1-1.日常の崩落
世界は一度滅びかけた。それを語るには、まず、かつて世界が抱いていた価値観について説明しなければならない。
――約70年前に戦争は終わった。世界に戦禍と業をまき散らした大戦は平和条約の下に終結し、人類は共に手を取り平和への道を歩みだした。
それから幾年幾月の時を経て、人類の平和は経常化しつつあった。誰もが当たり前のように平穏を享受し、そこに何の感慨も抱かない。人の適応力が高い、時の流れとはこのようなものだと言ってしまえば簡単だが、昔日に散華した英霊からすれば遣る瀬無いにことであるに違いない。
そのような状況下に置かれていた人類は、いつしか戦争の記憶を忘れ、形骸化した伝承だけを残していた。当時を知る者は少なく、既に故人となった者も多い。
戦争への気概を忘却し、忌避感だけを抱く――所謂、平和ボケという状態に陥っていた世界は、それゆえに突如として現れた敵に迅速に対応することができなかった。
『世界は私たちに冷たい。中世から続く魔女狩りは終わらず、犠牲は拡大するばかり。故に私たちは宣言する! 魔女が世界を支配するため、この世界には死んでもらう!』
一年前、ニューヨークのタイムズスクエアの電光掲示板がジャックされ、銀髪の少女の宣告が市街に木霊した。それは、事実上の世界への宣戦布告。
当初、誰もが悪戯や新参テロリストの行いと思っていたが、その思惑は直ぐに外れた。
少女の宣言と時を同じくして、世界各国でテロが発生したのだ。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国、それぞれの首都が同日に焼け落ちた。世界の根幹を成す、国際連合の常任理事国が次々と襲撃され世界の動きは減速した。少女が世界へ宣戦布告したニューヨークのタイムズスクエアも例外ではなく、今やあそこは灰都と化している。
世界の軸を揺るがした魔女は次にヨーロッパを襲撃するが、各国からのホットラインが通じたおかげで欧州連合はいち早く対応することができ、壊滅を免れた。
だがしかし、魔女が世界の情報を一時的にせよシャットしたのは確かであり、世界の連携が瓦解した所為で日本に詳細が伝わったのも事が起きた翌日のことだった。
魔女との戦争が開戦してから一週間後に国際連合加盟国が招集され、魔女を世界共通の敵とみなし、しがらみを超えて各国が協力することに相成った。そして、現在も交戦を続けており、舞台はヨーロッパとアメリカとなっている。
日本は魔女の出現に対し、戦争に関する法の改正を試みているが遅々として進んでいない。
まあ、所詮はそんなものだ。世界共通の敵といっても、日本は未だ被害を被っていない。言わば対岸の火事に過ぎないのだから。
ただひとつ変わったことがあるとすれば――
「なあ、真白! そろそろ護身術の授業が始まるぜ」
義務教育のカリキュラムに、体育に代わる護身術が追加されたことぐらいか。近頃は魔女の影響を受けて物騒な輩も増えたからね。
僕は細く目を開ける。薄らと視界に入るのは、教室内を慌ただしく動く生徒の数々。蛍光灯の控えめな明かりが煩わしい。
自重を全て背もたれに預け、左手には栞の挟まれた文庫本。右手はだらしなく宙を泳いでいる。個人にとって幸福と思える時間と態勢。それが一声で破られる。
種々雑多な声が入り乱れる中、僕の耳はひとつの濁声を拾っていた。
「真白? おーい、寝てんのか?」
「起きてるよ」
ため息をつき、顔を横に向ける。すると、憎々しいほど晴れやかに笑う友人の顔が目に入った。
読みかけていた本を閉じ、立ち上がる。
「時間は把握してる。早めに行くの?」
「おう! なんてったって、次の授業は俺の唯一の得意科目だからな!」
「そう。じゃあ行こうか」
あまりにも肩すかしなリアクションに、友人の顔が数瞬の間呆ける。褒めてもらいたそうな顔をしているが、褒めると調子に乗って面倒だ。
鞄から体育着一式の入った袋を取り出して、友人を……柿崎敦彦を見遣る。彼の右手には僕と似たような袋が握られている。準備はできているようだ。
教室を出ようとすると、不意に敦彦の足が止まった。忘れ物でもしたのかと振り向くと、そこには痛い痛いと呻く友人の姿があった。その背後には、青髪の少女が冷ややかな眼差しを浮かべている。
派手に染められた髪を掴む少女は、勢いよく敦彦を引き寄せると眉間に皺を形作った。低い声が流れる。
「ねえ、敦彦。あんた課題出した?」
「へ? 課題?」
「数学の課題よ。あれ、クラスの中で一人でも提出遅れたら怒られるの私なんだから。当然持ってきてるわよね?」
課題のことを尋ねた時点でその結論は明白だろう。柳眉を逆立て、鬼気迫る笑顔で問われる敦彦の表情から土気が消えた。
「あんただけ、まだ出されてないんだけど?」
笑みを浮かべたまま人を怒るという器用な真似をする彼女の名は菱沼藍華。所謂真面目系女子。男女ともにチャラついた人間多いこの時勢で、彼女のような人間は珍しい。
珍しいといえば、あともうひとりいる。
