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
おいそっちは校舎じゃなく校門だぞ。
いや名前も知らない下級生の心配をしている場合ではない。今は慌てて雑誌やパーツを拾い集めている戦友ポルコの身を第一に考えねば!
覗いていた事がバレたら「覗きをするなんて、あんたら最低のクズね」と罵られること確実。それに先ほどの毒舌内容から予測するに、サバゲーグッズも見られたら「神聖な学び舎に何を持ち込んでいるの。このキモオタが」等と続けざまに罵声を浴びせられるに決まっている。
意気投合してお友達になれる可能性も無きにしも非ずだが、そのイメージが残念なことにまったく思い浮かばない。
ならそんなリスクは避けるに限る。
「ほらポルコこれも。全部拾ったらお前だけは先に行んだ。俺が殿を務める」
俺の出した苦渋の選択は「偶然すれ違った同級生のフリ」作戦だ。あたかも昼休みにうろついていた風を装い、この場を誤魔化す。
それしかない。
ポルコが離れてすぐ毒舌隊長、もとい悪魔、もとい藤咲凛子が現れた。
有名なゲームの戦闘開始音が、俺の心の中で鳴り響いた。
畜生、フィールド画面でラスボスにでも遭遇した気分だぜ。自分の迂闊かつ自業自得な行動を呪いたくなる。
俺は自分が一年生にぶつかった体で、近づいてきた藤咲と顔を合わせる。
「ど、どうしたんだ、さっきのいちね――」
「あんた、こんな所で何しているの?」
問答無用に目尻を吊り上げた大きな瞳で睨まれる。
覗かれた事が恥ずかしいのか、それとも単にその事で怒っているのか、藤咲は弁当箱のリンゴウサギの耳と同じ様に顔を真っ赤に染めていた。
まずい、こっちの話を聞く気が無いぞ。
「ちょっと、その散歩っていうか。あっ、ほら食後のデザートを食べながら腹ごなしを」
手に持った残念な弁当箱をサッと前に差し出す俺。
「どうしてまだ食べているのに腹ごなしなんてしているのよ」
ごもっともで。
「ねぇ、あれ、あんたの?」
「え、何が――」
後ろを振り向くとそこにはサバゲー雑誌が一冊堂々と地面に置かれていた。
しかもその雑誌の表紙はビキニのグラビアアイドルがイケイケ(死語)のポーズで銃を構えている、持ってきた雑誌の中でも一番勘違いされる一品だった。
ポ、ポルコぉ……。
この最悪の戦場で最高に煽情的ミスだぜ……なんつって!
知らぬ存ぜぬを通すか迷う俺を、二つ意味でスルーした藤咲は落ちていた雑誌を拾い上げた。
「え、えっちぃ本じゃないよ? 断じて誓います。あ、ああ! 何にって話だよね。もちろん指導教諭に。はは、なんて……」
先日のサバゲーで味わった緊張の一瞬を遥かに超える、重くて長い一瞬が冷たすぎる視線と共に流れた。
「それさ、サ、サバゲーっていうんだけど、サバイバルゲーム。聞いた事ぐらいあるだろ。俺の趣味なんだ。君ももしかしたらき、興味とかあったり……なかったり……」
知らぬフリをしてしまったら大切なポルコの好意が教師に没収されるかもしれない。と、思い至った俺は、一縷の望みを掛けて「お友達になろう」作戦を決行――。したのだが、当の藤咲は素晴らしく冷めた目のまま雑誌を俺の胸元に押しつけた。
「おお、ありが――」
「時と場所も選ばずに自分の趣味を語るオタクってキモいだけよ」
グサりと胸元に突き刺さる切れ味鋭いナイフ。
「学校でしかも人気の無い場所でこんな物を読んでいる姿を自分で想像できる? 凄く悲しいと思わない? それがあんたよ。これならえっちぃ本を隠し見している方がまだ健全に見えるわ。もしかしてそれも読んでいたりする? どっちみち最下層の変態に変わりないけどね」
