第8話 慟哭
――寒い。
『……生っ!』
朦朧としている意識の中で、誰かの声がした。
ふうっと息を吐けば、白い蒸気が口から漏れ出る。
――寒い。
身体を密着させている廊下はまるでスケートリンクのように凍ってしまっていた。全身が体温を無くして行くのがじわじわと感じられ、このままでは危険だと警告を発している。
――この感覚、どこかで……?
『先生!! しっかりしてください!』
『――っ!』
大きく揺さぶられて、健司は胃から込み上げて来るものを必死に抑えた。
何が起きたのか分からない。
急に冷えるな、と思った瞬間から今まで意識を失っていたようだ。
『如月先生、大丈夫ですか!?』
『うう……あまり揺らさないでくれますか? 吐きそう』
『ええ!?』
幸子は顔を赤らめ、半袖から見える細い腕を両手で擦っている。
『寒い。一体何があったんですか?』
廊下が端から端まで見事に凍っている。天井からは氷柱が垂れ、丸っきり冬場の装いを呈していた。
『これは明らかに妖怪の仕業としか思えないですよね? 職員室も急に寒くなって、怖くなったんで如月先生の所に行こうと思って――でもここら辺が一番寒い』
上体をどうにか起こし壁に凭れると、頭痛が酷い。
低く呻くと幸子は心配気に顔を覗き込んできたが、それに応える余裕はなかった。
『き、救急車呼びましょう』
『それより……逃げる方が先です……』
『でも、如月先生お倒れになっていたじゃないですか! 怪我しているんですか? 誰にやられたの!?』
『それが全く覚えてないんです。それにこんな異常、俺達じゃ対処出来ない。外に出た方が良い』
立ち上がろうとしても、足が麻痺を起こしてしまっていて思うように動いてくれない。
そうこうしているうちに視界の端、廊下の先に白く蠢く何かが見えた。
――ドコ?
『何だ?』
『は、早く……』
――クニキョウ……ハ、ドコダ……。
頭の中に声が響く。
『な、何この声!?』
幸子も蠢く何かに視線を向けた。
ゴソゴソと、白いボヤけた、巨大な。
――クニキョウ……ハドコダ……。
『い、嫌っ!』
逃げようにも恐怖で足が縺れてしまっている。
幸子一人で逃げるのが困難だと判断した健司は、手首を掴み自分の背後に引っ張った。
『俺の後ろに隠れて!』
背中にぴったりとくっついてきた幸子の体温を感じるが、恐怖と寒さで震えている。
白い、白い巨大な狼。
天井スレスレだ。
――クニキョウ……ハドコ……。
狼と云うよりは顔立ちは犬に近い。
黒い鼻をヒクヒクさせて天井やら床やらの臭いを嗅いでいる。
――クニキョウ……ニヲイ……スル……。
『クニキョウ? 恭仁京のことか? もしかして猟奇事件の妖怪か?』
『そんなっ!?』
『シッ、静かに』
凄惨な事件は大きく報道され、連日警察OB達が犯人の推理合戦を繰り広げていた。
その犯人と思われる妖怪が今、目の前にいる。
大きな口の中には鋭く尖った牙が無数に生え、咬まれたら一溜まりもないだろう。
『くっそ……』
ゆっくりと太い脚を二人の人間に向けて歩いて来る。犬が歩を進めるのに呼応して健司の頭痛も酷くなるばかりだ。
――クニキョウ……ハドコダ……。
『く、恭仁京はここにはいないっ!』
健司は震える声を押さえ、禍々しい気配を纏った犬に云った。
その禍々しささえなければ犬は美しく神々しい獣に見えるのに、と健司は場違いにも頭の片隅で思った。
グルルル、と喉を鳴らし足を止めると、健司を見詰めた。
青い瞳だ。
『こ、言葉通じるのか? 恭仁京はここにはいないぞ、だから……』
しかし、次の瞬間、犬は口を大きく開けて健司の目の前にいた。
『!!』
一瞬だった。
一瞬のうちに巨大な犬は目と鼻の先に移動し、健司の匂いを嗅ぐ仕草を見せた。
背後で幸子の悲鳴が聞こえる。
『チガウ! オマエハチガウ! ミチヨデハナイ!!』
『!?』
背中と腹部に重い衝撃を感じると、気付いた時には健司の視点は犬と幸子を見下ろしていた。
『あ……?』
『先生っ!!』
象の大きさに匹敵する犬の太い脚の攻撃を喰らい健司は天井に叩き付けられ、身体中を軋ませながら廊下に落下した。
『ひっ!』
幸子の短い悲鳴。
天井にはヒビが入っている。
犬は黒い鼻をヒクヒクと動かし、健司の動かない身体に押しやった。
ドクドクと健司の口から流れる赤い血が、凍った廊下を染めていく。
『ミチヨ……ミチヨ、ドコ?』
おどろおどろしい声ではなく、幼児が母を求める甘えた声。
『……お、前、ほんと、は……』
甘える犬の首筋を撫でる。
――寂しかったのか?
