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第六章・大和編 思い出したのは大切な記憶

 寝たのか寝てないのかすら曖昧な夜が明けた。

 学生の悲しい性で無意識に登校はしたものの、案の定、授業内容はまったく頭に入って来なかった。

 それぐらいなら今までにも幾度かはあった。でも今回は胸の奥に重く圧し掛かってくる何かが苦しくて、じっと椅子座っているだけでも苦痛で仕方なかった。

 棘が刺さりっぱなしだった一ヵ月間のほうがずっとマシだ。


 今ままで藤咲に振られた馬鹿共も、もしかしたら今の自分と同じ状態に陥っていたのかもしれない。事情は違うが、今はそいつらの気持ちもある程度は理解できる気がする。

 まさに今の俺の状態なんて、傍から見れば藤咲に振られて意気消沈しているように見えるのだろう。クラスメイトの何人かの男子たちは何をどう察したのか、気持ち悪いぐらい優しく接してきた。

 さては記憶を自ら無くした情けない振られ虫だな貴様ら。

 もっとも情けなさでは今の俺も負ける気がしない。

 こんな気持ちになる原因なんて、さっさと忘れたくなるよな。


 でも、俺は忘れることなんて出来ねえよ……。



 昼休み。

 弁当にも手が付かず、ただ虚空を見つめ続けていた。

 そんな俺をただ純粋に心配してくれた一人の友が現れた。


 言うまでもない――俺の親友、紅野舞太ことポルコだ。


 懲罰だったのか御褒美だったのか微妙な生徒会長との二人っきりの補習を終え、無事テストも赤点全弾回避を成し遂げた、俺のポルコだ。

「ポルコ……」

 わざわざ心配をかけることもないと思う心情とは裏腹に、心配してくれと言わんばかりの弱々しい声を出してしまった。

「久々に一緒にご飯食べない? いつもの体育館裏で」

 俺の返答を待たずにポルコは優しく微笑んで歩き出した。

 その大きな後ろ姿に導かれるように俺もまた歩いていた。



 いつもの体育館裏は俺の気持ちとは正反対の、穏やかで爽やかな風が流れていた。

 もしかしたら隣にいるポルコが、俺の為に運んでくれたのかもしれない。


 しばらくお互い何も喋らず、この風に身を任せていた。

 二人でご飯を食べるという名目でここまで来たのだが、二人とも弁当箱も持たずに手ぶらで冷たいコンクリートに腰を下ろした。

 ポルコには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 一緒に居てくれることもそうだが、教室を出たところでポルコが誰かに謝っていたのを見てしまったのだ。

 相手は重箱のようなお弁当を抱えた、全校生徒憧れの生徒会長その人だ。

 きっと二人で愛情特盛手作り弁当を食べる約束でもしていたのだろう。生徒会長にも悪いことをしてしまった。

 当然同じ教室から出た俺も廊下ですれ違ったのだが、その時に浴びせられたであろう生徒会長史上最大の敵愾心を込められた視線に、今の俺は怯む余裕すらなかった。



 どれくらい風と共に時間が流れただろうか、俺はポルコに何を話せばいいのだろう。今の気持ちのまま話したら、きっとポルコも困るような愚痴やどうしようない感情を吐き出してしまいそうだ。

「すまん、ポルコ……俺、何を話したらいいか……」

 こんなことを言われてもどうしようもないよな。

「そうだね……とにかく何でもいいから話してみたら? 何でもないような言葉でも出すだけで楽になることってあると思うから」

 ポルコはそんな俺に付き合ってくれた。



 それから俺は本当にどうでもいい、つまらない話を自分が楽になりたい為だけに垂れ流し続けた。

 藤咲たちのことは当然何も言えない。なのに俺は胸の奥が重たいだの、俺は役立たずだの、そうなってしまった理由を黙ったまま、それこそ悪態をつくような言い方もしたりしてポルコに甘え続けた。