そのナイフにはえげつない毒も仕込まれていた。
放心状態となった俺の脇を軽やかに歩き去る毒舌悪魔は、通り過ぎ様に俺の弁当箱からリンゴを一つ掴み取っていった。
いつの間にか藤咲の顔色が、弁当箱のリンゴの断面のように瑞々しい肌色に戻っていた。
リンゴが俺の傍で藤咲の口元に近づけられたせいか、彼女の赤みのある髪から林檎の甘くて心地良い香りがしたような、そんな錯覚に落ちた。
「なんでお尻が描かれているのよ……食べ辛いじゃない」
すみません、無駄にリアリティを追及していて。
結局ポルコとのサバゲー談義は殆どできず、そのまま昼休みが終わってしまった。
その後、色んな意味で顔が広いポルコから、本来の意味で顔が広い生徒会長経由で、あの毒舌悪魔女子高生隊長藤咲凛子は三組の女子で、校内では結構な有名人である事を教えてもらった。
そりゃ、あれじゃあ有名にもなるよな。
むしろ俺はよく一年も知らずに、のほほんと学校生活を過ごしていたなって話だ。さすがに自分の無頓着さが信じられんよ、本当に。
そんな無頓着な俺としては早いとこ、その存在を忘れ去りたかったのだが、これでしばらくは名前も忘れられそうにない。
その日の放課後はポルコが生徒会長と……違った。何か用事があるとかで、持って来てもらった雑誌や自作のエアガンは、また明日見せてもらうことになった。
俺は先ほどの一悶着起きてしまった例の雑誌を一つだけ借り、残りを自分のロッカーにしまって、この日は家へと帰宅した。
別に表紙で選んだわけではないよ? まあ他に理由もないわけだけど……。
帰宅しリンゴ弁当の犯人である残念な母親と、そんな母親に色々とそっくりで残念な妹の三人で夕食を食べた後、俺は自分の部屋のベッドに転がり借りた雑誌をニヤニヤと眺めていた。
その姿をノックもせずに部屋へ入った妹に見られ「だいにぃ、きもちわるい」と言われたのがショックだ。エロ本じゃなかったことを喜ぶべきか……。
当の妹は「おやすみ」とだけ言い残し、すぐに部屋から出ていった。何しに来た妹よ。
あれ? もしかしてエロ本と勘違いされたのか?
ところで、なぜ俺が「だいにぃ」などと呼ばれているかいうと、単に俺の名前を「だいわ」と読み間違えたままそれが定着してしまったというだけだ。
決して単に、で片付けていい議題ではないが、それで通ってしまうのがうちの残念な妹たる由縁だ。
そんな妹の将来を一人悲観していると、ポルコから電話が掛かってきた。
時計を見ると九時を疾うに過ぎている。ラインならまだしも、こんな時間に電話を掛けてくるのは珍しい。
電話に出ると、昼に藤咲凛子と遭遇したとき程じゃないにしろ、電話の向こう側のポルコが相当動揺していることは声だけで判った。
「まずい、まずいよ大和くん。非常にまずいことに……」
「どうしたって、何がまずいんだ?」
「あ、明日、校内で持ち物検査があるみたいなんだ」
「え? でもそんな話は……」
「確定情報だよ、校則違反があまりに多いから抜き打ちでやるって」
なんとも説得力のある理由だ。現に俺たちもその一人だ。
特に雑誌はともかく、エアガンは完全に危険物だ。バレたら一躍校内一の危険人物にまで上り詰めるだろう。
ただでさえ、うちは生徒会長の御加護が素晴らしいのか不良の類が殆どいない。いても俺たちのように授業と関係のない物を持ってきているような生徒ぐらいだ。
あれ? もしかしなくても俺たち既に校内一の危険人物か?