キュウキュウと身体に似合わず甘えた声を出してきて、健司の恐怖はどこかへ吹き飛んでしまった。
『クニキョウアイラ、ドコ? ミチヨ、ドコ?』
きっと、この妖怪にとって大切な人物なのであろう。出来るなら手助けをしてやりたい。
だが。
『ごめん、な? 俺、には分からない……ご、めん……』
パタリと、首筋を撫でていた腕が地に落ちると、狼はもっと撫でろと落ちた腕を動かそうとした。
『あれ? おかしいな。俺の術が解けちまったのか?』
すっとんきょうな声が廊下に反響した。
『どういうことだ?』
妖怪の背後にいつのまにか若い男が立っていた。
金にツンツンと髪の毛を天に向けて尖らせ、尖端に触れたら痛そうだ。耳には大量のピアス、指や首元にシルバーアクセサリーをジャラジャラと身に付けている。
震える幸子には目もくれず血の海に沈んで意識を無くした健司を見下ろすと、俯せの健司を軽く蹴り顔を覗き見た。
『うん? 見たこと無ぇ顔だな。どこかの陰陽師なのかと思ったが……ムカツク顔してんなぁ』
『や、やめて……如月先生に触らないでっ!』
『ああん? おいおい何だよ、犬ッコロ! まだピンピンしてる奴がいるじゃねぇかよ!』
しかし牙を剥き出して金髪の男に威嚇した。
『オマエ、チガウ! アルジ、チガウ!』
『はっ!? てめぇの封印を解いてやったのは誰だ? 俺だ、てめぇの主は俺なんだよ!』
そう云って両の指を複雑に絡めた印を胸の前で組んだ。
『ご主人様の云うことは、ちゃぁんと聞けって前のご主人様に云われなかったのか!? 犬ッコロ!!』
結んだ印が白く光り、犬は苦しそうに悲鳴を上げた。
『ギャァゥン!! イヤダ! ミチヨハコンナコト、シナイ!! シナイ!!』
『五月蝿ぇ! また封印されてぇのか!?』
『フウインヤダ! ミチヨ、ミチヨ、ドコッ? ドコイッチャッタノ!?』
『やめろっ!!』
『!?』
男を背後から羽交い締めしたのは、血塗れの健司だった。
『この死に損ないが! 放しやがれ!!』
男の肘が健司の脇腹に入る。
『ぐぁっ!』
健司が倒れると同時に男の視界に複数の人影が走った。
『先生っ!』
人影の中心にいるのは上総だ。
『おいおいおい、ありゃ恭仁京の坊っちゃんじゃねえか。ラッキーじゃね?』
倒れて起き上がれない健司の頭を足で踏みつける。
『右京、女の人を!』
『オッケー!』
並走していたおかっぱの烏天狗が離れ、腰が抜けて動けない幸子に駆け寄る。上総は幸子と面識が無いから音楽教師の存在を知らない。
『怪我はない? 立てるかしら?』
『ああ、はい……』
もう安心よ、と立ち上がる手助けをした。
『恭仁京の坊っちゃぁん、どうしてここに来たんだい?』
金髪の男が下品な笑いを見せる。
『確か当主の坊っちゃんは、この件から外されてる筈だぜ。だのに何故ここに来た?』
大老會の事情をどうやら知っているらしい。
不快感を顕にすると、男はゲラゲラと大笑いした。
上総の隣で任務から戻ったばかりの左京が体勢を僅かに低くし、主人の一言で直ぐに男に攻撃を仕掛けられるよう身構えた。
『占術です。次に襲撃される場所を占っただけです』
『フン、噂通りに占術だけは得意というわけか』
『……何者、ですか?』
足元の健司が心配だ。
凍った廊下に反射してか、やけに蒼白い顔をしている。
『可哀想になぁ! 俺等のこと聞かされてねぇのかよ。あのご大層有名な恭仁京一族のご当主様なのによぉ!』
先程からやたら気に障る言葉だけを羅列している。
『まぁ、教えてやっても良いけどよぉ、その前に訊きたいことがあるんだよ。それに答えてくれりゃ、さっきからチラチラ気にしてるこの男を解放してやってもいいし、出血大サービスに俺等のことを教えてやってもいい』
足に力を入れたのか、ミシミシと音がして健司が呻いた。
左京が隣で舌打ちをしている。
あり得ない程の殺気が隣から犇々と伝わり上総は違和感と共に、限り無い恐怖を左京から感じ取った。
このまま続ければ、逆に金髪男の方が命が危ういかもしれない。
しかし、そんな左京を嘲笑うように男は余裕綽々としている。
男の訊きたいこととは、どうせ恭仁京家の裏事情であろう。そうなれば上総の話せることは限られる。
上総は苦虫を噛んだ。
人質を捕られていては下手に動けない。
『坊っちゃん、大老會に相手にされずにご立腹なんだろ? ここで俺等の存在を知れば除け者にしてきた大老會にあっと云わせることが出来るんだぜ? 悪い話じゃぁねぇだろ』
『……――』
黙っているのが同意と判断されたのか、男は質問を始めた。
『まずは、そうだな。『恭仁京家の呪』についてから訊こうか?』