 俺の訳も分からない話から逃げることなく、ポルコはずっと向かい合ってくれた。


 そして俺は答えようのない質問をした。

「ポルコは……何のために生きているんだ?」

「え、生きる? 何のって……」

 こんな質問、十六、七の子供に……生きているポルコにすることじゃない。

 理由なんて無くたって生きていていいんだ。

 それが当たり前なんだ。

「俺は……幽霊になっちまったのかしれない」

 生きる理由が欲しかった。

 こんな俺が、ここにいる意味が知りたかった。

「僕は……」

 ポルコは今日初めて言い淀んだ。

 当然だ、こんな質問……。急にこんなこと言い出したら俺ならすぐに笑い飛ばしているだろう。


「わりぃ、変なこと聞い――」

「分からないよ。うん――やっぱり分からない」

 気持ちのいい笑顔だった。

 決して笑い飛ばしているわけでなく、真剣に答えた人間の笑顔だった。

「ちょっと考えたけど、僕には分からない」

「そうだよな。意味ないよな、こんな話さ」

「ああ、ごめん! そうじゃないんだ。僕の言葉が足りなかったね」

「え?」

「意味はきっとあるよ。でもそれは結果だと僕は思うんだ」

「結果?」

「そう、『生きる』意味じゃなくて、『生きた』意味って言えばいいのかな。何のために生きたのか――きっと人生の最後に答えが分かるんだ。だから今の僕たちはそんなことを考える必要なんてないと思うんだ」

 なんて眩しいのか。

 これが生きている人間の……幽霊の俺との違いか……。

「幽霊の俺には……生きた意味なんて、きっと最後まで分からないんだろうな」

「大和くんは幽霊なんかじゃないよ」

 慰めなんかいらないと思った。でもポルコは俺が死んだことのある人間だとは知らないはずだ。

 ならその言葉は――。

「大和くんが生きた意味を探しているなら、それは生きているってことじゃないかな」

 そうなのだとしたら、俺はどうすればいいのだろう?

 どうするべきなのだろう?

「僕には大和くんの生きた意味を探せない。何をすればいいかなんて教えることもできない。でもこれだけは言える。止まったままじゃ駄目だよ。止まったままでいたら、それこそ幽霊になっちゃうよ」

「俺は……きっと今止まっている……」

 ポルコの言葉が俺の身体を、心を震わせた。

 そんな俺の手を掴み、ポルコは思いっきり引っ張り上げた。

「なら動かないと! 何でもいいからまずは動いて、大和くんのその心のモヤモヤを吹き飛ばそう!」

 俺は立ち上がった。

 ポルコに立ち上がらせてもらった。

 ポルコに出会えて良かったと、この時ほど心の奥からそう想ったことはない。

「ありがとう、ポルコ。俺、何とかさ、何とか動いてみるよ」

「うん!」


 ポルコから最高の発破を掛けてもらった。この勢いのまま、気持ちのまま、まずは心を絞めつけるモノを振り払いたかった。

 そんな気持ちのボルテージがほんの少しだけ上がった俺の脳裏に、ある場所がポンっと浮かび上がった。

 そうだ、あの場所なら――。



 藤咲のこと、ゴールデンアップルズのこと、ポルコのこと、自分のこと、暗転、好転、色々と状況が絡み合い、色々と一杯一杯になってしまった俺は、後先も考えずに適当な理由をつけて学校を早退していた。

