1-4.日常の崩落
日本の社会は縦構造だと聞いた覚えがある。
ひとりひとりの役割が明確であり、上下関係がこれ以上になく重視され、言われたことを疑問なくこなす人間性を問われるのだ。それは、さながら主従関係とも言えるのではないだろうか。
人生に負け組、勝ち組があるように人には飼う側と飼われる側が存在する。飼う側は強者で、飼われる側が弱者だ。飼う側と、飼われる側の違いは権力と金の多寡。それが単純にして明快な解答だろう。
多くの人間は飼われる側である。会社や主といった者に犬の如く付き従っているのだ。
そう、犬のように……。
真冬に差し掛かった季節は想像以上の寒さを運んでくる。例年より厳しく感じる気温に、吐く息が白く凍る。子供の頃は無邪気に見れたそれも、今や寒さの証左に他ならず嘆息するばかりだ。
夜の駅は混雑していた。記憶では平日である筈と疑念に思うも、腕時計を見て得心がいく。どうやらラッシュアワーに巻き込まれたようだ。
学生服のうえにコートという、他の学生と遜色のない格好。周囲からの視線は一切ない。場に完全に溶け込んでいた。そのまま雑踏の中に足を踏み出し、同化する。
混雑の中を縫うようにして歩いていく。一歩進むたび、外界と隔絶されていく気がした。姦しい声、忙しない音が遠く聞こえる。だからだろうか。
僕は、自分の携帯が鳴っていることに気付かなかった。
「……真白です」
やや、遅れて通話に出る。
押し殺すような、低い声が通話口から響いてきた。
「本條か?」
苗字を耳にした瞬間、目がつり上がる。この感情は御しえない。
「津田島だ」
相手も、自分も分かりきったことであるのに男は慇懃に名乗った。
「どうした? 遅かったではないか」
重低音が漏れる。少し、機嫌を損ねてしまっただろうか。外界と隔絶した世界の中で、体温が冷えていくのを感じた。
「雑踏の中で揉まれてまして」
「ふむ。そうか。お前の手落ちだな?」
どのような言い訳も、この男の前で意味を成さない。返す言葉もなかった。
「まあ、いい。だがしかし! 常に背後に気を付けろ。お前の代わりは幾らでもいる」
「……」
僕の後続は、掃いて捨てるほどいるのだろう。津田島の声音がそう告げている。
いつしか、僕は雑踏の中で立ちつくしていた。周囲から怪訝な視線が向けられる。それに、押されるように再度歩き出した。
足が重い。
「比較され、敗北した者の末路ほど惨めなものはない。分かるな?」
「はい」
「幸福とは、他者を蹴落とし不幸に陥れることで初めて得られる。……母を、救いたいのだろう?」
「……はい」
相変わらず、痛いところを突いてくる。
通話口から満足気な息が聞こえてきた。
「本題に入ろう。包み隠さず単直に言う。魔女が攻めてきた」
今度こそ、足が止まった。背後の人とぶつかり、何か文句を言われた気がしたが聞こえない。
全て、遠い世界の出来事のようだ。視覚も、聴覚も置き去りにした気分だった。
ただ、寒さだけが身に沁みる。
追い討ちのように、電話口から声が響く。
「真白、たった今お前の位置情報を取得した。戻れ」
「戻る、ですか」
「その街に魔女がつい先ほど確認された。魔力が解放されるまで認知されなかったため、大分奥まで侵入してきている」
裏を返せば、認知されることを覚悟で魔力を解放したということは。
最悪の想像が脳裏に過る。
「現在、日本海にて魔女らしき影が多数確認されている」
舌打ちしたい気分だ。普段は歪まない表情が苦痛に引きつっていく。
「その街にいる奴は斥候だろう。すぐさま殺害しろ!」
魔女を相手に、この男は勝利しろという。何の前触れもなく、唐突に。
冷徹な声が聞こえる。
「上はお前を試したがっている。これは謂わば、本條真白という兵器の運用試験だ。結果を出せ。朗報を期待しているぞ」
何も返さない。それを了承と捉え、津田島は通話を切った。接続の切れた音の後、不通の音が鳴る。
……敗北は許されない。最低でも、勝ちはしなくともそれに見合うものを持ち帰らなくてはならない。
————母を、救いたいのだろう?
男の声が脳内に反響する。そうだ、僕は母を救わなければならない。本條という名の男から。
そのために、僕は決心した筈だ。全てをそのために抛つと。
……世の中には、二種類の人間がいる。飼う側と、飼われる側だ。飼われる側は犬にも等しい家畜にならなければならない。
個人と、社会に従わなくてはならない。
そして、僕は犬だった。
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