「分かった。でもそんな話どこで知ったんだ? 抜き打ちってぐらいだから、教師以外に知っているはずもないと思うんだけど」
「ついさっき生徒会長さんに聞いたんだ。それで今日色々置いて来たままだった事を思い出して」
「こふっ」
ちなみにポルコは生徒会長を名前で呼ばない。ふふふ二人きりの時は知らないが普段も名前で呼ぼうものなら男子は発狂もんだ。
「ごめん大和くん、僕が勝手に持ってきた物なのに、君にまで迷惑を掛けて……」
雑誌類は俺のロッカーにあるからな、このまま見つかったら俺の所持物として扱われる。
でも俺はそれほど慌ててはいなかった。もちろん、なんとかなると思っていたからだ。
「そんなこと気にするなよ。明日って言ってもまだ時間はあるだろ? 今から取りに行けばいいさ、忘れ物をな」
「えっ、でもこんな時間に? 学校には誰もいないよ」
「だから都合がいいんじゃないか。リアルなスニークミッションだ、燃えるだろ?」
「大和くん……ごめん僕のミスなのに……」
「だから謝んなって、俺のためにしてくれた結果なんだ。俺も同罪さ」
「ありがとう。あ、もちろん僕も一緒に行くよ。僕なんかじゃ逆に邪魔になるだけかもしれないけどさ」
「何言っているんだ、一蓮托生は当然だろ? 俺たちは仲間なんだからな」
「うん、そうだね! じゃあ集合は校門前で。僕、今は大和くんの家とは反対方向に居るからさ、二十分ぐらいで着くとは思うから、それじゃあ」
あれ? 学校から見ればポルコの家は俺の家と同じ方角だったはずじゃ……。
くそぉ! 無駄に察しが良い自分に腹が立つ。
しかし今は、もがき苦しんでいる場合ではない。俺の家からも自転車で飛ばして二十分ちょいは掛かる。急いで外着に着替えて出発しよう。
着替えを終え、玄関で靴を履いていると物音に気づいたのか、妹が目を擦りながら二階から降りてきて「夜遊びは不良の始まりなんだよ」と言ってきた。俺は「忘れ物を取りに行くだけだよ」と適当にあしらい外へ出たが、妹の純真な発言に内心涙が出そうだった。
どうやら方向性だけは間違っていないようだ。俺の部屋に来たのも就寝の挨拶をするためだけだったのかもしれない。
なんとできた妹だろうか。
「よしよし、お兄ちゃんは不良になんかならないからねぇ」
小さくそれでいて自分に言い聞かせるよう呟いた。
色々と不安だった妹の将来に少しだけ光明が見えた瞬間だった。
だが、そんな妹よりも早くに熟睡している母親には未だに光は見えない……。
全力で自転車のペダルをこぐことジャスト二十分。
人気のない校門前に到着した。
登校時間のベストを更新だ。これからはもう少し朝寝坊ができると証明された。
割と山の中にある学校なのでこの時間にもなれば人の姿はまず見掛けない。いつもは坂の多さに文句を垂れているが、今だけはこの立地条件に感謝しよう。
「大和くん……」
先に着いていたポルコが声を潜めて呼び掛けてきた。
電話での二十分ぐらいって話はおそらく多めに言っていたのだろう。
「わりぃ、待たせたみたいだな」
同じく声を抑えて返事をする。さっきも言った通り人はいないだろうが念のためな。
「そんなことないよ。そうだ、校内の様子だけど宿直の先生や警備員はいないみたいだね」
そんな事まで調べておいて待っていないってのは、どう考えても嘘だよな。ポルコ的には調べていたから待ってはいないってことなのかな。
そのポルコは制服姿だった。
ということは、だ。
今日はこの時間まで家に帰っていなかったということに……。待て待て、だからと言って短絡的に考えることはない。そうだきっと学業が芳しくないポルコのことだ。塾とかに行っていたんだろう。
そんな話は聞いたことも無いがそういう事にしておこう。生徒会長に教わっているという話は聞いたこともあるが、俺は何も気づいていない、気づいていないんだ。
「よっしゃ、さっさと門を乗り越えて目的の物をゲットしようぜ!」
「どうして涙声なの?」