 そして家に帰り、運動用の着替えをありったけバッグに詰め、その日のうちにとある場所まで父さんのバイクで向かった。



 まず動く――ポルコからそう教わり、俺はひたすら体を動かすという何も考えていないかのような単純な結論を導い出した。

 実際、何も考えてなどいなかった。

 そう俺はとりあえず何も考えずに走り続けてみたかったのだ。


 しかも俺にはそれに打ってつけの場所があった。

 そこは祖母の住まう父方の実家。

 そこにも父さんが遺した物がある。本職の自衛官が造った、ただ走り回るだけで全身を隈無く痛めつけることができる本格的なフィールドアスレチック場だ。


 平日の昼間に突然現れた孫を、祖母は何の詮索もせずに快く迎え入れてくれた。しばらく会っていなかったので嬉しく思ってくれたのかもしれない。

 祖母ちゃんは「運動するなら」と言ってタオルを用意してくれた。「疲れただろ」と言って食事や風呂も用意してくれた。何も聞かずに泊めてもくれた。

 一応母さんには祖母ちゃんの家にいる事。それと学校を少し休むとも伝えた。

 そんな不良息子に母さんは、

「あらあらー、大和ちゃんも大人になったのねー」

 と、特にサボりを言及することもなく笑っていた。

 こんな事している本人が言うことではないが、もう少し心配したり怒ったりしないものかね。

「まったく、ダメな家族だな。ほんとに……泣いちまいそうだ」

 自分の顔なんて確認しようもないけれど、言葉通りの表情になっていないのだけは判っていた。



 そうして父さんのアスレチック場で走り続け、今日はここに来て四日目の夜。

 明日からは土日なので気兼ねなく走ることができるわけだが、まあ元から気兼ねするほど余裕も無かったので、相も変わらず我武者羅に走り続けていた。

「はぁ……はぁ……くそ、駄目だ。少し……休憩……だぁ……」

 もちろんずっと走り続けていられるほど体力も無ければ加減もしていなかったので、こうして頻繁に休憩は挟んでいる。

 肝心の成果だが、やはりこの訓練場の効果は素晴らしい。走っている間は自然と無我無心の境地に辿り着いてしまう。

 そう走っている間だけは……。

 体を休めてしまえば、その度に俺はあいつらの事を思い出していた。

「藤咲たちはどうしているかな。富良乃さんやみのりは玉砕した俺のことをどう思っているだろう……」

 その所為で胸の奥の苦しみは一向に消える気配が無い。

 むしろ時間が経って余計酷くなった気さえする。

「……天魔大戦のアプリからはもう何も来ねえし、通知が何もないってのはこんなにも不安に駆られるのかよ」

 今までなら週半ばには次の対戦内容を知らせる通知が届いていた。

 だが今週は俺の元にそれが届いていない。

 除隊させられたのだから当然だが、少し前の仲違い中はそれでも届いていたので、もしかしたらという淡い期待をこっそり抱いていた阿呆は余計に傷を広げていた。

「いつもは土曜か日曜、明日辺りにまた戦っているかもしれないんだよな」


 そんなつい零れる独り言に、今日は答える声があった。


「ふん、呑気な奴だ。ゴールデンアップルズの戦いはもうすぐだというのに」


 可能性がある人物は祖母ちゃんだけのはずだが、あいつらの事を知っているわけがない。なにより祖母ちゃんは横文字を使わない。タオルだって手拭いと言う。

 誰なのかは思いつかなかったが聞き覚えのある声ではあった。

 俺は俯いていた顔を上げ、その声の主を確認する。

「……なんでお前がここに居るんだ?」

「御挨拶だな。せっかく重傷を負ったという部下の見舞いに来てやったというのに」

 こいつは薄暗い田舎の夜でも白い部分と喉周りの鮮やかな黄色が映える寸胴の身体、ゴールデンアップルズの可愛くないマスコットの方――ぺ天使ことペンギン軍曹だった。

「もしかして、ここが今日の天魔大戦の戦場なのか?」

「見舞いに来たと言っただろうが、残念だが戦場は別の場所だ」

 また偶然にも鉢合わせたのかと期待してしまった。

「期待……? 何を期待しているんだ俺は……本当にどうしようもねぇ」

 そんな自分が情けなさ過ぎて嫌になる。

「どうやら自己分析は冷静に出来ているようだな」

「つーか天使ってのは天魔大戦のフィールド以外にも出て来られるのかよ」

「我輩は特別だ。貴様も死んだ時に天使を見た記憶があるだろう? そういう力を持った天使もいるということだ」

「そうかい、迷惑な天使もいたもんだ。こんな所で誰かに見られたら大騒ぎになるぞ」

 こいつが見られてもきぐるみにしか思われないだろうけどな。

 間違っても天使とは思われないだろう。敬虔な信者の方々が知ったら神への冒涜と取られてもおかしくない姿だからな。

「そんなミスを我輩が犯すはずもない。今の我輩の姿は普通の人間には見えんはずだ。そもそもこんな所で他の人間と遭遇するとも思えんしな。そういう貴様は何故こんな場所に居る?」