僕は視線を横に逸らす。廊下の先から茶髪の少女が駆けてくる。
「あれ、みんな何やってるの?」
「端的に言うと、敦也が数学の課題を提出してないせいで藍華がキレてる」
「京子ちゃん、助けて!」
悲痛な叫びを上げながら敦彦が手を伸ばすが、京子さんは見向きもしない。敦彦の顔からとうとう希望が失せた。なされるがままに藍華の暴力を受け入れている。
栗栖京子。それが彼女の名前。藍華とは打って変わり、あまり細かいことを気にしない性格だ。彼女の中では敦彦は細かいことに分類されているのか、彼を助けたことは一度もない。それは僕も同様だが。
「あっ。そういえば私昼休みにクッキー作ってきたんですよ」
嬉々とした表情で、胸元に抱えていたタッパーの蓋を開ける。柔らかい香りが鼻腔をくすぐる。口内で盛んに唾液が分泌される。匂いからして美味しそうだ。
敦彦を殴る藍華の手が止まった。
「これ、貰ってもいいの?」
「いいですよ~」
京子さんの言葉を聞いた瞬間には手が伸びていた。クッキーを摘まんで頬張る。舌に触れただけで甘さが口内に満ちていく。あまりしつこくない、それでいて甘さを主張する味。食感も程よくクッキーの特徴を前面に押し出している。
口元に微かな笑みが浮かんだ。
「真白が笑った!?」
「これは相当な美味しさということかしら」
人が笑っただけで騒ぎ立てる連中を放っておいて、二つ目のクッキーに手を伸ばす。
「美味しいですか?」
「うん」
「なら良かったです」
横目に、もっとなんか言えよといった感じの文句を顔面に張り付けた二人が映る。あまり多くを語る必要はないと思う。寧ろ、感想を多くつけようものならテレビの食レポみたく途端に嘘くさくなる。美味しいものは美味しいと一言いえばいい。
なんていうのは持論であって、他人に押し付ける気もないので僕は黙ってクッキーを頬張る。
僕が順調にクッキーの数を減らすのを見て、慌てて敦彦と藍華がひとつずつクッキーを摘まんでいく。
「美味い! こう、なんというか、美味いよこれ!」
「美味しいと表現する他ないわね。他の文句なんていらないわ。シンプルに美味しい」
奇しくも藍華と意見が一致した。美味しいものに余計な言葉は要らない。敦彦のはただ語彙力が欠乏しているだけだ。
みんなが口々に美味しいとクッキーと共に口にするのを聞いて、京子さんの顔が綻んだ。
「あ、ありがとう。……ところで、先ほど敦彦くんから遊びの約束を受けたのですが、よかったらみなさんもどうですか?」
照れ隠しなのか、話題を転換させる京子さん。次いで、敦彦の顔が曇る。
……敦彦は京子さんと二人で遊びに行きたかったのだろう。京子さんはそういうとこ読めないから、あらかじめ真意を伝えておくべきだったよ敦彦。
「そ、そうだな。遊ぶならみんなと一緒の方がいいよな!」
敦彦が顔を引き攣らせながら賛同する。僅かながら憐みを覚えてきた。
その背後で藍華が再び怒気を立ち上らせている。敦彦は完全に課題のことを忘れている。一方的なバイオレンスを予期した僕は、釘を刺すように藍華に告げる。
「まあ、元は敦彦の責任だから。怒られたらあいつに責任を擦り付ければいいよ」
「……それもそうね」
「え? なんのこと?」
納得する藍華の横で、敦彦が疑問符を浮かべている。やはり課題のことは頭から消失しているようだ。鳥頭という単語を連想する。まさに彼に相応しい。いや、三歩も歩いていないからそれ以下か。鳥に失礼だったな。
「じゃあ、三人で楽しんできてよ」
ひととおり敦彦を貶したあとで、僕は三人に手を振って言った。不思議そうな顔をする彼女らに、用事があるからと二の句を継ごうとする。
「僕は――」
「何言ってんだよお前も来るに決まってんだろ?」
「ってか、来なさいよ」
「真白くんがいた方が良いと思うなぁ」
三人一様に同じことを言われ、閉口する。紡ごうと喉元まで出かかった言葉が雲散霧消する。こうなった彼女らは頑として譲らないことを僕は知っている。
仕方ないと割り切り、あとで用事の相手に断りを入れることを頭の片隅に留めておく。
「じゃあ、敦彦の奢りということで」
「え?」
「あ、それ賛成」
「私も賛成」
「え、いやちょっ!?」
「何よ、異論は認めないわよ。奢れ」
敦彦が恨めしそうにこちらを睨む。君が撒いた種なんだから自分で回収してくれ。
僕は視線を逸らして教室内の壁時計を見た。時刻は12時59分。授業開始まで一分もない。教室内にも人気はなく、既にみんな出払っているようだった。
三人を見遣るも、誰もそのことに気付いた様子はない。敦彦が無残にも財布の中身を確認させられている。
時間が迫っていることを伝えるのも面倒なので、僕は三人を置いて廊下を駆け出した。
背後で三人が驚いたような声を上げて……。
授業開始のチャイムが鳴った。
間違いなどあったら教えてくださると助かります。特に人名。
続きはまた今度上げようと思います。
気になる方いらっしゃいましたら、催促してくださると早めに出すと思います。