俺たちは校門の手摺りに足を掛け一気に上までよじ登る。
案の定引っ掛かったポルコに手を貸し、俺は力の限り引き上げた。その反動でそのまま反対側に二人して落ちてしまったが第一関門は突破だ。
続いて校内潜入。あ、自転車は近くの草陰に隠しておいた。
潜入についてだが如何に金の無いしがない県立高とはいえ、正面玄関には当然防犯対策が施してあるだろう。
だが、そこはやはり金の無いしがない県立高。二階の窓から侵入する分にはまったくのノーガード。少し遠回りになるが、体育館側から校舎に繋がる通路屋根に登り、その上を伝うことで二階の窓までは割とすんなり進める。
ポルコを屋根に上げるのに少し苦労したがここも問題無くクリアだ。
続いて二階の窓だが、我が天陵高校は伝統のある学校と呼ぶにはまだ早いけれども建てられてそれなりの年月は経っている。しかも生徒たちから乱暴に開け閉めされ続けた窓の耐久力は大分磨り減り、あちこちガタがきていた。
ぶっちゃけ手段を明かすなら、金属疲労により建て付けの悪くなった窓を上下に揺することで、緩くなった鍵が簡単に空いてしまうのだ。
そうして潜入に成功。中に入ってしまえば外に繋がる扉や一階の窓を開けない限りセキュリティに引っ掛かることも無い。
何故ここまで知っているかって? それは偉大なる先人たちが俺たち後人のために残してくれた伝統ってヤツさ。文化祭で泊まり込みが許されなかったとか、人には言えない何かをするためだとか聞いたな。
セキュリティ関連の話はポルコが生徒会長から聞いたらしい。あの人も悪よのう。これも愛するポルコのためか……。
また泣けそうだ。
「あとは物を回収するだけだな。ふぅ、やっと気を抜けるな」
「通りすがりの人にでも見つかったらアウトだったもんね」
教室の中にあるロッカーには教室そのものに鍵が掛かっているため近づけない(無理矢理こじ開けても今なら問題は無いだろう)が、忘れ物は廊下のロッカーにある。
潜入した箇所は校舎の一番端。
ちなみに俺たちは二年一組で、当然廊下に設置された自分のロッカーも一番端。
ただし潜入した場所とは逆の位置だった。
まあここにいる間は安全を確保できているので、ポルコと二人でゆっくりと二階の廊下を歩いていた。
そう油断しきっていた。
でもむしろ、そんな自然体の状態だったからこそ感じることができたのかもしれない。
――校内の空気が明らかに変わった瞬間を――
それはほんのちょっとした違和感。
特に境のない空間で、急に温度が一、ニ度下がったようなそんな感覚だった。
でも、はっきりと別の場所に入ったと感じた。
「な、なんだ?」
「え? なに今の」
「ポルコも感じたか? なんか変な感じが……」
気づくと不気味なほどに音がなくなっていた。
昆虫や動物の小さな鳴き声も、風に揺れる木々のざわめきも、何もかもが今までの世界に置いていかれたようだった。
そう、ここは別の世界。
そうだと確信できるほど肌で感じる空気が違った。
突然の事にうろたえること数分。その静寂は破られた。
聞こえてきたのはガラスが割れるような音。
ヒュンヒュンと高速で何かが飛び、そして跳ねるような音。
どれもこれも映画とかで流される効果音よりも小さくチープだったのに、映画館で聞くよりもずっと、ずっと体の奥にまで響いてきた。
「な、なんだっ」
「たたた体育館の方から聞こえなかった?」
ポルコが震えながらも窓に近付く。
俺もそれに倣って窓の外に目を向ける。
「……? なんだ、あれ」
すぐには気づかなかった。
夜の闇に紛れた真っ黒な影、それは確かに人の形をしていた。
僅かに赤く光っている影の一部がこちらに向いたのを感じた。
それはよく知る動作でまるでエアガンを構えるような――、
「――っ! ポルコ伏せろ!」
俺はポルコに飛び掛かり、そのまま押し倒した。
静寂を破った音がまた鳴った。
今度はより大きく、より近くで。
窓が割れ、その破片がうつ伏せになった体に雹のように降り注いだ。