「別にお前には……いや、大切な場所だからだよ」

「こんな場所がか?」

「ああ、父さんの思い出があるんだ。子供の時に何度かここに連れて来てもらっていた」

 いつもなら誰かに訊かれても、適当にはぐらかしていただろう。

 今の俺は肉体以上に、精神的にも相当弱っていたのかもしれない。

 こんな奴に弱音を吐くぐらいだからな。

 いいや、一応天使らしいこいつは俺の事を色々と知っていそうだし、見た目もこんなだからペットやぬいぐるみに話しかけるような感覚だったのかもしれない。

「ここなら父さんに助けてもらえそうな……そんな気持ちになれるんだよ」

「情けない奴め、まだ親離れができないのか」

「物理的に離れているんだ。たまにはそんな気分になったっていいだろ……」

「それが情けないと言っているのだがな」


 分かっているさ。でも仕方ないだろ。それだけ俺の父さんは頼りがいのある人だったんだ。格好良かったんだ。

 俺の……俺だけのヒーローだったんだ。


「貴様の父親とやらは、よっぽど駄目な親だったようだな」

 だからぺ天使野郎の、この言葉には黙っていられなかった。

「なんだと……」

「何を怒っている? 別に貴様を責めている訳ではない。子がこんな腑抜けに育ってしまったのは、男親として教育が行き届いていないということ。つまりはその父親とやらの責任だ」

「これ以上父さんを馬鹿にするなよ。例えあんたが天使だろうが上官だろうがブッ飛ばすぞ」

「ふん、そう吠える貴様を見ているだけで我輩の中での評価は下がり続ける一方なのだがな」

 どうやら俺は本当に弱っていたようだ。

 こんな挑発に軽々と乗ってしまうぐらい余裕がなかった。

 俺は震えるほど拳を力強く握っていた。

 食い込む爪の痛みで疲れ切っていた体に鞭を入れる。

「貴様の父親は何をしたのか、何を残したのか理解できんな。ロクな父親ではなかったのだけは分かるがな」

「……ッ!」

 掴みやすかったネクタイを乱暴に掴み、右拳を思いっきり振り抜いた。

 思っていた以上に重い衝撃が体の芯にまで響いた……初めて本気で人を殴った。

 相手はペンギンの姿をしたきぐるみみたいな奴だったが、普通に喋る奴だから人を殴った気分になった。

 凄え嫌な気分だ。

「く、クソ……ッ!」

 父さんを馬鹿にされた気持ちとは、また別のベクトルで嫌な気分だ。

「父さんはな、俺を守ってくれたんだ! 自分の命を掛けて守ってくれたんだ。そんなことができる大人がどれだけいる。父親だからって自分が死ぬ瞬間まで家族の事を想える男がどれだけいるっ!? 俺の父さんはそれができた男なんだ。残してくれた物もある。この場所だって、あのバイクだって俺の宝物だ。それに……父さんは最後に言ったんだ……。その手で守れるものを守れって。これが父親の言葉だ! 母さんを、妹を、家族を、そして俺の命の事も想ってくれた最高の言葉だっ!」


 そこまで一気に吐き出して拳の力が抜けた。

 限界だった、肉体的にも精神的にも……。

 自分で自分を支える事が出来ず崩れるようにへたり込んだ。


「ただ俺が守れなかっただけなんだ……。父さんの言葉を……、せっかく受け取ったのにすぐに手放しちまった。俺が……俺が悪いだけなんだ」

 俺の手では何も守れなかった。

 父さんが何も残さなかったんじゃない、俺が全部――、

「お前はまだ終わっていないだろう」

 え……?

