第6話 幼馴染み
――厭な予感しかない。
立花壮介は滑るように動かしていた万年筆を止め、目の前の窓に目をくれた。
白い太陽が眩しくて一瞬目を細めた。
『健?』
二十年来の幼馴染みで一緒に暮らしている健司の名を口にして、背後を振り返るが勿論本人は仕事に行っている。
先程電話で、同僚と呑みに行くから夕飯はいらないと連絡を寄越してきた。よくあることだから別に構わない。多少健司が抜けていたとしても二十歳を越えた立派な社会人だ、トラブルがあっても自分の頭で考えて行動出来るだろうが、壮介の懸念はそこにはない。
少し思案をして、立ち上がった。
幼い頃から健司は妖に魅入られ易い質で、油断すれば簡単に身体を乗っ取られてしまう霊媒体質であった。
本人は気付いていない。
壮介が全て守ってきた。
立花家は陰陽師の家系である。
と云っても恭仁京家のように国に認可されていない一般の陰陽師なのだが、だからと日本の陰陽師の殆どが所属している大老會に所属しているわけでもなかった。
あくまで親親族が民間陰陽師なだけであって、壮介は陰陽師を生業にしていない。
幼馴染みを守るためだけの力があれば良いと思うし生業にするつもりは毛頭ない。壮介は純文学の小説家として成功していて、何不自由なく生活出来ているのだから問題なかった。
そもそも健司は壮介がそういう能力を持っている事を知らない――筈。
健司の祖父母が陰陽師を毛嫌いしているから、幼馴染み同士であっても会話に妖怪や陰陽師の話が昇る事は皆無だった。
『随分強い妖気を感じるが……例の事件に関係しているのではあるまいな?』
突如、執筆中頭の中に入り込んできた不穏な気配。
小さな蕾ではあるが、蕾であるうちに摘み取ってしまわなければ人間に被害が出てしまうだろう。
副担任を勤めるクラスに恭仁京家の当主がいることを幼馴染みは云っていた。小学生の頃から学校に通えていないらしい、と聞いて健司はどうにかしてあげたい、と毎日口癖のように云っている。
しかし、相手はあの恭仁京一族だ。一介の教師がそう簡単にどうこう出来る存在ではない、と壮介は幼馴染みに過ぎた考えを持つなと告げた。
あまり気分が良いものではない。
余計な事に巻き込まれやしないかと気が気でないのだ。
お人好しな性格で要らぬ争いに巻き込まれやしないかとヒヤヒヤするが、健司はそんな幼馴染みに全く気にする風でもなく首を突っ込んでしまう。
壮介と健司にはもう一人、幼馴染みと云えるべき存在がいる。異例で東京から滋賀に越さなければならないと知ると、彼女は壮介に付いて行くよう頼んだ。
全く地理不案内の健司を一人で行かせるのは心配だ、と過保護に捉えられがちだが、元々滋賀出身で自由に動ける壮介に頭を下げた彼女の判断は正解だったのだろう。
実際、健司は想像以上に生活能力が皆無だったのだから。
掃除も洗濯も料理もまともに出来ない。
部屋は常に散らかっていて、壮介が片付けようとすると、床に散らかっているようにしか見えない紙や書籍の山は健司なりに順序や方程式を成して置かれているのだと、理解不能な言葉の羅列を述べて掃除を拒否してくる。
属に云う、天才の頭をしている、のだろうと壮介は掃除の言葉を頭から排除した。
それにしたって、家事が丸っきり出来ないのはいかがなものであろう。
どこのお坊ちゃんかと思われるが、健司は天涯孤独の身の上なのである。
実の両親は健司が幼い頃に交通事故で亡くなり、健司自身も未だに消えることのない大きな傷を身体に残している。その後、母方の祖父母に引き取られたが二人も健司が高校生の時に亡くなってしまった。
『ふぅ、やれやれ』
暢気な顔で笑顔を見せる幼馴染みは、どんなに辛くても真っ直ぐだ。
そんな健司を二人の幼馴染みは守ろうと誓い合ったのだが、やはり、そんなことになっているのを当の本人は知らない。
眼鏡を外し、長い黒髪を一つに束ね、夏物の若草色の羽織を腕に通してマンションから出た。
どんよりとした空気が街の中を充満している。
空は晴天なのに、だ。
風もカラカラで時折流れては身体を心地よく撫でて行く。
人間妖怪擦れ違う者皆が浮かない顔だ。
猟奇事件に対しての住民達の不安が空気を悪くしているのだろう。壮介は眉間に皺を寄せ、足を速めて健司の仕事場に急いだ。