顔を僅かに上げ天井を仰ぎ見ると、コンクリートの壁から小さな火花がいくつも散っていた。
何かが廊下に転がっているのをポルコが見つけた。
「これって……じゅ、銃弾?」
考えたくもない答えを口にする。
「う、うわあああああああああああっ!」
二人でどちらのものかも判らない悲鳴を上げ、教室の扉を体当たりでこじ開けた。
窓の隣接する廊下には居たくなかった。
教室に入っても冷静ではいられなかった。
そもそも袋小路の教室に逃げ込んでいる時点で冷静ではないが、今の俺たちには逃げるよりも隠れる事が正解だと思えていた。
廊下側には居たくない。だからといって教室の窓にも近づきたくなかった。
取った選択肢は小さな机で身を隠す事。体の大きいポルコはもちろん、俺も丸っきり隠れられてなどいなかった。
しばらくして聞こえてくるようになった足音がとてつもなく怖かった。深夜の学校に不法侵入しているというのに、それを隠す気など毛頭無いと、その足音は物語っていた。
教室の扉がこじ開けられたままになっている事に今更ながらに気づいた。これではここにいると自ら晒しているようなものだ。
でも気づいても体は動こうとしなかった。
今最優先されているのは、例え無駄だとしても隠れるという一点のみなのだ。
隣からは詰まるように泣くポルコの声が聞こえてくる。
これでは隠れている意味など本当に無いだろうな。いつの間にかそんな事を考えられるぐらいには落ち着いてきた自分に少し驚いた。
そして最後の時が訪れた。
扉のない入口の前で、中の様子を窺うように足音が止まった。
今までで一番長い一瞬だった。
サバゲーで感じた時よりも、何気ない日常で起きたちょっとした事件の時よりも。
その一瞬が終わり黒い影は流れるように一つ、また一つと教室の中に流れ込んできた。
俺は咄嗟にポルコの方へ目を向けた。
何故かポルコも俺を見ていた。
ポルコはもう泣いてはいなかった。
それどころか僅かに笑っていた。
決して恐怖でおかしくなったわけではない。
何かを決意した男の目をしていた。
どうしてだろう……、俺はこの目の強さをどこかで見た気がする。
ポルコが意を決したかのように窓に向かって走り出した。
俺を置いて逃げ出したのではない。数少ない選択肢の中から俺だけでも助かる可能性のある行動を選んだんだ。
自らが囮に……そうだ、こいつはそういう男だ。
こんな状況でもポルコはイケトン野郎だった。
そして俺は、影の銃口がポルコの背中を一斉に捉えたのが分かった。
この時の俺は、どうしてあんな行動を取ったのだろう。
俺はポルコの背中を覆い被さるように飛び出していた。
何の意味も無い行動だ。
成功する確率はともかくとしても、相手に飛び掛り銃を奪おうとした方が、まだこの場を切り抜ける可能性があっただろうに、せっかくのポルコの決意も無駄にした最低の行動だ。
それから聞こえたのはまるで玩具のような銃声。
エアガンから発する音のように軽いのに、腹の底に直接響く音。
それは人の体にはとても重たい音だった。
突き刺さるような痛みと熱を、体中に感じた。
でも苦しくはなかった。
苦しいと思う前に、俺は深い闇の底に沈んでいたから。
わずかに働く思考がレクイエムのように暗黒の世界で響いていた。
……ほんの少しでもポルコは守れたかな。でもあいつ体が大きいから無駄だったかな。
……俺が学校に行こうなんて言ったからだよな、ごめん。
……母さんたちはどうしているかな。朝になっても帰って来ない俺を不良になったって騒ぎ出すかも。
……林檎の匂いがする。はは、なんで藤咲凛子が思い浮かぶんだよ。まあインパクトはあったからな。
……今度はペンギンの人形を抱えた小さな女の子、リンゴの髪止めが可愛いな。これは子供の時の記憶かな。
……ああ、これが走馬灯ってやつだったっけ。懐かしいや……。
死ぬのは久々だったから忘れていたよ。
ごめん父さん、俺……また死んだみたいだ。
第一章 ~ そうして僕は思い出した ~