「お前はまだ止まっているだけだ。手が届かないなら足を動かせ。一歩でもいい、それだけで広がるはずだ」

 ペンギン姿の天使は殴った相手を非難するでもなく、その目は強く、力強く俺を見続けていた。


「特別サービスでお前に一つ教えてやる。今のゴールデンアップルズの状況を」

「……? 藤咲たちの」

「今ゴールデンアップルズはこれまでにない苦難の状況にある。悪魔軍の策略により隊が孤立してしまった。天魔大戦はそういった状況も忠実に反映させる。今回の戦場における戦力差はざっと五倍。如何に隊長と言えど、勝つのはおろか無事生き延びることすらも厳しい状況だ」

「そんなっ、それじゃあ今回死んじまったら藤咲たちの今までの戦いが……」

「当然リセットされる。例え理不尽な戦闘であってもこれは戦争だ。結果が全て、例外は無い」

「そんなことになったらあいつらが目指しているものが……、ただでさえ僅かだった希望が消えちまう。それだけじゃない、今を生きる希望すらも無くしちまうかもしれない」

 富良乃さんと話した時に「覚悟はしている」とは言っていた。

でも覚悟しているのと、実際に体験するのとでは天と地ほど差がある。

 俺には解る。今の俺はそれと同じような心境だから。

「……かも知れん。両分隊長は死をある程度受け入れている節があるからな。だが隊長だけは――それでも諦めたりはしないだろう」

「藤咲はそれでも戦い続けるってのか? 分からねぇ、解らねぇよ。なんであいつはそんなに強いんだ、何があいつをそこまでさせてんだ」

「まだ解らないのか?」

 俺が知っているのはあいつが話してくれた死んだ理由だけだ。

 もちろん生き続けたい理由ってのが別にあるのは分かる。

 でもそれだけだ、それが何かは知らない。知ったところでそれだけ強く戦い続ける理由を理解できる自信も無い。

「分からねぇよ……俺はあいつのことを何も知らない……」

「違うな、知らないのではない。覚えていないだけだ、お前は」


 ぺ天使がおかしなことを言い出した。


「覚えてないって何を……」

「ふぅ、後で隊長にお叱りを受けることになりそうだが仕方がない。この腑抜けには俺にも責任があるからな」


 またおかしなことを言っている。


「まずは貴様が死んだ時のことを思い出せ。貴様の近くに誰かがいたはずだ」

「それは父さんが……」

「違う。貴様は父親と別れた後、一人の少女と出会った。同じく震災の影響で独りぼっちになっていた幼い少女だ」

「女の子……?」

 なんだ? 言われて何か……。

 頭にぼんやりとだが小さな人影が浮かんだ。

「泣き続けていた少女に貴様はその手を差し伸べた。少女はその小さくとも、その優しい手を握り返した」

「俺の手が掴んだもの……」

「救われたのだ、その少女は。守ったのだ、その手は」

 子供の頃の、今よりもずっと小さな手を思い出す。

 そして、その手が掴んでいた先を――。

「悲しいかな救えたのはその少女の命だけだったがな。それでも貴様は守った。どうだ? まだ思い出せないか、その少女の姿を。いいか、その少女の名前は――」


 りんごちゃん……?


「女性の名前を間違えるとは、ましてや忘れるなど男として恥ずべき事だぞ。まあ、貴様の場合は仕方がないか。転生猶予のルールが二人を引き裂いた。神の――いやこの世界の理不尽な都合か……」

「どういうことだ……?」

「転生猶予の期限が切れ、この世界から消える時、偽りの命の記憶は全て消える。逆を言えば期間中は偽りの記憶に支配される。お前も、そして彼女を含めた世界の全ても」

「それが何に……」

「この世界は必ずしも人に優しいだけの都合いい世界ではないということだ。彼女が生きるにはお前の命が必要だった。お前が生きるには彼女との離別が必要だった。決して交じり合うことがない運命をお前たちは背負わされた。故に彼女は生きたお前を認識できず、またお前も記憶を失くしてしまった」

「これが本当の記憶? あの女の子が藤咲凛子?」

 ペンギン天使の言葉で頭の――心の中の錠が解けていくようだった。

「彼女の強さが解ったか? 彼女は二人分の命を生きてきたのだ。お前に助けられた命にお前自身を重ねて」



 思い出した……あの時のことを、地獄のような世界を二人で手を繋いで歩いた。

 あの子がいてくれたから俺は父さんの言葉を思い出して必死に歩けたんだ。


「あいつは俺のせいで今もこんなに……」

「彼女はお前を重荷になど微塵も感じてはいないぞ?」

「違うっ! これじゃあ、あいつを救えていない。守れていない! あいつは今も苦しんでいるじゃないかっ!」

「ならどうするか、言われなくてもお前になら解るだろう?」

「そんなもん一つしかないだろっ! でも、どうすればいいか……。今の俺には――っ!? おい? お前、体が……」

 ペンギン天使の姿が、光の粒子となって少しずつ薄くなっていた。

 天魔大戦の時の転送とは明らかに様子が違っている。

これじゃあ本当に消えてしまうみたいで――。

「……どうやら天使としての領分を聊か踏み越えてしまったようだな」

「何言っているんだ? それって」

「構わんさ。天使になってまで成し遂げたかった用事は既に済んだ。心残りはもう――無い」

「天使に……」

「天使も転生先の一つに過ぎないと言うことだ。もっともお前にはまだ不要な情報だと個人的には嬉しいがな」

「お、おい……まさか」

「なので必要だろう情報もくれてやる」

 突然スマホが鳴った。

 慌てて確認すると天魔大戦の参戦確認通知が届いていた。

 場所はよく見覚えのある名称が表示されている。

「残念だが転送機能までは付いていない。そこまでの権限は元から持ち合わせていないのでな」

「えっ? それじゃあどうすれば」

「言ったろう。手が届かぬのなら足を動かせ。お前は一度経験済みではないか」

「――っ! そうか、分かったよ!」

 スマホを強く握り締めた。

 不思議と限界を超えていたはずの身体に力が戻っていた。

 それだけじゃない、きっと心にも。


「でもどうしてあんたは、そこまでしてくれるんだ……?」

 自分の声が震えているとはっきり判った。

 俺の中で出ている答えがそうさせていることも。

「そうだな遅くなったが誕生日プレゼントだ。内容は少し微妙な物になってしまったがな」

 ペンギン天使の姿はもうほとんど残っていなかった。

「……そんなことねえよ。俺が今一番欲しかった物だから」

「……十七歳の誕生日おめでとう」

「くそったれ……やっぱりあんたは……」

 頬に流れてくるモノが止まらない。

「ここもそうだが、あのバイクを使ってくれていたのは嬉しかったぞ」

「あんたは……やっぱり俺の……」

「最後に一つ。お前の手はお前が思っている以上にきっと多くものを守れる。自信を持て、お前は俺の……なのだから」

「父さ――」


 俺の言葉は途中だったのにペンギン天使の姿は消えてしまった。


 最後に人の顔が見えた気がした。

 それは十年間忘れたことのない、若いままのヒーローの顔にそっくりだった。

「――ありがとう」



 いつの間にか体力は全快と呼べるほどに戻っていた。

 俺は全力で祖母ちゃんの家に戻り、一言だけだが挨拶をして父さんのバイクに跨った。


 俺がこれから目指すのは天陵高校。

 そこがゴールデンアップルズの……今度こそちゃんと守らなくちゃいけない女の子が、今も必死に戦っている場所だ。



 胸の奥ずっと感じていた、重かった何かは消えて無くなっていた。


 違うな、あの時の痛みは何かがあったから感じていたんじゃない。

 そこにあったはずのモノが無くなっていたから、忘れていたから――ずっと苦しかったんだ。


 だから今はもう何も怖くない。



第六章・大和編 ~ 思い出したのは大切な記憶 ~


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